夫人、国を出る


▫︎◇▫︎


 アイーシャを逃したという報告を受けた数日後、カリーナは阿鼻叫喚に溢れる国を冷たい目で見下ろしていた。


「アイーシャを追い出すからこうなるのよ」


 小さな呟きに、アイーシャが追放されてすぐに官職を手放したカリーナの夫がカリーナの肩に手を置いた。


「君はこうなると分かっていたのかい?」

「えぇ、当たり前でしょう?だってあの子はこの国の『守り神様』の愛し子なのよ?追い出したらどうなるのかくらい簡単に分かるでしょう?」

「そうだね」


 カリーナの夫は優しく頷いて寂しくなっていく屋敷に目を向けた。屋敷の荷物はどんどん荷造りされていき、要らないと判断された物は売られていく。職業を斡旋した屋敷のメイドや従僕、侍女に従者も自らの荷造りを始めているのか、家令用の部屋の方からは喧騒がする。


「領地の民の方にも通達を出しておいたよ。『この国は直に滅びるだろう。お金を出すから、異国に新たな住まいを持つことを勧める』と」

「そう、さすがね。お仕事が早いわ」

「君の通告のお陰だ」

「いいえ、貴方の手腕あってこそよ」


 夫婦は穏やかに抱き合って、そして寂しい屋敷に別れを告げた。


「「さようなら」」


 破滅への足音を鳴らし始めた国を、アイーシャを大事にしていた夫妻は自分達の配下の者を連れて出ていった。


 屋敷を出た夫妻は精霊に導かれて精霊の言う方角に馬車を進めていた。


「あなたはどなた?」

「《………どなただと思う?》」


 水色の可愛らしい冷たい印象を抱かせる精霊は、カリーナに対して冷めた態度で話しかけているが、カリーナに祝福を授けて守っていた。阿鼻叫喚に包まれている国では、安全などどこにも存在していない。そんな中、一切の足止めも食らうことなく移動できているのがいい証拠だろう。


「あなたはアイーシャの味方?」

「《………わたしたちはみーんなアイーシャの味方。だから、アイーシャが好きだって思っているのを守るのは当然の務め。分かったらわたしの指示に従って》」

「えぇ、分かったわ」


 すぐに足を掬われる社交界のご婦人との会話に慣れているカリーナからすれば、精霊の命令口調は全く気にならなかった。身分を笠に着る人は厄介だが、ツンデレはあまり厄介ではない。それどころか、カリーナは精霊の偉そうな口調が可愛いと思い、好ましく思っている。


「ねえ、何か好きな物はあるかしら?」


 カリーナは精霊に人差し指を差し出しながら尋ねた。精霊はふよふよと飛んで、カリーナの人差し指の上に座った。


「《? 何が言いたいの?》」

「一緒にお茶なんてどうかしらと思って」

「《………アイーシャの刺繍は好きだけれど、わたしはそれ以外にあまり好みがないわ》」

「そう………、アイーシャの刺繍は私の宝物だからあげられないわね」


 夫人は1枚のハンカチを抱いて微笑んだ。そのハンカチには歪なクローバーが刺されている。


「これはね、アイーシャが私に初めてくれた大切なプレゼントなの」

「《アイーシャは初めての頃こんなに刺繍が下手だったの?》」

「ふふふっ、あぁ見えてもアイーシャは努力家なのよ」


 歪な刺繍に、精霊はじーっと見入っていた。可愛らしい姿に、カリーナの顔に微笑みが浮かんでしまう。


「わざと身体を見えるようにしているの?」

「《そうだよ。何か悪い?》」


 ツンデレな水色の女の子精霊は、くるんとターンしてみせた。そして、カリーナの抱いている刺繍をするりと撫でた。まるで愛しくて仕方がないと言っているかのようだ。


「………可愛らしいわね。精霊なんて初めて見たわ」

「《当たり前かしら。そこの男も何か言ったらどうなの?》」

「いや、何も特別に言うことは………。あぁ、やっぱり1つだけ。アイーシャは無事なのか?」

「《当たり前じゃない。大事な大事なアイーシャをわたしたちが守り抜かないとでも?》」

「なら、僕から言うことは何もないよ」


 カリーナの夫はおっとり微笑んで精霊を撫でた。精霊は不服そうにぷくーっと頬を膨らませたが、文句は言わなかった。アイーシャが大切にしているものは傷つけないということを信念にしている精霊は、夫妻を傷つけないように最大限の注意を払っていたのだ。


「それにしても綺麗な景色ね」

「《精霊界経由で輸送してあげているのだから当然のことよ。現実世界の現状はたまったものじゃないわ》」

「そうなのね。ありがとう」


 カリーナはにこにこと微笑んで、精霊の頭をよしよしした。


「私はどこに行くのかしら?」

「《ひ・み・つ》」

「そう」

「《ふふふっ、悪いようにはしないわ》」


 精霊の微笑みはとても美しかった。

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