繋目
晩御飯を食べ終えて、部屋でぼーっとしている。
キッチンでは、まだ両親が話をしていた。私が知らないだけで、仕事終わりの両親は普段から今日みたいな会話をしているに違いない。家族関係が冷え切ったと思っていたのは私だけで、両親は普通に仲良しだった。
「うらやましー……」
家族の輪に入っていないのは私だけで、両親はそのことを気に病んでいた可能性すらある。それを言葉にして尋ねるにはまだ心の壁が高く、失敗したときに傷を癒す方策も思いつかない。だから、ふたりが本当は何を考えているのかは聞かないことにした。
幼少期に愛されなかった記憶が、今の私に影響を強く与えている。手を伸ばしても届かないなら、最初から諦めてしまえばいいと、本心から考えている。そういう子供になってしまった。
もし、私から歩み寄っていれば。
傷つくことを恐れずに踏み出していたなら。
「たらればの話が多すぎて、無理ね」
過去は振り返るものだ。取り戻せないし、改変も出来ない。
そもそも私、お腹いっぱいすぎて、頭がうまく回らないし。
これがドカ喰い気絶か……と思いながらベッドに沈む。
うとうとしていたら、枕がぶるぶると震えた。
「うー……うん?」
知らない間に機能が増えたのかな、と枕をひっくり返してみる。すると、スマホが枕の下敷きになっていたのだと分かる。何か着信でもあったのだろうかと電源を入れると、マユから連絡が入っていた。年が明けてからの予定を決めたいらしい。気付けば、あと数時間で新年だ。ふむ、と唇に手を当てて考える。マユと一緒なら別にどこに行ってもいいし、部屋でゴロゴロしていてもいい。要は彼女任せだ。
布団の上でごろりと寝返りを打つ。
天井を見つめながら、どうしようかと考えた。
「……ん。今日は積極的だな」
私の既読通知に気付いたのか、マユからスタンプが送られてきた。最初は膨れたお餅のキャラクターが怒っているスタンプだった。どれを返そうかなと私がスタンプを物色しているうちに、マユからは複数のスタンプが送られてくる。徐々に怒りが冷めていって、最後には半べそをかいた小豆みたいなキャラクターになっていた。あ、これさっきの餅が焦げているのか。
スタンプを送り返すのが面倒になって、私は通話ボタンを押す。思っていたよりも応答に時間が掛かって、電話口に出たマユは少し声が震えていた。
「……もしもし?」
「めっちゃ寂しがりじゃん」
「だって、クリスマスから会ってないし」
「僅か一週間だけど」
私が笑ったのに、マユは電話の向こうで頬を膨らませた音がする。
さて、どんな話をしよう。来年の抱負を語り合うのもいいけれど、近況報告でもしてみようか。って言っても、たかだか一週間で世界が変わるわけもない。空手の稽古を再開したことを告げると、マユがじたばたと暴れる音が聞こえた。これ、普通にビデオ通話にしたいな。……いや、そうすると私の掃除途中な部屋を晒すことになる。やめておこう。
「一週間の間に何があったのだー!」
「特に何もなかったけど」
「嘘だぁ。ユカちゃん、急に辞めて急に再開したね」
「気分屋だからねぇ」
のんびり答える。私の興味は、既に来年へと移っている。年始にやりたいこと、特にないんだよな。参拝はマユが行きたいと言ったらついていくだけだし。今はお腹いっぱいで眠いし。
マユの声を聴いていたら、不思議と安心して眠ってしまいそうだ。こういう時、無料の通話アプリって便利だよね。時間当たりで料金を請求されたら、果たして私の月々の携帯代はいくらになるのだろう。まだ支払いは両親に任せているけれど、そのお値段を考えただけで身震いがする程度に私の金銭感覚は小市民である。高校生でも自分でバイトをして携帯代や遊ぶお金を捻出している子がいるというのは、本当にすごいと思う。私みたいな甘えん坊には、到底無理な話だ。
「マユは最近、何かあった?」
「えー、何もないよ。私の方はねぇ――」
日比家の和やかな毎日の話を聞いていたら、お風呂の時間になった。といってもマユの側が、だ。私の方は適当にシャワーを済ませるだけだから、マユが通話を切ったタイミングで浴室へと離脱した。下着とパジャマを持って風呂場へ行くと、母が出てくるところだった。私よりも長い髪をタオルで擦りながらの登場である。晩御飯のときに多少の会話をしたとはいえ、まだ私達の間には距離がある。他人と言い切れないのは、そこに血縁があるからだった。
「お先、優香。……お風呂、熱いわよ」
「平気。熱い方が好きだから」
「そう、だったの? いつも温いお風呂だから」
