第5話 空白の時間
アリシアが王都から領地へ戻ってきて、数日経った。
今日も自室に引きこもると、刺しゅうの練習を始める。今までどこか諦めたように生きてきたが、王城へ行ったことをきっかけにして、アリシアは変わり始めていた。
小さい頃からアリシアは、「零性だから、何も成せない」と口酸っぱく言われてきた。そのため、何かに挑戦したことは、ほとんどない。刺しゅうをしたこともなければ、針を持ったこともなかった。
数日前、とある理由で初めて針を持ったアリシアだが、あまりの手際の悪さに「私には才能がない」と早々に結論付けた。しかし、簡単に投げ出す訳にはいかないのだ。
ルイスに貸りたハンカチは、綺麗に洗い、近々ローランド経由で返すことになっている。それと一緒に、アリシアはルイスにプレゼントを渡そうと考えていた。だが、諸々の礼を兼ねているプレゼントに、大層な物は用意できない。
それなら自身の手で作ろうと、初めて針を取った。
山のようにある勉強から逃げ出したいと言ったルイスに、アリシアは正直な気持ちを伝えた。きっと優しいルイスのことだから、前を向く。そんなルイスに恥じない自分であろうと思った。
図らずも、婚約者に選ばれたのだから。
「痛い……」
指の腹に針が刺さり、薄っすらと血が出る。
花模様を刺しゅうで色美しく入れたいのだが、どうにも上手くできなかった。そのような時は窓の外の景色を眺め、むしゃくしゃする気持ちを誤魔化す。
それでも上手くいかない時は、刺しゅうの先生に相談した。先生とは、刺しゅうが得意で、派閥に属さない気弱なメイド、エミリーのことだ。彼女は平民で、下級使用人。各私室や書斎、重要な物が置かれている部屋の立ち入りが許されていない彼女は、アリシアとは接点がない。
しかし、アリシアは健気に頑張るエミリーと、彼女の器用な手先をよく知っていた。「刺しゅうを教えて欲しい」と心からお願いしたのは、大勢いる使用人の中でも彼女が初めてだった。
その日から毎夜、アリシアは彼女に刺しゅうを教わっている。埃っぽい狭い倉庫部屋で向き合って座り、半時間ほど口と手を動かした。「物事を成すには、それ相応の時間がかかる」という当たり前の教えは、彼女から学んだことだ。
このような工夫をしながら刺しゅうを楽しんだアリシアだが、それでも心が搔き乱される日も多々ある。扉を閉めていても、言い争う両親の声が聞こえてくるのだ。加えて、錯乱して泣くヴィヴィの声も。王城から帰ってきた日から、その声は毎日のように続いていた。
どうして両親が言い争っているのか。それは、アリシアがルイスの婚約者に選ばれたことに他ならない。
王城での出来事。
ローランドの言動。
リーサの怒り声。
ヴィヴィの泣き声。
思い返せば、彼らが何を望んでいるのか、手に取るようによく分かる。
(お父様が私たちを王城へ連れて行ったのは、私とヴィヴィがルイス王太子殿下の婚約者候補になっていたからね。きっと、お父様は零性遺伝子を持つ私ではなく、ヴィヴィを婚約者に推したかったはず。でも、私が婚約者になってしまったから、お母様の怒りは……)
考えながら刺しゅうをしていると、針を刺す手に力が入った。また、ぷつりと指に針が刺さる。
両親たちの口喧嘩は続いているが、どういう訳か、彼らの怒りが直接アリシアへ向くことはなかった。もしかしたら、国王が何かしらの口添えをしてくれたのかもしれない。確かめようもないことだが、アリシアはそう考えることにした。
「今日は刺しゅう日和ね」
刺しゅうの練習をし始めた日から、また日数が経っていた。アリシアは本番用のハンカチを取り出すと、短く息を吐く。その日がやって来たのだ。最初の頃に比べると多少はスムーズに針を動かせるようになったが、まだまだ手付きは覚束ない。
それでも、心を込めて一針一針、布に刺し始めた。刺しゅうの手法の中で1番簡単なやり方を選んだが、仕上がりはそれなりに美しい手法だ。
針を刺すこと数時間、アリシアはついに刺し終わりに差しかかる。糸端を縫い目の裏側で数目くぐらせて、縫い目の際で糸を切った。
