私と君と忘れ水【完結】

カエデ渚

第1話 後輩が家に来た話

 影の中に、二つの目があった。

 一つは青色、もう一つは金色。色の違う双眸は、私を値踏みするように私を眺めている。

 オッドアイの黒い猫が、私の影にいつの間にかいた。もう長いことベンチで小説を読んでいたので、地面も他と比べると私の影で冷えているのだろう。

 身体を丸めて寛ぎながらも、影の主である私を警戒していた。

「……そんなに昼間から本読んでる無職が珍しいのかぁ?」

 つい先日勤めていた会社が倒産してしまって、途方に暮れていた私だったが、無理矢理ポジティブに捉えて、半年は休養しようと決めて早一週間。

 幸いなことにある程度の貯金はあるので、無事再就職出来るかどうかの不安さえ何処かに追いやればこれ程呑気な時間もそうあるまい。


「ほれ、撫でさせろよー」

 逃げる気配のない猫に向かって手を伸ばすと、以外にも私の指を受け入れてくれて、気持ち良さそうに首元を撫でられている。

「もしかしてお前人慣れしているな?可愛い奴め」

 調子に乗って抱き抱えて、頬擦りしてみる。

 野良猫にはない、手入れの行き届いている良い匂いがフワフワの毛からする。

「……先輩?」

 聞き慣れた声が背後からしたので、私はビクッと身体を僅かに硬直させた。もし声の主が私の想像通りなら、今まさに猫に向けていた態度を見られるのは非常に気まずい。というよりも、恥ずかしい。

 それでも、振り返る以外に選択肢はなくて。

「……一週間ぶりだね、藤堂とうどうさん」


 会社が倒産する一年前。

 新卒で入社した私は、勤続五年目になっていた。役職は上がらないけど新人教育という仕事は増えるという一番損する年数の私の下についたのが、藤堂さんだった。

 入社当時の私は教育係の先輩から厳しく育てられ、仕事のミスをしてはトイレで隠れて泣くなんてことはしょっちゅうだった。

 だから、新人にはそんな想いはさせないように出来るだけ優しく接してきたつもりだったのだけど、厳しく育てられた私は相手に優しく接しながら仕事を教えるなんて方法は知らなかった。

 だから、彼女がミスしても失敗しても慰めるだけで、注意も指摘も何もせず私がそのミスの肩代わりをすることで、何とかやり過ごしてきた。

 だけどそのせいで、彼女が一人立ち出来るようになったのは同期の子と比べてかなり遅くなってしまった。


 どうすれば良かったのだろうか。

 今でも時々そう思う。

 だけど、やっぱり後輩には出来る先輩だと思われたい見栄があって。社内では常に気を抜かずに私語を一切しない堅物な人を演じてきた。

 そんな後ろめたさもあって、私が猫に対して喋りかけていたのを見られるのはかなり恥ずかしかった。

 きっと藤堂さんは私のことを、「雑談も何もしない堅物な癖に、まともな教育もしてくれなかった先輩」と思っているのだろうから。


「えと、その子、私の飼い猫で『レテ』って言います」

「……あ、ごめんね。はい」

 抱き抱えていたレテを近づけると、自分から飼い主の藤堂さんの腕の中に収まっていった。

「家、この辺だったっけ?」

 会社での飲み会も、帰り道が重なった記憶もない。いや、そんな基本的なことも知らないくらいに、私は彼女と会話を交わさなかっただけなのかもしれない。

「あ……いえ、引越し先を考えてたんです。ほら、無職になっちゃったので……家賃、安いとこ探さなきゃなぁって。それでこの辺を」

 社会人一年目の彼女には、勤め先の倒産は厳しいものがあるのだろうな。

 その深刻さを想像すると、その想像に紐つくように、一週間前のことが思い出される。


 いつも通り通勤すると、会社の前で何人かの社員が社屋に入らず人垣を作っていた。

 会社の扉には張り紙があって、いきなりの倒産宣告を告げている。

 この先どうしようか、と考える間もなく、私も彼女も、他の社員も呆然としていたことだけを覚えていた。私は悩みも不安も明後日の方向にぶん投げてニート生活を満喫することに決めたのだけど。


