第8話 2枚のハンカチ(小話・ルイスside)
ルイス・キャロ・ヴェイン王太子は、ハンカチを2枚持ち歩いている。1つは、病弱だった王妃がルイスのために手作りしてくれたハンカチだ。
「これを私だと思って、頑張りなさい。悲しい日も苦しい日もありますが、平民や貴族の前で泣いたり、弱みを見せてはなりませんよ。ルイス」
「はい、分かりました。母上」
そう言って渡されたハンカチは、小さな王太子が持つ物にしては素朴で、不釣り合いな刺しゅうが入っていた。
その日から、ルイスはそのハンカチをいつも持ち歩いた。国王に随行して初めて公務を務めた時はとても緊張したが、胸元にあるハンカチを思い出すと、まるで母が見守ってくれているように思え、頑張れた。
ルイスが7歳の時に、王妃は風邪を患い亡くなってしまったが、手元に残ったハンカチはいつでもルイスを勇気付けてくれた。ルイスにとって、とても大切なハンカチだったのだ。
そんなある日、ルイスは「あること」をきっかけにして、そのハンカチのもう一つの役割を知った。
きっかけは些細なこと。王家と付き合いのあるピトー伯爵が、登城してきた時のことだ。その日は大雨で風が強かった。
「雨に降られてしまったな。横降りの雨にはうんざりだ」
「ピトー伯爵、お久しぶりです。速乾性のある柔らかい布を使用人に用意させる間、このハンカチをお使いください。身体が濡れては、風邪をひきます」
はるかに年上の伯爵にそう声をかけて、8歳のルイスはハンカチを差し出した。昔から深い付き合いのあるピトー伯爵への気遣いからだった。それに対し伯爵は、顔を歪めて、汚いものを見るような目で言ったのだ。
「チッ、こんな使い古しのハンカチでは、余計顔が汚れる」と。
ポロっと出た伯爵の言葉に、ルイスの表情は固まった。しかし、周りにいた者は誰も気付いていない。伯爵の声があまりに小さかったからだ。しかし、伯爵は確かにそう言った。ルイスを見下ろして、嫌な笑みを浮かべているのがその証拠だ。
弱みを見せてはいけないと思ったルイスは、何も聞こえていない振りをした。すると、伯爵はコロッと表情を変えて、ルイスに話しかけてくる。
「小さな友人よ、ありがたく使わせていただきましょう。ですが、王妃さまの形見だとしても、王太子には相応しくないハンカチだと思いますよ。私が新しいものをプレゼントして差し上げましょう。その見返りに――」
ルイスは伯爵の言動に心底腹立たしい気持ちでいっぱいだったが、前向きに捉えることにした。今まで親切にしてくれていたからと言って、それが伯爵の顔、全てではない。それを学ぶいい機会になったと思い、一つ賢くなったことを喜べばいい、と。
しかし、ルイスはピトー伯爵の本性を心に留めておくことはせずに、うっかりポロリ、という形でセバスディに伝えることにした。
それが発端かは知らないが、ピトー伯爵は牢獄行きとなった。後から聞いた話だが、彼は王妃が亡くなった日に裏切り、反王族派の貴族になっていたらしい。王族から権力を奪い、お飾りとして王家を据え置き、名門上位貴族にその力を分散させようと画策までしていたとのこと。
全てが片付いた時、ルイスはセバスディから判決の様子を聞いた。
『たとえ旧知の仲だったとしても、それを理由に処分が甘くなることはない』
セバスディが言うには、国王が判決と共に添えたその言葉は、ピトー伯爵の「処分軽減申し立て」を一蹴したそうだ。それを聞いたルイスは、碧い瞳を輝かせて形見のハンカチを握り締めた。
ハンカチをきっかけにした事例は、もう1つある。
王城で働く使用人は多数いるが、幼いルイスには彼らの名前と所属は把握できていなかった。幼いと言っても、齢9歳。基礎教養を学んでいる最中で、同年齢の貴族よりは博識だ。その頃のルイスは、多少反抗的ではあったが机に向かって勉強し、その休憩時間に王城内を散策するような子供だった。
ある日、ルイスは妙案を思い付く。
すれ違う使用人たちに「名前と所属」を聞き始めたのだ。一度聞いた名前や所属は、忘れてはいけないというルールも付け足した。忘れてしまうと、その日一日はティータイム時に出される「お菓子」を抜きにした。
「マリア、茶髪で笑顔のお姉さん。エレン、いつも花をくれる。この2人は洗濯係。ということは、昨日覚えた分を合わせたら、洗濯係はこれでコンプリートだ。後は、エルップトン。長身細身の給仕長。ベスとカインは、双子の給仕係。兄には首筋に黒子があったな。マルスト料理長は髭がポイント。その弟子は……」
日に日に覚える人名と所属が増えていったが、ルイスは彼らの情報を忘れないように、顔や特徴を思い出しては繰り返し「名前と所属」を呟いた。
ある日、ルイスは中庭を散策していると、怪我をした男性使用人と遭遇した。ルイスが名前と所属を聞くと、その男性は快く教えてくれたが、手当てされることは嫌がった。男性の膝や腕には擦り傷程度の傷はあったが、「暫く休んでから持ち場に戻る」と彼は言う。
男性が休む間、ルイスは話相手になった。
