第7話

 わたしはずっと家で生きてきた。

 家には、父と母がいた。わたしにとっての世界のすべて。

 これがわたしにとっての当たり前で、仕方ないと思うとして、でも。

 嫌で。

 嫌で。

 嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で嫌で。

 わたしの世界は最悪で塗りつぶされていた。

 そんなわたしの世界を壊してくれたのは――




「待て、逃げるな!」


 逃げるわたしに父はすぐに追いついた。腕をつかまれて、それ以上は進めなくなる。

 わたしは通路の向こうの入り口に向かってとにかく叫び続けた。


「カミ、早く来て!」

「訳の分からないことを――」


 父はわたしの腕を乱暴に引き寄せて羽交い絞めにしてきた。そうなると子供のわたしじゃどうにもならない。

 口を押えられて、声も出せなくなった。全力で暴れてもどうにもならない。

 カミは、来てない。

 さすがに聞こえてないのかもしれない。けっこう距離もあるし、カミは鋭い方ではない。

 でも、今来なかったらいつ来る気なんだ。いまが一番、キミの力が必要なのに。

 動けなくなったわたしに、いつの間にか母が近づいてきていた。


「無事だったのね」


 いつもの母の話し方だった。いつもの母の表情だった。

 世界が壊れても、この二人は何も変わっていないんだ。


「あの、大丈夫ですか?」


 わたしを連れてきた男の人がおずおずと話しかけてきた。

 母はあっさりと「大丈夫ですよ」と笑った。


「うちの娘です。正直もうダメかと思っていたんですけど、こうして見つかってよかったです」


 その言葉にわたしの頭が爆発しそうになった。どうしてそんな、思ってもないことが言えるんだろう。

 男の人が困惑したような表情で母にこういった。


「え、でも……旦那さんのほうは、子供はいないって言ってましたけど……」

「それは……」


 母は言葉を詰まらせて、父の方を睨んだ。父はわたしを押さえながら、もごもごと何か言い訳している。

 男の人がどうすればいいのかわからないように立ち止まっている。父と母がおかしいと思っていても、助けてくれるわけじゃない。

 わたしを助けてくれる人なんてどこにもいない。

 ううん、人じゃなかったら今はいる。

 呼んでも来ないけど、絶対に待っている。

 父たちと男の人が微妙な空気になっている隙に思い切り暴れると、口を覆っていた手が外れた。


「じゃあ! わたしの名前言ってみてよ!」


 みんながぎょっとした顔でわたしを見た。

 父がまたわたしの口をふさごうとするので指に噛みつくと、父が痛がって離れたので逃げることができた。

 距離を取りながら、大声で繰り返す。


「わたしの名前、言えるでしょ!? 娘っていうなら!」

「…………」


 父も母も何も言わなかった。気まずそうに黙って、互いに顔を見合わせてる。

 言えるわけがない。

 わたしには名前なんてないんだから。


「いいから、こっちに来なさい」


 母が苛立った声を出して手を伸ばす。

 わたしは後ずさりながら、男の人と、その向こうに目を向けた。

 他の何人かの大人たちは後ろの方でこっそりと見てきている。父や母に味方をすることはなさそうだった。

 男の人は、戸惑っているようだった。半端に動こうとしているのか、落ち着かない感じでゆらゆらしている感じだ。

 誰も、わたしを助けようとはしていない。

 わたしは、また背を向けて思い切り走った。


「あっ、待ちなさい!」


 父か母か、止めようとする声はしたけど一切聞かずに走る。

 後ろに近づいてくる音がしない。追いかけてきているかわからないけど、振り返ることもせずに全力で駆けた。

 ショッピングモールの入り口が見えた。ドアに体当たりするようにして外に出ると、立ったままのカミがわたしを見た。


「タベモノ、アッタ?」


 呑気な言葉に、思わず笑いが漏れた。全力で走った疲れからへたりこんで座り込む。

 カミを見て、すごく安心しているのがわかった。


「ひっ、化け物!?」


 後ろからの声にびくりと飛び上がる。振り返ると、父がカミを見上げて呆然としていた。気づかなかったけど、追いかけてきていたのか。

 わたしはカミの方に走って、後ろを指さしながら叫んだ。


「カミ、こいつ潰して!」

「ワカッタ」


 カミはあっさりと返事をして、私の後ろにその大きい手をどすんと叩きつけた。地面が揺れて、転びそうになる。

 そのあとは、とても静かだった。

 おそるおそると振り返る。地面に埋まっているカミの手がゆっくりと引き抜かれていくと、ぐちゃぐちゃになった父の体がだらしなく転がっていた。

 確かめるまでもなく、死んでいる。


「へ……?」


 あまりにも呆気なくて、わたしは間抜けな声を出していた。これではカミのことを笑えない。

 首だけで振り向いてカミを見る。カミはなんてことないように、いつものように間抜けな顔をしていた。


「コレデヨカッタ?」


 わたしは何も言えずにいた。目の前で起こったことに現実感がまるでなかった。

 カミはわたしのいうことを聞いてくれる。潰してと言ったら、その通りにする。

 それはわかっていたはずだ。今までだってそうしていたのだから、わかっていないわけがない。

 父の死体の顔がこちらを向いていた。何も映していないはずの目が、わたしを見ている気がした。


「きゃあああああ!!」


 一瞬、わたしの悲鳴かと思った。でも違った。

 いつの間にか母も外に出ていて、父の死体に駆け寄っていた。


「あ……」


 何を考えていたのか、全部忘れた。

 何もわからなくなって、ただ母を指さした。


「こいつも、潰して」


 母と目が合った。直後、カミの手が母を父の死体ごと潰した。

 母の死体は父の死体と絡み合うようになっていて、よくわからない感じになっていた。

 人間だったのかどうかもわからない。


「カミ、お腹空いてるよね」

「ウン」

「これ、食べてもいいよ?」


 父と母だったものを示して、カミを振り仰ぐ。

 カミは首を傾げて、どうしようかなと考えている風だった。


「食べられない?」

「タベタコトナイ」

「おいしくなかったら吐けばいいよ」

「ワカッタ」


 カミは頷いて、今度はそっと手を伸ばして父と母だったものを掴んだ。

 口に運ぶ途中に二人の血がぽたぽたと落ちてきて慌てて避けた。あんなもの、一滴だって触りたくはない。

 二人を口の中に入れると、カミはもぐもぐしながらしきりに首を傾げていた。というより、首を回している状態だ。

 少ししてごくりと飲み込むと、ウン、と頷いた。


「……どうだった?」

「タベラレル」

「おいしい?」

「タベラレル」


 カミはただ同じことを繰り返した。おいしいというわけではなかったのかもしれないけど、飲み込んだということはおいしくないわけでもないんだろう。

 そんなことを考えていると、また悲鳴が聞こえた。

 男の人が、カミを見上げて地面にへたりこんでいた。

 なんかよくわからないことを喚いている男の人から視線を外して、カミに提案する。


「この人と、他にも三人いたから、それがカミの今日のご飯だよ。少しぐらいならお店も壊して良いから、食べておいで」

「ワカッタ」


 カミはすぐに返事をして、わたしをまたいで男の人を潰した。

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