異世界の凝視

合わない予定

 マユとの予定が噛み合わなくなった。

 考えてみれば当然の話だ。私が古武術の稽古を再開して、マユには部活があって、それぞれに時間を使っているのだから。年明けからしばらく、学校で顔を合わせる程度でどこにも遊びに行っていない。冬休みが終わってから、一度も遊びに誘っていないんじゃなかろうか。学校では普通に話すけれど、放課後にどこかへ行こうという約束はしなかった。

 月末には、マユも試合があるからなぁ。小学生の頃からずっと仲が良い幼馴染ではあるけれど、少し気を遣っている。

 マユは柔道の全国大会へ出場できるほどの選手だ。その才能を活かしてほしい。私とのデートに現を抜かして、大事な試合を落としてほしくはないのだ。私も稽古を再開したら、なんだかんだと楽しくなってしまっているし。大会でようかな、という気分になっていた。小学生の頃との大きな違いは、そこに親からの賞賛や、愛してもらいたいという願いが消えていることだろうか。

 ただ、身体を動かすことが楽しい。

 首輪が外れ、身体を縛っていた鎖が切れたような感覚があった。

 授業日のお昼休み、いつも通りにマユとご飯を食べる。彼女が歯を磨くために席を立ったところで、クラスメイトの女の子が話しかけてきた。

「ねぇ、湯上さん」

 名前は知らない。

 そこんところの、私のダメ加減は変わっていなかった。

 髪を三つ編みにした少女だ。やや鋭い視線が眼鏡の下から覗いている。背筋をピンと伸ばして、堂々とした子だ。クラス委員長だったような気もするけど、世俗に疎いからイマイチ分かっていなかった。それでいいのか。良くないけど、学年が上がってから頑張ろう。もう、このクラスで友達を作るのは諦めた。急に親しくしてくる人がいたって、怪しいだけだしね。

 三つ編みちゃんは私と目線を合わせると、顔を寄せてきた。

「日比さんのことで聞きたいんだけど」

「マユの?」

「そう。あなた、日比さんと喧嘩でもしたの」

「してないけど。何かあった?」

「……あった、というか……」

 洗面所へ向かったマユの背中を、廊下に探す。そこに本人がいないから、と彼女は喋り始めた。

 私達の関係が急に冷めた、と一部で話題になっているそうだ。

 冬休みが明けてから約半月。それだけの期間で、私達の関係の変化に敏感に気が付いた人がいるらしい。本人達も意図していない表現を使われるのが癪なので、冷めたわけではなく節度を持つようになったのだ、と説明しておいた。

 友達ですか? と聞かれたら当然のように首を縦に振る。でも、恋人ですか? と聞かれたら小馬鹿にしたように首を横に振るだろう。私達はとても仲の良い幼馴染だけど、そういった関係ではない。

 マユは大切な親友で、私は彼女をとても尊敬している。

 私にないものを持ち合わせた、眩いほどの存在だ。

 私が感慨に耽っていると、三つ編みちゃんが肩をすくめた。

「……あんなに仲が良かったのに」

「聞きたいんだけど、不仲だと思った理由は?」

「日比さんの元気がないから」

「さいですか」

 思ったよりも滅茶苦茶な理由だった。

 元気のない友人を励ますため、なんて理由で喧嘩の原因を探る彼女は友人の鑑である。ひょっとしたら、私よりもマユの友人に相応しい子かもしれなかった。それではいかんだろう、と私なりにマユを元気にする方法を考えてみる。特に何も思い浮かばなかった。普段はそばにいるだけで私もマユも満足しているから、いざ彼女のために行動しようとしても上手くいかない。そもそも、私に出来ることは限られているのだ。