「やっとできたわ」
人並み以上の時間を費やしたアリシアは、堪らず声を上げた。
傷だらけの手に持ったハンカチには、王家の紋章の刺しゅうが入っている。少し歪んではいるが、温かみのあるものに仕上がった。
アリシアは丁寧にハンカチを包み、手紙を添えると、出発する準備をしていたローランドに手渡した。ローランドは無言で受け取ると城館を出発し、王城内にある研究機関を目指す。長期間、研究で忙しくなるため、当分は帰ってこない予定だった。
こうして当主が不在となった城館は、久しぶりに静かな時を刻み始めたのだ。
◇
ローランドにプレゼントを手渡した次の日、城館内はとても静かだったが、アリシアの部屋は少しだけ騒がしかった。
「ああ、もっと上手くなってから、お渡しするべきだったわ。有名お針子が刺しゅうしたハンカチも、一緒に添えて。手持ちのお金でも、ギリギリ買えたと思うから……」
アリシアは、当惑して赤く染まる頬を両手で隠した。
今頃になり、ハンカチの出来栄えに恥ずかしさを覚えていたのだ。アリシアにとって刺しゅうは、初めて自分の力で「成した」こと。思い入れがあり誇らしいが、自己満足とも取れなくない。
「殿下は迷惑だったかしら……?」
心配を募らし、瞳を潤ませる。
しかし、来る日も来る日も、王城から連絡や手紙が来ることを期待したが、何も来なかった。当然、プレゼントの感想を添えた手紙もなければ、親睦を深める茶会の誘いもない。王太子妃教育を受けるため、「登城要請」はあるだろうと思っていたが、そんな話も全くなかった。
婚約者とは名ばかりの状態が続いていた。
心待ちにしていたアリシアの心は、日に日に荒んでいったが、それを払拭するように、アリシアは魔法の勉強をし始めた。今から約2年後には、ファウスト王立学院に通わなければいけない。それは、上位貴族や王家に課せられた義務なのだ。
音沙汰がなくても、約2年後には必然的にルイスに会う。それを見据えて、アリシアは自分自身の深い闇を振り払った。
そんなある日。
「ねぇ、お姉様。引きこもって何をしているの?」
部屋に籠りがちなアリシアの様子を偵察するためか、ヴィヴィがアリシアの部屋を訪れた。
「……入学に向けて、勉強をしているのよ。私はまだ魔法を使えないから」
「ふぅん。零性遺伝子を受け継いだお姉様には、無駄な努力だと思うわ。早々に諦めることを助言するわね。特に魔法は、魔法遺伝子が関係するって、お父様が言っていたはずよ」
「でも、頑張りたいのよ」
「……ッ」
めげずに頑張るアリシアの様子を、ヴィヴィは何度も確認しに来ては、嫌味を言って帰って行く。しかし、1年も経つ頃には状況が逆転していた。人の倍以上、時間はかかったが、ついには魔法を使えるようになったのだ。14歳の時だった。
「
アリシアの指先に灯る炎が、周りをぼんやりと照らす。
入門レベルの火炎魔法だったが、それを知ったヴィヴィは焦っているようだった。
家庭教師に教わった訳ではない。両親が手取り足取り教えた訳でもない。アリシアはただ本を読み漁り、試行錯誤を繰り返しただけだ。しかし、独学の努力で成し得た魔法は、原性遺伝子を持つと言われたヴィヴィの矜持を傷付けたのだろう。
「零性のくせに、生意気なのよ……!」
ヴィヴィは吐き捨てるようにそう言うと、その次の日から全く姿を見せなくなった。
ヴィヴィやリーサがわざわざアリシアの部屋を訪れなければ、互いに姿を見ることはない。それが当たり前だった。彼らのだらしない所はお金の使い方にも表れていて、城館の財産管理等を任された家令は、ストレスで髪の一部が白くなったほどだ。
反対に、アリシアの生活は規則正しく、堅実そのもの。倹約家で慎ましい生活に慣れているのは、自分の将来を誰より危惧しているからだ。日夜、研鑽を積む孤独な生活は、アリシアには充分すぎる幸せだった。
2人の存在を全く気にすることなく、幸せな日々はこうして半年間ほど続いたのだ。
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