「そっか……。ペット付きの賃貸ってなると、なかなか無いもんねぇ」

 言いながら、ウチは確かペット可だったことを思い出す。それを思い出したところで、詮無いことだけとは思う。

「まぁ、仕方ないです。ちゃんと躾してても、毛のアレルギーとかで近くにいるだけで辛い人もいますから」

 腕が疲れて来たのか、そう言うと藤堂さんはレテを地面に下ろした。レテは再び涼しいところを求めて、木の影に向かっていき、そこで身体を丸める。

「なんでこの辺に住もうと?」

「え……えと、その。せ、先輩がここら辺が住みやすいって」

 はて、そんなこと言ったっけなぁ。もしかしたら飲み会の席で言ったかもしれない。仕事中は、業務の話以外は振らないように気を付けていたし。

「で、いい家見つかった?」

「あ、あの——っ!」


 罪滅ぼしなのだろうか。

 私の家を見てみたいと言った彼女の心理はもとより、その要求に対してすんなりと頷いた私自身の心理もよく分からなかった。

 レテは随分と賢いらしく、そこら辺に放していても時間になれば自ずと戻ってくるというが、私の方が心配してしまって、ついでにレテも私の家に招待した。

 昨今の事情に合わせて数年前に引っ越した我が家は2DKだ。そのうち一部屋はテレワークに合わせて仕事部屋にしたのだけど、最近はテレワークも無くなり、完全に無用の長物と化している。

