演技
ソラが書いていた恋文の主が気になって、夜しか眠れない。
惰眠を貪ることによって精神的なリラックスを得ていた私にとっては大問題だ。冬休みだというのに、楽しいことがなかった。ソラの交友関係は把握していないけれど、恋愛譚の渦中にいる人物には人並みに興味を惹かれる。
「誰なのかなー……」
面白い話だったら、私もソラよろしく傍聴席を用意してもらいたい。でも、どこにも私が求めるような御伽噺は転がっていないだろう。退屈という言葉では紛らわせない刹那の焦燥が胸を焦がすのに、それを解決する術を持ち合わせないのだ。
「んー……」
それはそれとして、頭を悩ますことがあった。
手紙を書く機会もないけれど、年賀状はどうしよう。
毎年顔を合わせて挨拶するから、最近は年賀状を送る習慣もなくなっちゃんたんだよな。文章にすれば僅か一行で済む話を、紙にしたためて送るなど時間と資源の無駄ではないだろうか。電子機器が今ほど発達していなかった時代においては個人の近況を親しい相手に知らせる僅かな手段だった手紙も、今や面倒な季節の折の風物詩になっているのではなかろうか。
などと、手紙や年賀状を出さないための理由を考える。
考え続けていないと、退屈に押しつぶされる。
その後に来る得体のしれない焦燥感が怖くて、私は顔を覆った。
「……走ろう」
思い立ったが吉日だ。
しかも、そのために稽古も再開したのだし。道場はお休みだけど、個人で自主練習をする方法は知っている。幼少期を鍛錬に費やしたおかげで、友人付き合いの仕方も分からなくなるほどだ。
運動しやすい服に着替えると、防寒着を纏って自分の部屋を出る。珍しく家にいた母親と鉢合わせた。日々の仕事に疲れ、生気の薄い顔だ。幽霊を目撃した子供みたいに、私は咄嗟に顔を俯けた。足元だけが覗く視界で、母親が足を止めたのが分かる。すれ違いながら呼吸を止めた。
互いに会話はない。挨拶もしない。
母親の顔を見るのが怖くて、私は急いで家を出た。
「……さっっむ。やっぱ冬だわ」
誰に言い聞かせるわけもなく、独り言ちる。
家の外は寒くて身体が震える。
軽く準備運動をしてから、ゆっくりと走り出した。こんな寒い中、わざわざ走る私はバカみたいである。それもこれも趣味がないのが悪い。私の人生を振り返っても、そこには何もない。ちょっとカラテの大会で成績が良かったからといって、それだけで誰かに愛されるわけじゃないのだ。冷え切ってしまった家族との関係を今更修復しようにも、その手立ては思いつかない。
不意にマユの顔が浮かんだ。
彼女が、心底羨ましい。私にないもの、全部持っているから。
「……ヤなやつ」
本当に私は、湯上優香は悪い奴だ。
家族関係が良好で、弟妹にも恵まれたマユを羨んでいる。柔道の大会で優勝して、部活の友達がいるマユを羨んでいる。趣味があって、目標があって、日々が充実しているマユを妬んでいる。どうしたら彼女みたいになれるだろうか、と僅かに浮かんだ疑問を捩じ切るように思考の彼方へ消し去った。そんなこと考えたところで意味なんかないから。
マユはただの友達じゃない。
もちろん、恋人でもない。
私の幼馴染だ。それ以外の何だと言うのだ。
考えながら走っていたら石ころに躓いた。爪先の痛みを堪えつつ振り返っても、私がコケた石ころは見当たらない。蹴り飛ばしてしまったのか、最初からそこには何もなかったのか。考えても答えがないことは考えまいと、マユ同様に思考から押し出した。肺の空気を絞り出すように、脳からも雑念を捻りだせればいいのに。残滓がいつまでも残り続けて、私は考えることを止められなかった。
街を走る。
ガード下の薄暗いトンネルをくぐるタイミングで、私の上を電車が走った。超高速で走る電車から外れたパーツが頭の上に落ちてこないかと不安になって、手のひらをヘルメットのように頭へ当てる。耳を塞ぎたくなるほどの騒音だ。慣れている人にはなんてこともないのだろうけれど、私は電車に乗る機会もなく、身をすくませながら走った。
トンネルを抜けた後は広い通りを走る。自動車の通行量は多いが、通勤用の道路なのだろう。道の両端には飲食店もなく、つまらない風景が広がっているだけだ。走り続けて日が暮れる。昼過ぎから二時間ほど走って、気付けば随分と遠くへ来てしまっている。帰り道は行きよりもスローペースに、疲れた筋肉を解すようにして歩いた。私は今日も、何も得られないまま家にまで帰ってきてしまった。シャワーを浴びて、しっかり身体を拭いてから自室へ向かう。
部屋へ引きこもる前に、ふと台所に立ち寄った。
珍しく母親が台所に立っている。流し台にはスーパーの袋が並んでいた。
「おかえり」
「……た、だいま」
突然、母親から言葉を掛けられて返答に窮した。
喉につっかえて、言葉が上手く出ない。母親が料理をしているところを見るのは久しぶりだった。仕事が忙しい時期はコンビニで買ってきた弁当ばかりを食べているようだし、それは父親も一緒だ。そんな彼女が台所に立っている光景は妙に場違いで、居心地が悪い。私だけのものだと思っていた包丁を器用にふるって、母親が作っている料理は何だろう。
物珍しさに負けて材料を覗き込んでいた私に、母親が声を掛けてくる。
「……すき焼きは嫌いかしら」
「……私の分もあるの?」
「用意はしている、つもりだけど……足りる? もしも外で食べてくるなら、用意しない方がいいかしら」