 歯磨きからマユが帰ってきた。

 私からそそくさと逃げる三つ編みちゃんに首を傾げた後、正面の椅子に座る。本当は他の子の席だけど、お昼休みの間は変わってもらっているのだった。

「何の話をしていたの?」

「マユが元気ないねって話」

「あ、そういう話か……バラしていいのかな」

「別に本人を前に話してもいいでしょ? 悪巧みをしているわけじゃないのだし」

「ユカちゃんの性格、得だねぇ」

 困ったように笑うマユは、少し大人っぽい。

 マユが、昔みたいな子に戻ってきている。

 少し前、写真を見て思い出したことがある。昔のマユは、今の私みたいに友達の少ない子だったのだ。昔のマユは、今よりもっと暗い顔をしていた。家が近いこともあって私はよく話し掛けていたけれど、他の子と喋っているのは滅多に見なかった。

 私以外の子を避けていたのかもしれない。マユがいじめられていたとか、仲間外れにされていたとか、そんなことはなかったと思う。ただ、マユの周りには今ほど沢山の友人がいなかった。

 ……まるで私が、マユを他の子から遠ざけていたように。

「マユ。笑って」

「えぇー、ユカちゃんが変なこと言い出したー」

「笑えば元気になるよ」

「……元気だから笑うんじゃない?」

 お弁当を片付けたマユが、私をじっと見つめる。

 確かに、最近のマユは少し変だった。何か近況に変化があっただろうか、と考える。彼女の日常に特筆するほどの変化はない。あるとしても、それは私との遊ぶ時間が減ったくらいだ。そして私と遊ぶ時間が減った理由といえば、彼女と私がそれぞれに稽古をしているからだった。今更ながら、どうしてマユは私と同じ古武術の道に進まなかったのだろうと疑問が浮かぶ。

 柔道をやり始めたくらいだから、身体を動かすことは嫌いじゃないはずだ。ならば、なぜ私と同じ道場からは逃げ出したのだろう。一緒に歩けば、もっと楽しい道だったかもしれないのに。

「……マユはさ、なんで私と一緒にやらなかったの?」

「何を? 何の話?」

「武術。今は柔道やっているけど、空手でも良かったじゃん」

「えぇ。今更だなぁ」

「いいじゃん。今更、気になったの」

 彼女は目を丸くして、それから気まずそうに視線を逸らした。マユが何かを言い淀んでいる。こういう時は、大抵何かを隠している時だ。マユは嘘をつくのが得意ではない。私も得意ではないがマユほどではなかった。黙り込む彼女を見て、ふと思い出したのは三つ編みちゃんの言葉だった。

 ……日比さん、最近ちょっと様子がおかしいんだよね。彼女は、そう言っていた。ちょっと忙しくなって、遊ぶ時間がとれない程度のことでマユが私を避けるようになるはずがない。だとしたら、別の理由があるはずだ。大勢の前では話しにくいこともあるだろうと、マユを教室から連れ出した。物見遊山の感覚で私達の関係に割って入ろうとする輩がいないことを確認して、誰もいない下駄箱へと足を運ぶ。

 ぎこちない顔で笑っているマユを見上げる。

 心優しいマユは、試合でも相手を殴れそうにない。柔道の技も痛いけど、基本的には受けることを最優先に稽古をするのだから技を掛けるにも抵抗が少ないのだと踏んでみる。

 だから聞いた。

「マユ、空手は苦手? 打撃があるから」

「いやー、そうではないけど……」

「むっ。違ったか」

 それじゃ、なぜマユは私と違う道を選んだのだろう。むぐぐ、と小さい脳みそをフル回転して考える。だが、何も浮かばない。こういう時は、本人に聞くのが一番だろう。それしかない。なぜなら私達は、血よりも深く繋がった幼馴染だから。

「教えて。マユ」

「ユカちゃんは、何を聞きたいの」

「まずは元気がない理由を」

 曖昧に笑う彼女に詰め寄る。唇が触れる寸前まで近づくと、マユは観念したように口を開いた。私が限界まで背伸びをしなければ顔と顔が近づかないと分かってしまったのが、なんかショックだ。

