字句

 冬休み気分が抜けていない。勉強机に向かうよりも、部屋でぬくぬくしてベッドに潜り込んでいた方が幸せだ。しかし、そんな怠惰で幸福な生活を放棄してまで学校に来る意味があった。友人のソラに会いたかったのである。

 マユとは教室で会えるし、必要なら呼び出せば家までやってきてくれる。ソラくらいの距離感を保ってくれる相手が、多分、普通の友達なんだと思う。

 ソラは、図書室でいつもの場所にいた。

「どもー。あけおめー」

「あ、湯上さん。お久しぶりです」

 明けましておめでとうございます、とこの数日ですっかり聞き慣れた挨拶をソラは丁寧に繰り返す。お正月前に美容室へ行ったのか、僅かに髪が短くなっている。それでも私やマユより長い髪の持ち主だ。お風呂に入ったとき大変だろうなぁ、と他人事みたいに思った。

 図書館は、相も変わらず似たような顔ぶれが集まっていた。古い漫画棚の前で談笑している男子グループから遠く離れて、静かに読書をしていたソラの横へ座る。彼女は難しそうなタイトルの小説を読んでいた。海外の小説を翻訳したハードカバーだ。綺麗な装丁に心惹かれはするけれど、書面が細かな文字でびっちりと埋まっているのを見て断念した。まだ読書初心者の私には敷居が高い。

 彼女の髪からは良い匂いが漂っている。シャンプーの匂いだろうか。真面目なソラの印象に合う、落ち着いた香りだ。私はソラから借りていた小説を家から持ってきていた。

「これ、返すよ。面白かった」

「ふふっ。喜んでいただけなら良かったです」

「作者さんの他の小説も買っちゃったよ」

「あら。そこまでハマって頂けると、私としても紹介した甲斐がありました」

 私が小説を読んだことが余程嬉しかったのか、ソラは饒舌になった。

 本屋さんに並んでいたのを適当に買っただけだから、色々とオススメを聞いてみる。小説も、武術と同じく周辺分野の知識があると楽しみ方の裾野が広がるようだ。

 私が買った小説よりも後に刊行され、僅かながらもオマージュの存在が示唆された作品も教えてもらった。自分一人では興味も持たなかっただろう読書も、こうして一緒に楽しむ人がいると嬉しい気分になる。

 人の輪は大切だ。

 幸せは、増幅して伝播するものだから。

「ところで、ソラが読んでいるのは?」

「年末に知った作家さんです。正確には翻訳家さんですが……」

「何か特徴があるの?」

「はい! 原作へのリスペクトが重いんです」

「愛が重い的なやつか」

「そうです。話し始めると長いんですが……」

 遠慮して口を噤もうとしたソラを促す。彼女は書籍に栞を挟むと、お気に入りの翻訳家について語り始めた。

 ソラの教えてくれる翻訳家は、作家業の傍ら翻訳を始めた女性らしい。自分の小説の参考になる部分はないかと海外の小説を読み漁っていたら、いつの間にか翻訳も仕事の一部になっていたとはその作家さんの談だ。一言一句を丁寧に翻訳するのに、国内にない慣用句は他の言葉を探して適切に代用する。そして、習慣として根付いていないものを説明するためにはそれとなく周辺の知識を本文に紛れ込ませることで読者への負担を軽減していた。

「とかく、作者への敬意と読者への慈愛に満ちています。翻訳の自由度は低くて、原文をそのまま書いていると酷評されることもあるんですが、私は彼女の気配りこそがあの翻訳になっていると疑いません」

「お、おう。あ、女性なんだね」

「はい。本人のブログもご紹介します」

 ソラがスマホを操作して、私に件の翻訳家のブログを教えてくれた。海外生まれだが、国籍は日本にあるらしい。綺麗な目をした女性だった。

 最新のお仕事として紹介されている本が、ソラの読んでいる小説のようだ。コメント欄も解放されていて、恐る恐る覗いてみる。賛否両論書いてあって、コメント欄でも喧嘩が勃発していた。酷評されているのは本当だが、それと同じくらい愛されてもいるようだった。

 名前を拾い上げて、ネット検索に掛けてみる。

 色んなことが書いてあった。私がほへー、とネットの記事を読む間もソラの舌は回転する。そろそろ攣るんじゃないか、とか思うほどだ。

「原文の持つ意味を尊重したら、それが内包する意味を翻訳家が勝手に取捨選択するなんておこがましいんですよ。もちろん、言葉そのものにも限界がありますから、どれだけ原文通りに訳しても伝わらないこともありますけど」

「うん。なるほど」

 ソラが思いの外よく喋る。

 彼女にしては珍しい激情で、彼女を語らせるほどの熱量がこの翻訳には込められているのだろう。やや文字数が多くて抵抗感はあるが、それに興味が勝り始めていた。書店でも売られているが、出版数の加減で刊行日に入手できないこともあるらしい。だからネット通販を利用しているとのことで、オススメのサイトを教えてもらった。

 電子ビューアーもあったけど、私は紙で読むほうが楽しかった。

 その辺りは、なんだか古い人間みたいだ。

 私のスマホをソラに渡して、色々とアプリを入れてもらう。彼女の指先は、細くて白かった。少し私が力を加えれば折れてしまうだろう。爪も丁寧に整えられていて、マニキュアもしてある。薄い色だけど、目立たない程度に光沢を持っていた。

「うーん。あとはあのアプリなんですが……」

「ふむ。任せた」

「ちょっと待ってくださいね」

 お目当てのアプリが見つからないようだ。

 私は手助けをすることも出来ず、ソラの横で首を傾げるばかりである。ふたりして困っていたら、暇を持て余していた司書の先生が助け船を出してくれた。どうやら、小説の関連書籍を調べてくれる有能なアプリがあるらしかった。

 小説内に出てきたモブが、作者の他の作品に出ていないかを調べることも出来る。こんなものを作りあげるのは、余程のオタクだろうと思う。だって、好きじゃなきゃ出来ないし。調べようとも思わないのだから。

「すごいねぇ」

「えぇ。世の中には、小説を好きな人がいっぱいいるってことですよ」

「……すごいねぇ」

 小説を通して人の輪が広がることもあるのだ。

 小説はただ内向的な趣味ではない、と知ることが出来て面白かった。漫画だって教室で感想を言い合っているクラスメイトがいるし、趣味ってのはすごい力があるんだなぁと今更ながらに感慨にふける。

「あ、ちなみにさっきの翻訳家さんをこのアプリで検索にかけるとですね……」

 そして私は、まだ続くソラの翻訳家への愛を傾聴するのであった。

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