「”お母さん”の帰りが遅いからだよ」
「……確かに。なるほど、そういうことだったの」
有名大学を出て、一流の企業に勤めているはずの人でもそこまで思考が回らないことがあるんだな、と私は素直に不思議だった。
素っ気ない返答だったかな、と微かに疼く罪悪感から逃げるように脱衣所へと飛び込む。服を脱ぎ捨てて浴室へ入ると、母が使っているシャンプーの香りが残っていた。ボタニカルな香り、とでも表現すればいいのだろうか。自然な花の、仄かに甘い香りだ。バススツールに腰掛けて、頭からシャワーを浴びる。身体を洗っているときよりも、髪を洗っているときの方がお風呂に入っている、という感じが強いのはなぜだろうね。頭皮をもみほぐすように洗って、今日一日の疲れが抜けていくよう祈る。晩御飯前にシャワーを浴びていたこともあって、なんだか普段よりも綺麗に洗えた気がした。
うむ。
今日は湯舟にも浸かっておこう。
右足からそっと、お湯に沈んでいく。
「ぅ、ぁ……気持ちいい……」
全身が湯舟に浸かると、肌がピリピリする。母は私と同じくらいの温度が好きみたいだ。特に示し合わせたわけでもないのに、嗜好が似通ってしまうのも親子だから? 血で結縁する関係なんて呪いくらいしかないと思っていたけれど、考えを改めようかしら。そんな風に思った。
お風呂を上がった後、バッチリ着替えてから浴室を出る。髪が短めだとドライヤーを使わなくてもいいから楽だよね、という話をしたらマユの妹達に怒られたことがある。お手入れは大事ってことらしい。私の美意識は小学生に負けるのか……としょげたのも覚えていた。
歯ブラシを片手に父の様子を見に行く。父はキッチンで、母と一緒にテレビを見ているようだ。手にはワインの入ったグラスを持ち、頬は薄い朱色に染まっていた。飲みすぎなんじゃないか、と隣で同じくワインを傾ける母に視線を向ける。
「……大丈夫なの? 顔赤いけど」
「平気よ。パパ、お酒飲むと赤くなるの」
「体質だからねぇ。飲める量は普通なんだけど」
「へー」
知らなかった。
私が寝ている間に帰ってきて、ふたりで晩酌をしたりしていたのだろうか。
私たちは親子なのに、互いに知らないことばかりだった。
口を漱いで、もう一度キッチンを横切る。
「それじゃ、私は寝るから」
おやすみ、と形式ばった挨拶をして部屋へと戻る。両親間の仲は良いようだ。私もお酒を飲むようになれば、ふたりの会話に入っていけるようになるだろうか。私以外の子供に恵まれなかったのか、それとも子供は産む予定じゃなかったのか。色々と聞きたいことはあれど、そのすべてを言葉にするのは憚られる。考えるのも疲れて部屋に戻る。スマホにはマユからのメッセージが届いていた。
「お電話、お待ちしております……か」
やや迷って、部屋を簡単に掃除した。目立つゴミだけ片付けてから、ベッドへ寝転んでスマホを充電器に繋げる。そして、マユへと電話を掛けた。今度はビデオ通話だ。僅かなコール音と同時に画面が切り替わり、しかし映ったのはマユの家の居間だった。ぎゃいぎゃいと言い争う声が聞こえて、しばらくの後にマユの妹、芽衣が顔を覗かせる。ひょっとして、私への通話優先権をめぐって喧嘩でもしていたのだろうか。
「あれ? 芽衣じゃん。やっほー」
「やほ、ユカち」
「マユはどこ行ったの? まだお風呂?」
「うん。髪を乾かしてる」
その間は私とお喋りしよ、と彼女は目を輝かせている。
んー、芽衣とは特に話したいことがないんだよな。私が小学生の頃に気になっていたことと言えば、道場が開館しているかどうか、あとは宿題という難敵が倒せているかどうかだった。芽衣に宿題が終わっているかどうかを尋ねたら、彼女は鼻息荒く胸を張った。
「完璧。パーフェクト」
「すごいね。ワンネイダ」
「なにそれ?」
「中国語でパーフェクトって意味」
「すげー。ユカち、天才じゃん」
台所に置いてあった調味料に書いてあって覚えた、私が唯一漢字で書ける中国語である。完美的、って書けばいいんだぜと教えると芽衣は目を輝かせて喜んでいた。もし今後、これが切っ掛けで芽衣が中国語を学ぶ機会が訪れたら私は三日で追い抜かれることだろう。それも面白いかな、と楽し気に笑う小学生を眺めていたらマユが戻ってきた。髪を乾かすのにえらく時間が掛かっていたけれど、妹ちゃんが私と話す時間を作っていたのかもしれない。などと好意的に解釈していた私の気持ちを裏切るように、マユは芽衣の尻をぺちんとはたいた。
みゃー、と猫みたいな声を上げて芽衣が飛び退く。
スマホの画面も大きく乱れた。