彼はルイスのことを「貴族の坊や」と呼んだ。ルイスの正体を知らないのは、特別珍しいことではない。末端の下級使用人は、王族と顔を合わせる機会はないに等しいが、王城内を出入りする貴族には、すれ違う機会がある。そのため、彼が「貴族の坊や」と呼ぶのは当たり前のことだった。
ルイスもそう呼ばれることを否定せず、「貴族の坊や」と呼ばせていた。そんな細かい話よりも、使用人の「名前と所属」を覚えるゲームの話をしたかったのだ。
2人は意気投合し、時間も忘れて話し合った。ついつい話が長くなったのは、休憩時間を過ぎても、珍しくセバスディが探しに来なかったから。
「そろそろ行くよ、僕」
別れ際、ルイスはハンカチを差し出した。
それを見た男性は、顔を青々とさせて押し黙る。動作もぎこちなくなった。直接、ハンカチに対する意見は言わなかったが、目は口ほどに物を言っている。
その使用人をよく観察すれば、どう思っているかなんてことは、ルイスには手に取るように分かった。
それが決定打となった訳だが、実を言うと、ルイスは男性と話をしている時から、彼の全てを疑っていた。言葉の端々から感じる違和感や、「使用人」が纏う空気にしてはピリリとしていることは、たくさんの使用人を見てきたルイスの眼から見ても、異様だったからだ。
しかし、それに気付いても、ルイスは陽気な子供を演じ続け、本性を隠した。
「……ッ」
不釣り合いな刺しゅうを見た男性は、縋るようにルイスを見た直後、言葉にならない声を上げる。本性を隠すのをやめたルイスの豹変振りに、驚いているようだった。
凍り付いた瞳と悟り尽くしたルイスの顔は、男性に恐怖を植え付け、ついには自身の罪さえ白状させてしまう。彼の落ち度は、ルイスを「貴族の坊や」だと思い込み、浅はかな王城の知識をひけらかしてしまったことだ。それから、「噂のハンカチ」を目の前にして、動揺が顔に表れたことも仇となった。
ピトー伯爵の事件は、噂好きの貴族を中心に広まったが、ルイスのハンカチのこともまた、「死を呼ぶハンカチ」と尾ひれが付いて、広まっていた。噂を知っていた男性がそのハンカチを見て、顔色を変えたのも無理はないだろう。
後日、その男性使用人は政敵のスパイであることが発覚。それを機に、ルイスは「使用人の名前と所属」を聞くのをやめたが、それは王城内で働く全ての人間の名前と所属を把握し終わったからだった。
偶然に救われることも多いが、ルイスはこの「形見のハンカチ」の使い方を学んでいく。ハンカチを差し出して反応を探れば、人となりが見えてくると思うようになった。まだ成長過程にあり、身を守る術を持たないルイスには、人の本質を見定める「魔法のハンカチ」は、色々な意味で役に立ったのだ。
◇◆◇
もう1つのハンカチは、アリシア・メロディアスが手作りしたハンカチだ。
それは、アリシアからアリシアの父、ローランド・メロディアス公爵へ。公爵から国王へ。国王から補佐官へ。補佐官から補佐官事務長へとずいぶん遠回りしたが、無事、ルイスの元に届けられたハンカチだった。
一緒に同封された手紙には、
『親愛なる“逃亡中のルイス”様へ。借りたハンカチをお返しします。とても大切にしている物だとお見受けしましたので、通常使いできるハンカチを作りました。借りたハンカチのお礼です。良かったらお使いください』と書いてある。
あまりの嬉しさに、ルイスはハンカチをまじまじと見つめた。糸で描かれた王家の紋章は、歪んでいる。お世辞でも上手とは言えなかったが、初めて刺しゅうをしたのかもしれないと思うと、それさえ愛おしくなった。
想像を膨らませれば膨らませるほど、胸がじんと熱くなり、鼓動が速くなる。
「ハンカチの礼がハンカチ、か……くく。この刺しゅう一つにしても、相当手間がかかっているだろうか」
刺しゅうをしているアリシアの姿を目に浮かべて、ルイスは少しばかり想いを馳せる。目を閉じながら、すっかり愉悦に浸っていた。
暫くして目を開けると、
「良かったですね、ルイス様」
にこにこ顔のセバスディが1メートル先にいる。気味が悪くなるくらい笑顔だった。
「セバスディ!? 勝手に部屋に入るなと、あれほど……!」
「お言葉ですが、ルイス様。私はちゃんとノックしましたよ? どうやらあまりに嬉しくて、お耳がお留守だったようですね」
「なっ……!」
ルイスの顔が真っ赤に染まる。普段から感情に引き摺られないよう、表情はなるべく変えずに引き締めていたつもりだったが、つい油断していた。セバスディに隙を突かれてしまったルイスは、照れ隠しのため、長い指先で前髪をぐしゃっと掻き上げる。
それからハンカチをこっそり胸元のポケットにしまうと、話を逸らすために「……手紙を書きたいが、そろそろ休憩時間が終わる。どこかで時間を取れるといいが……」と言った。
その日から、ルイスはアリシアからもらったハンカチを持ち歩いているが、母の形見とは違い、そのハンカチを誰かに見せることはしなかった。唯一、そのハンカチを見ることができる人物がいるとしたら、それは「アリシアからもらったハンカチを洗うためだけに選ばれた洗濯係」だろう。
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