 とはいえ、来客用に一部屋あるのもいいかもしれない。寝室兼リビングの部屋は、ものぐさな私の性格を反映するように、酒瓶やら寝巻きやらがそこら辺に散乱している。

 そのため、比較的綺麗な仕事部屋に彼女を通した。

「コーヒーでよかった?」

「あ、いえ、お気遣いなく」

 そうは言っても、もう淹れてしまった。レテはコーヒーの匂いが好きなのか、ローテーブルの上に飛び乗ってマグカップに鼻を近づけている。

「なんていうか、先輩が家に上がらせてくれるなんて、思いませんでした」

「……ん、そうだね。私も結構ビックリしてる。会社が潰れたからかな、藤堂さんのこと、仕事仲間じゃなくて、プライベートの知り合いって感じになったからかも」

 まぁ、本当は意図的に彼女と親身にならないように心がけていたからなのだけど。

 昔から後輩という存在は苦手だった。接し方がよく分からないのだ。

 だから、ある程度距離を置いて過ごしてきたのだが、流石に直属の後輩となるとそうもいかない。

 それでも業務上のやり取りだけに徹底して、こちらからはあまり話しかけ無かったのだから、そういう歪な関係になってしまったのだろう。

 こればかりは、反省しなければと常々思う。

「私、先輩に嫌われてると思ってました」

「いやいや。そんなことないよ。なんていうか、私の方こそ、ダメな先輩だって思われてるかなって」

「そんな事はないですよ!そ、その、私も早く先輩みたいになりたいって、あ、憧れてましたし……」

 私のどこに憧れる要素なんかあったのか。

 彼女なりの世辞なのだろうけど、世辞と分かっていても気を遣うだけの価値が私にはあると言ってくれているようで、少し安堵した。


「お……っと」

 そんな話をしていたところで、レテが私の膝に飛び乗る。ゴロゴロと喉を鳴らして、撫でろと言わんばかりに私を見ているので、ゆっくりと背中を撫でてやると目を細めた。

「すっかり懐いてますね。あ…今更ですけど、このアパート、ペット入れてもいいんですか?」

「うん。確かペットOKだよ。隣の部屋の人なんか、犬二匹も飼ってるしね」

 逆にペット可なのに、ペットを飼っていない私の方が肩身が狭いくらいだ。その位、このアパートは何かしらの動物を飼っている人が多い。

 まぁその分ペットOKの物件で家賃も10万を切る部屋は少ないのだろうな、とも予想出来る。

「……駅も近いですし、良い部屋ですね」

「就職活動は?どう?」

 社会人一年目なら、貯金も無いだろうし、厳しいだろう。そういう心配もあったけど、何より話題が無くなったので、手頃な話題から振ってみる。

「ご時世がご時世ですから、今のところは良い求人が見つからないですねぇ」

 選ばなければ、あるにはあるんですけど。と、溜息とともに彼女はそう吐き出した。

 私は気楽なニート生活を半年は続ける予定だけど、世知辛い話を聞くと焦りも少しは出て来る。

「先輩は?」

「貯金はあるから、半年位は休もうかなって。旅行とかもしてみたいし」

 高千穂とか有馬温泉とか、あ、黒部ダムも行ってみたいなぁ。

「会社都合の失業なんで、国から手当は貰えるんですけど、家賃の安い部屋に引っ越しても、やっぱり手当の出る半年以内に仕事を決めないと私は厳しいですね」

「……地元には、帰らないの?」

 私の場合は、実家に兄夫婦も同居していて、気まずいどころの騒ぎじゃ無いので帰る予定もないのだけど。

「えーっと、親とは上京する時に半分喧嘩別れみたいな感じになったんで……」

 じゃあ実家に頼るのも難しいのかな。

 傍目から見ると、育ちの良さそうな感じだし、もしかしたら家業を継ぐとかそういうので揉めたりしたんだろうか。

「でも、一人暮らしって思ってたより寂しくて、この子を飼っちゃったんですけどね」

 レテはそんな藤堂さんの言葉に反応するように、今度は彼女の膝の上に移った。なんで賢い猫なんだろう。

 藤堂さんの、一人暮らしは寂しいという言葉は、私もわかる。帰宅しても暗いままの部屋とか、料理が美味しく出来ても食べるのが私だけなのとか、生活の隙間に寂しさが潜んでいる。

 幾度となく一人の寂しさに耐えきれず、二度ほど彼氏が出来たけど、直ぐに別れてしまった。なんというか、私に恋愛は向いてないらしい。

 好きという気持ちよりも、寂しさを紛らわせたいだけなのだと気付いた時、多分私の中での何かが冷めてしまったのだ。

 そういう意味だと、彼氏との同棲ではなく、ルームメイトがいるというのは丁度良いかもしれない。

 そんなことを考えていたせいか、私は自分でも驚く程に無意識に言葉が出てきた。


「——じゃあさ、一緒に住む?」



 レテが私を見るなり足元に身体を押し付けて甘えて来る。

「名前の通り、君は忘れっぽいのかと思ってたよ」

 意味が通じているのかいないのか、私が言葉をかけると身体を反転させてトコトコと新しい寝床を冒険するかのように歩いて行ってしまった。

「和泉さん、靴箱の上の方使わせてもらいますね」

 先輩、ではなく和泉さんと呼ばれるのはくすぐったかった。

 だが、なんとなく、会社の後輩ならルームメイトになった気分になるので、そう呼ばれるだけで昔のような苦手意識は大分薄まっている気がした。


 藤堂さんの行動力は凄いと思った。再開して一週間後には、私の仕事部屋は彼女の住まいになった。台所も私の持っていなかったホットサンドメーカーや圧力鍋が増えたりしていた。

「……」

 今更になって、まるで口説き文句のような言葉を彼女に対して無防備に言ってしまったことが恥ずかしくなってくる。

 私が思わずあんな事を言ってしまった直後の藤堂さんは、少しだけ驚いた様子だったが、逡巡なんてせずに嬉しそうに頷いたのを見て、私は何を思ったのか。

 その彼女の頬に差し込んだ紅色は、どんな感情を含んでいたのだろうか。

「いや。まさかね…」

 女性同士なのだ。何があるってわけでもないだろう。


 変な想像を半ば呆れながら否定する私の独り言を聞いていたレテは、私の部屋の本棚の上が気に入ったようで、置物のように動かずに、色の異なる双眸を私に向けながら欠伸をしていた。

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