「家で、食べる、けど」
およそ一年振りの会話だ、と思う。前回いつ喋ったのかも曖昧な私と母親の会話はぎこちなくて、どちらからともなく視線を逸らした。母親が指差したビニール袋にはお肉屋さんで買ってきたのだろう牛肉のパックが山と積まれていた。かなり量が多い。男子学生がノリで買い漁ってきたと言われても信じられる量だ。適当なパックを手に取って、そのお値段に驚く。年末とはいえ、こんな値段のお肉を食べてもいいものか。ひぇー、と私の喉から微かな悲鳴が漏れる。
母親が、微かに笑った気がした。
「優香。手伝ってくれるかしら」
「……うん。いいよ」
他にやることもないから。
そう言い訳して、私は鍋の準備を手伝うことにした。
普段は使わない棚から未使用のガスボンベを取り出して、カセットコンロにセットした。鍋は通常のコンロで調理を済ませてから、食べている間に冷めないようにカセットコンロへと移すのだ。着火の確認を済ませて、母親が切った材料をテーブルへ並べていたら、人の気配に振り返る。
眠そうな顔の父親が立っていた。この時期に仕事が入っていない父を見掛けたのは中学一年以来のことで、実に三年振りだった。顔を擦った父はぼそぼそと何かを呟く、おはようとこんばんはが混ざった、奇妙な挨拶だった。
顎に手をあて、無精ひげがあることに気付いたようだ。毎朝、身嗜みには念を入れている父親にしては珍しい光景である。夕方頃に起き上がってくるのも珍しい。何やら今日は、珍しいことばかりだ。父親の方も私が手伝いをしているのに目を丸くしていた。
「……優香、今日は母さんにすき焼きを作ってもらうんだが」
「……うん。一緒に食べるよ」
「そうか。良かった。肉は足りるか? 俺が買ってきたんだけど……」
メモを見ながら買ってきた、と山積みになった肉の理由が明かされる。料理がまったく出来ないはずの父親が買い出しに行ったせいか、と得心して手を叩く。
たぶん、母親が料理の材料を書いたメモを父親に手渡したのだろう。材料名だけが書いてあって、数量の指定がないからと適当に買ってきた結果がこの山積みの肉である。素人なりに良いものを選ぼうとしたら、基準が値札の高低しかなかったからこその良いお肉ちゃん達なのかもしれない。流石に金銭的余裕にはことかかない人だ。
「充分だよ。多いかも」
「そっか。残ったら他の料理にも使える?」
「うん。工夫すればいいよ」
私が苦笑いを浮かべると、父親は気まずげに頬を掻いていた。私は冷蔵庫の中を確認して、必要な食材を取り出す。野菜室には白菜が半分残っているし、卵もまだ手を付けていないパックがあった。忙しくて在庫を把握していなかったのか、それとも私が使っているからと遠慮した母親の気遣いか。
分からないけれど、家族が勢ぞろいしてご飯を食べる機会なんて滅多に訪れない。この機を逃すまいと、私は張り切って台所に立った。脚は微かに震えている。両親の目を正面から見ることは出来ない。良好とは言えない冷めた家族の間に吹いた、僅かばかりの温い風だ。明日にはまた、挨拶もしない関係に戻るかもしれない。三が日が過ぎれば、両親はまた激務の生活に戻っていくだろう。
それでも。
今日くらいは、普通の家族を演じていたかった。
「……”お父さん”、お箸用意して」
「おう。どこにあるんだい」
「食器棚の右下の引き出し。全員分出して」
「ん。了解。……レンゲとかいる?」
「いらない。すき焼きは汁飲まないから」
父親との会話も久しぶりだ。
彼は私の返事を聞いて、少しだけ嬉しそうにしていた。普段の私なら、こんなやり取りも素っ気なく終わらせてしまうだろう。今日、こんな風に話せるとは思っていなかった。だから、私の声音にも自然と柔らかさが宿る。そういう風に心掛ける。
母親から渡された割り下を鍋に注いで火を付けた。醤油やみりん、酒を混ぜた調味液に砂糖を混ぜ込んだものだ。母親が自分で調味をしたようで、香りに期待も高まる。ぐつぐつと煮え立つ音を聞きながら、私と父親は椅子に座った。鍋から立ち昇る湯気を眺めていたら、父親が席を立った。娘との無言に耐えられなかったのかな、と眺めていたら冷蔵庫から白いビニールに包まれた瓶を取り出した。
日本酒だ。私は未成年だから、まだ飲めない。
コップをふたつ用意して、母親とふたりで一気に煽る。
「それもお父さんの趣味?」
「いいえ。お酒は私が買ってきたものよ」
「そうなんだ」
「優香のも別に用意してあるから。ノンアルコールだけど」
母に促されて、父が冷蔵庫に再び手を掛けた。
少し探すのに手間取ったけど、私にもちょっとお高いジュースを用意してくれているようだ。父に注いでもらったオレンジジュースは濃厚で、果汁の酸味に慣れていない舌がピリピリと焼けた。この高級そうなジュースが美味しいと感じる頃には、私はオトナになっているのだろうか。
ぷふーっ、と息を吐くとコップをテーブルに置く。母が用意してくれたすき焼きを囲みながら、いつ振りとも知れない家族団欒が始まる。それはとてもぎこちなくて、今にも逃げ出したくなるほどで。
でも。
望むものを手に入れるためには、逃げてはいけない。
そんな気がして、私は普通の家族を演じることにした。
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