「芽衣、交代。お終いだよ」
「えー。ヤだ。寝るまで通話する」
「ダメ。ユカちゃんは私と話したいのよ」
「んじゃユカちに聞く。ねーユカちー」
甘えるような声の芽衣から視線を逸らすように、飲み物を取ってくるといって席を外した。あと数秒遅れていたら、質問攻めにあうところだったぜ。浮気相手と交際相手から同時に詰め寄られたら、こんな感じで気まずいんだろうな。二股をしないようにしよう、と心に誓った。
時間を掛けて、ほとばりも冷めた頃になって部屋へ戻った。通話の切れていたスマホの向こうで修羅場が展開されていないことを祈りながら、もう一度話せるかと短い文面をしたためる。マユからはウサギちゃんがOKサインを出しているスタンプが送られてきた。
再びの通話もすぐに繋がった。今度はマユの部屋で、マユが画面を占有している。服がやや乱れて、胸元がすごいことになっていた。これは芽衣と喧嘩をしたな、と深い谷間を覗き込む。マユは私にないものを持ちすぎだと思うので、少しくらいは分けてくれないだろうか。私の視線には気付いていないのか、マユは顔をパタパタと仰いでいる。熾烈な戦いだったようだ。
「もー、ユカちゃんのせいで大変な目に遭った」
「姉妹喧嘩を私のせいにしないでよ」
「ユカちゃんが芽衣に好かれるのが悪い」
「理不尽すぎて笑っちゃうんだけど」
芽衣の話も程ほどに、私達は年始の予定について話し合った。
あまり芽衣を輪から弾き出すと姉妹仲にも悪影響があるから、冬休みのうちに一度は遊ぶ日を合わせてあげることも決めた。遊ぶ内容は彼女に決めてもらえばいいだろう。話していたら喉が渇いて、私は枕元に用意したペットボトルに口を付ける。透明無色なのにオレンジの味がする、不思議なジュースだ。これが天然水などという名前で売っているのが、なんとも度し難い。透明なオレンジジュースではないのか、といつも疑問に思っていた。マユも私に釣られたのか、枕元に置いてあるのだろうお菓子へと手を伸ばす。今日は飴ちゃんだった。コロコロと口の中で転がしたマユの頬が少し膨らむ。可愛かった。
「寝る直前にお菓子なんか食べたら虫歯になるぞ」
「ちゃんと歯を磨いているから問題ないよ」
「えー。ホント?」
「本当だよ。いつもユカちゃんが先に寝落ちするからねー」
知らないだろー、とマユが笑った。
肩を揺すると、胸元もちょっと揺れる。なんかムカついた。私はこれだけスレンダーなのに、彼女は全身に筋肉のみならず別の肉もついている。もちっとしているのに、身体全体のラインとしては細い部類だ。それが羨ましくて、彼女の胸元へと視線を向ける。そんな私の邪な気持ちを知ってか知らずか、マユは呑気に欠伸をしていた。この子は本当にマイペースだ。私も他人のこと言えない程度には自分勝手だけど。
マユの胸元に目を凝らすと、僅かに下着も覗いていた。真っ白で地味な下着だ。彼女はそういうところで恥ずかしがるので、別に驚きはしなかった。それよりも、まだ服の乱れを直していない方が気になる。妹との戦いで火照った身体を冷ますために服を緩めていたのが、今や気を緩めすぎて戻すのを忘れてしまっているようだ。このまま放置しておいてもいいけれど、目のやりどころに困ってきた。このままマユの胸元を見続けていると、次に顔を合わせた時にその肌の色を思い出してしまいそうだ。
仕方ない。指摘しよう。
「マユ。服、だらしないわよ」
「えー。……うわ、ホントだ。忘れてた」
「風邪ひいても、もう助けてやんないぞ」
いそいそと服装を正し始めたマユに苦言を呈しておく。
丁寧にボタンを掛け直したマユが、咳払いをしてベッドへ戻ってきた。その耳元が朱色に染まっていた。ハグとかは平気でも、胸に触れられたり、あられもない姿を見られるのには抵抗があるようだ。でもお風呂とかに誘ったら普通に入ってくるしな。よく分からない子だ。その羞恥心が機能を取り戻すためのボタンを探すのは、埋まっている地雷を探すよりも難しかった。
「んで。年明け。何しますか」
「普通に初詣行こ。近所の神社でいいや」
「うむ。……ところでユカちゃん」
「なんでしょうか、マユさん」
「……見えてたなら言って欲しかったなー、って」
「ごめんね。次はもっと早く言うから」
私が下着姿だったら、マユはちゃんと教えてくれるのだろうか。
分からないけど、試すつもりもないし。
でも、なんとなく。
今年最後にいいもの見れたなー、って思ってしまう私がいた。
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