「ユカちゃんが稽古を再開したからだよ」

「それで、私と遊ぶ時間が減ったから?」

「……それもあるけど。ユカちゃんが強くなるのが、イヤ」

「えっ。……えーっ!」

 そんなこたぁないだろー? と頓痴気な返事をしてしまった。

 だって、強くなりたくない人は古武術なんか習わないし、趣味だとしても続けているうちに強くなってしまうものだろう。マユだって、そういうタイプだと思っていた。私のリアクションが面白かったのか、マユがくすりと笑う。あ、これは本心から笑っているのだなと分かる程度には、これまでの笑顔は嘘くさい。なるほど、クラスメイト達の話にも一定の信憑性があるようだ。

 しかし。

「どうして私が強くなるのが嫌なの?」

「ユカちゃん、大会とか好きでしょ」

「うん」

「……大会の時期は、遊ぶ時間減るし」

「マユも柔道強いじゃん」

「それはね、競技が違うからだよ。ユカちゃんが勘違いするのも無理ないよね」

 マユが手を差し出してきた。

 意味が分からなかったので握り返す。直後、彼女が技を掛けてきたのが分かった。気付けば私は返していて、マユが膝をついている。昔取った杵柄、なんて言葉では誤魔化せない。私自身に、人並みよりも多くの才能がある証左だ。それを裏付けるように、マユは立ち上がることすらできなかった。私が手を離すと、マユは膝の砂を払って立ち上がった。呆れたような視線の底に、別の感情が眠っている。その正体には見覚えがある。

 羨望の視線だ。

「強いねぇ、ユカちゃん」

「…………」

 マユは優しいから、私が無神経でも滅多に怒らない。

 器が広いから、嫉妬の言葉や感情を、表に出していなかったのだ。

「私、ユカちゃんに憧れていたんだよ。私にないものを、ユカちゃんはいっぱい持っているんだもの。誰に物怖じすることもなくて、武術の才に溢れたユカちゃんはすごく格好良かった」

 マユの手が私の首元へ伸びる。

 後退った私の背は下駄箱へぶつかって、逃げられない。彼女の手が私の頬をむにむにと揉みこんで、可愛いと呟いた言葉が彼女の唇から漏れる。やり返してやろうと伸ばした私の手をはたき落として、マユが私を抱きしめる。せっかくハグしてもらったけど、今日のはあんまり嬉しくない。そこにあるのは穏やかな幼馴染からの愛情ではなく、ひりつくような焦燥感を混ぜた独占欲だ。 

 マユは昔から、ずっと私に劣等感を抱いていたのかもしれない。

 それを自覚したのがいつなのか、正確なところまでは分からないけれど。それでもマユが、私のことをよく褒めてくれていたことだけは確かだ。幼い頃から繰り返してもらった美辞麗句に、私は甘えていたのだろうか。昔から、私の方が少しだけ成績が良かったこと。私の方が少しだけ足が速いこと。私の方が、私の方が、私の方が。数え上げればキリがない。学校という狭い枠ならば私がマユに勝っていた。

 身長では敵わなかったけど。

 私もマユを羨んでいた。

 弟妹に囲まれ、親から愛してもらっていた。学校生活の愚痴を語れば慰めてもらえて、勲功を語れば褒めてもらえる。学校を出れば、マユの生活に足りないものなどないと思えるほどに充実していたのだ。マユの方が、と彼女の家庭を羨んだ回数は星の数より多いだろう。

 マユの手が、私の髪を梳いた。

「勝負をしなければ負けない。私は、ユカちゃんに嫌われたくないので」

「嫌うはずないじゃん。マユは心配性だな」

 私を抱きとめるマユの腕から、少しだけ力が抜けた。

 その調子で解放してくれないものかと、彼女の腰を擦る。ウチにはいないけど、大型犬を世話するようなイメージだ。犬は小型の方が狂暴だというが、私は狂犬じゃないからマユに抱きしめてもらえる。そう思っていたけど、ただ逃げ出さないように捕まえていただけの可能性があるようだ。

