第2話 先輩の家を訪った話

 人は忘れる為に明日を生きるのだと思っていた。

 そういう悲しい生き方を肯定するだけの事情が私にあるとは思えないけど、肯んじることよりも否む理由がなかっただけなのかもしれない。

 ただ、思い当たる節があるとすれば、それはこの世の中に掃いて捨てるほどあるよくある話が私の身にも降りかかったという単純な理由が一つだけあるのみだ。

 なんてことない、一人の馬鹿な女が、男に裏切られただけの、よくある話だ。


 レテを見ると、申し訳なく思う時がある。

 孤独に耐えかねて飼ったというのに、忘却という名前をつけて、忘れ難い過去を忘れようとしているのだから。

 だから、この黒猫が布団の中に入ってくると、不意に私を裏切った男が思い出される。

 女々しいとは自分でも思うけど、レテは賢いので慰めるように私の頬を舐めてくれるのが私の心を幾分か楽にしていた。


 そんなことを毎晩繰り返して、研修期間を終えて配属された先で私の教育主任になったのが、和泉先輩だった。

 怜悧な視線と、細身ながら決して痩身という訳ではない均整の取れたスタイル、それから社会人らしいショートボブは、まるで宝塚の男装をしている役者のような凛々しさがあった。

 パンツスーツが恐ろしく似合う、カッコ良い女性だと、私は目を奪われた。


「じゃあ、ここで待っててね」

 頷く代わりに一声鳴いたレテを公園に放つと、私は住宅街を当てもなく散策し始めた。

 レテは賢い。見知らぬ場所でも、私が戻るまではウロウロせずに待っていてくれるし、なんなら自転車でここまで来たけど、レテなら道を覚えて勝手に家に戻っていても驚きはしないだろう。

 いつだったか、先輩のデスクの上に置かれていた定期入れを目にしたことがあった。

 そこに書かれていた駅は、私の家のある最寄駅とは路線は違えど自転車で一時間程度も走れば着く場所で、なんとなくそれを覚えていただけだった。

 我ながら、ストーカーみたいだなと自嘲する。

 一言お礼を言いたくて、彼女を探し求めてしまう自分は、恨みも感謝も忘れられない、執着心の強い人間なのだろう。

 とはいえ、先輩の最寄駅を知ったところで、出会える可能性はかなり低い。

 アパートの郵便受けの名札をチェックしたり、人通りの多い道に出て見渡してみたりしても先輩の姿は無かった。

 これまで世話になった礼を言えないことよりも、もう会えないことの方が悲しく思える自分に少し驚いてから、もっと先輩のことを知りたかった、と思う自分を自嘲した。

 本当は、私はお礼を言いたいんじゃなくて——。


 今日のところは仕方ないから諦めて帰るか、とレテを回収しようと公園に戻ると、レテと戯れている女性がいた。

 初めは、人懐こいとはいえ初対面なのにあそこまでレテが気を許すとは珍しいなという感想しかなかった。

 しかし、レテに向けている声はどこか聞き覚えのある。というより、和泉先輩だった。

 思わず顔が綻ぶ。先輩の茶目っ気のある一面を見れた喜びと、憧れていた先輩にもう一度会えた喜びが混ざって、変な笑顔が浮かんでいたことだろう。

「……先輩?」

 もう一度彼女を先輩と呼べたことが、こんなにも嬉いことだなんて思いもしなかった。

 どこか気まずそうに振り返る先輩を見て、ふと、思い出す。

 私だけが知る彼女の不器用さを。


 ◇


 藤澤ふじさわさんという、会社のお局さんがいた。普段は子供の世話があるからと定時にすぐ帰るのだけど、その日は子供が修学旅行でいないとかどうとかで、半ば無理矢理飲み屋に連れて行かれた。

「で、どう?和泉さんの下について」

 既に彼女はレモンサワーを四杯も飲んでいて、酔いが回り始めている。私は飲む量をセーブしながら、渇いた笑いで藤澤さんの世間話に付き合っていたのだが、私の頼んだ二杯目の緑茶ハイが来たところで話題は先輩に変わった。

「ミスしてもフォローしてもらったりで、優しくしてもらってますよ」

 確か私はそんなことを言った筈だ。その時の私が先輩に抱いていた印象は無論そういう部分もあったが、同時に冷たい人だとも思っていた。

 仕事以外の話を振っても続かないし、業務時間以外で会話をした記憶すらないのだ。それに、ミスを重ねても怒る気配が無いので、私はもう見放されているのだとも思っていた。

「そうかい?なら、あの子の相談に乗ってよかったよ」

「えと、和泉先輩が何か相談されたんですか?」

 私があまりに部下として使えないから、そんな相談でもされたのだろうか。不安が頭を過るが、藤澤さんは何かを思い出したようでレモンサワーを飲んでから笑い声を上げた。

「和泉さんとこの前飲みに行った時にね、あの子ベロンベロンに酔っ払っちゃったのよ。その時、後輩に見栄張りすぎて嫌な思いさせてるとか、何を話せばいいのか分からない、とか言いながら泣いちゃって」

 入社した時から泣き虫なのよあの子、と藤澤さんは笑った。


 そんな話を聞いて以来、私は先輩に対する印象が変わった。

 振ってくれる仕事もよく考えると、ある程度先輩が整えてくれていたり、ミスをした後は怒らない代わりに同じミスをしないように機を見てやんわり助言してくれたり。

 先輩のデスクにある一冊のノートには、私に振った業務の出来栄えや注意点、評価点などをまとめていて、それを上司に提出しているのも知った。

 不器用だけど、そこが可愛らしいし、カッコいい人だと思った。

 早く先輩の役に立ちたい、そんなことを思うようになって、毎日の仕事にやりがいを見つけて、そうしている内に、すっかり私を裏切った男のこととか、上京して友人も恋人もいない孤独感とかはすっかり忘れていて。

 上手く言葉にできるか自信はないけれど、そういうことをひっくるめて、お礼を言いたかった。


 だけど——


 ◇


 先輩を知りたいという想いが膨らんで、なんとなくどんな場所に住んでいるのだろうと興味が湧く。

 それに公園で頭を下げて感謝を告げるというのも、少し躊躇われた。だからストレートに家を見たいと言うと、存外にあっさり承諾してくれた。


「——じゃあ、一緒に住もうか」

 そうやって上がり込んだ先輩の部屋の中で、彼女の言葉は、私に一つの真実を教えた。


 人は忘れる為に明日を生きるのではない。

 多分、忘れない為に明日を生きるのだろう。


 だって、何となく気づいていたけど見て見ぬふりしてきた先輩へのこの気持ちを、誤魔化すなんてもう出来やしないのだから。

 当然、それを忘れるなんて以ての外だ。

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