 ご無体な話である。

「マユが一番の親友だよ、私」

「……でも、ユカちゃんは強い子にしか興味ないし」

「そんなことないと思うけどなー」

「嘘は良くないぞ。ここでクイズです。ユカちゃんが小学生の頃、好きと言っていたスポーツ選手はだーれだ?」

「いや分からん」

 唐突に始まったマユのクイズは、開始2秒で回答を放棄した。

 しょっぱい顔をしたマユが教えてくれた選手は、世界的にも有名な女性格闘家だった。総合格闘技をやっている人で、確かに小さい頃は彼女のポスターか何かを部屋に飾っていた覚えがある。筋肉むっきむきの、格好いい女性だった。

 だが、マユまで覚えているとは思わなかった。今となっては微かな記憶だが、当時の私が余程推していたのか、マユが昔から私の一挙手一投足に注視していたかのどちらかだろう。

「……んじゃ、マユにもういっこ質問。柔道を選んだ理由は?」

「同じことやっても、ユカちゃんには勝てないんだもん」

「えー。それだけぇ? 練習積めばいいじゃん」

「私が稽古する間もユカちゃんは強くなるし。ユカちゃんの気迫には敵わないと思ったし。とにかく、あの道場に通ってもダメだなって思ったの」

 頬を膨らませたマユに、負けず嫌いだなと思った。

 マユが柔道を始めた理由は、彼女曰く、ただの偶然だったらしい。

 私だって興味だけで空手を選んでいる。私は彼女のことを友人として好きだったから、どちらが優れているかで張り合うことはしなかった。そんな不毛なことをして何になるのかと無意識のうちに疑問を抱いていたのだろう。マユは私のことを友人として愛していたけど、そこに感じた優劣を拭えずに今日に至っているようだ。

 ふむ。

 この、微かな亀裂を放置すべきか。

 私達は仲良しな幼馴染だ。この程度で決裂する仲じゃない。だけど、とマユを抱き返す腕に力を込めた。マユが私を嫌いになるのだとしたら。それは耐えがたいほどの苦痛を伴う。しばらく考えた末、私は決意した。

「マユ、喧嘩してみよう」

「……えっ」

「無暗な殴り合いとかはしないよ。でも、私達もそろそろ白黒つけた方がいいかもねって思ったわけですよ。マユと私がもっと仲良くなるためにも」

 そして、中途半端な依存関係を治すためにも。

 私の提案を聞いたマユが、ぱちりと瞬きをした。その表情は、意外にも落ち着いて見える。もっと狼然するかと思ったが、存外想定内の話だったようだ。

「それなら、いっそ他流試合したいな」

「ふーん。いいよ。負けても泣かないって約束するならね」

「それはユカちゃんの方でしょ。勝ちにこだわって、練習試合でも負けたら泣いてたじゃん。お師匠さんにも、それで怒られていたし」

「それは小学校までの話ですけどー?」

 マユの挑発に、私はちょっとムッとした。

 こういう時は、いつも私の方が先に折れていた気がするが、今回はそうもいかない。マユは私との友情関係に決着をつけるつもりなのだから、私も本気でぶつからなければならないのだ。

 もしもマユが私の背を追いかけていたなら。

 そして、いつしかそれを諦めていたというのなら。

 圧倒的な輝きで、もう一度追いかけてきてもらいたいのだ。

「ユカちゃん。私が勝ったら、なんでもひとつ、言うこと聞いてね」

「……えっちなのはナシで」

「私をなんだと思ってんのさ!」

 バシンと背中を叩かれる。同時に、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴った。

 ようやくいつもの笑顔に戻ったマユに手をひかれて教室へ戻る。私達の仲を心配していた三つ編みちゃんが、急に仲良しに戻った私達に訝し気な視線を向けていた。でも説明はしない。これは私達だけの秘密の勝負なのだ。まぁ、あの人にだけは報告をして場所を貸してもらおう。

「……ふふふ」

 ただの幼馴染から、次の関係へ踏み出す。

 道は違えども最高の好敵手を求めて、私の胸は躍っていた。

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