師匠②

 奈乃師匠と一緒に街を走る。

 年の暮れも近いのに、身体が疼いてしょうがない。朝早くに師匠を誘って、体力作りのために街路を走っている。クリスマスにあれだけ降り積もった雪は日を跨ぐうちに溶けて消え、ただ街には冷たい風が吹くのみである。

 吐く息は白く、額に浮かぶ汗は信号待ちをしている間に消えていく。身を切るような寒さだが、私はこのくらいの気温の方が動きやすくて好きだった。

「こんにちは!」

「……ちはー」

 奈乃師匠に遅れて、すれ違う街の人と挨拶をした。師匠も、誰彼構わず声を掛けているわけじゃない。その顔を見ていれば、いつもの散歩コースで、よく顔を合わせる人を相手に絞っているのだと分かる。でも、こういうのが将来的な人付き合いとか、「あの道場の〇〇さんは元気がいいねぇ」みたいなご近所さんの評判作りに役立つんだろう。ま、師匠がそこまで考えて挨拶をしているとは思えない。

 だって、師匠はポンコツだし。

「おい、ゆっちー。呼吸が乱れているぞ」

「……はい。すいやせん」

「ゆっちーから誘ってきたんだからな。頑張れよ」

「はい。頑張ります」

 なるべく元気よく返事をしたつもりだが、どう聞こえただろう。

 集合した道場で準備運動をしてから、既に三十分は走っているだろう。コソ練をして体力をキープしていたとはいえ、これだけ走り続けていれば息も切れる。汗も流れるし、喉も渇いてくる。乾燥した冬の空気に、喉の奥がピリピリしていた。

「ひっぃ、ふぃ、ふーぅ」

 走りながら呼吸を整える。

 この前、マユと一緒に走った時よりもペースは速い。

 冬の空気は澄んでいて、肺が痛くなる。でも、不思議と心地良かった。身体を動かせば心も弾む、ってことだろうか。全国大会の優勝を目標にしていた頃よりも焦燥感は薄く、代わりに漠然とした不安のようなものを感じるようになっていた。今のままの私がマユの側にいるのは、お互いのためにならない。共依存している間は、健全な関係など育めるはずもないのだ。

「その、ための、カラテ!」

「ん? なんか分からんけど、頑張れ」

「そのぉ、ためのぉ、ぶじゅ、じゅ、つー」

 息も絶え絶えに奇声を上げる。

 走り続けていると、徐々に身体から疲れが抜けていくようだった。もちろん、錯覚だ。なんか気持ち良くなってきて、重い足取りと反比例するように心が浮き上がってくる。隣で走っていた奈乃師匠にも私の混乱した高揚感が伝わったのか、私の肩をがっしりと掴んでペースを徒歩にまで落としてくれた。

「うん、お疲れ。そのまま歩いて」

「はっ、ひぃ、ふぃー」

「だいぶん体力落ちてるね」

「そうですか? 自分じゃ分かんないですけど」

 見栄を張るため、嘘を吐いた。

 師匠のちっこい手が私の背中を擦ってくれる。

 学校指定のジャージをこすって、冷えていく身体を温めた。確かに、前よりは持久力が落ちている気がする。肉体の総合力と言ってもいい。疲れて動けなくなっても、心の炎が燃えていれば前には進める。その死ぬ気のやる気をもたらす燃料が、今の私にはないのかもしれない。あとは、単純に基礎体力の問題だろう。コソ練をしていたとはいえ、結局は全盛期の練習量の半分以下だし。

 また頑張ってみるか。

 趣味ないし。家でゴロゴロするよりも有意義だろう。

 誰もいない道場に戻ると、休憩のために座り込んだ。スマホをつけても、マユからの連絡はない。むぅ、薄情なやつだ。師匠も私の隣でスマホをいじっている。奈乃師匠の待ち受け画像がチラリと見えた。ヤンキーっぽいお姉様と清楚系のお姉様が、仲良く肩を組んでいる写真だ。奈乃師匠の彼女のカノさんと、奈乃師匠の姉の舞玄師範だ。カノさんは、社会人カラテで圧倒的な優勝回数を誇る嶋井舞玄師範に、この道場の内外で唯一比肩することの出来る女性だった。

 奈乃師匠は、姉も、彼女もカラテの達人だ。

 だからこそ、ふと思う。

「師匠はどうして、大会に出ないんですか?」

「ん? えっ、どうしたの急に」

「だって、周りにすごい人いっぱいいるじゃないですか」

 だから並びたいとか、隣に立ちたいとか。そう思ったりしないのだろうか。

 問いかけると、師匠は困ったように首を傾げた。

 考えたこともない、って顔をしている。

「うーん。私は別に、強くなりたいわけじゃないしなぁ……」

「えー。じゃあ、師匠は何のために師範代にまでなったんです?」

「カノのためだよ」

 今度は即答だった。

 その瞳には羞恥心すら滲まない。

 確固たる決意と、自信が漲っていた。

 私の師匠は、最強の名をほしいままにする姉ではなく、その好敵手であるカノさんのためにカラテを続けているようだ。恋仲になったからその目標を立てたのか、その目標が高じて付き合い始めたのかは不明だ。でも、師匠の清々しいまでのドヤ顔を見るに、彼女達の関係性は良好らしい。そりゃ付き合って十年にもなるのだ。家族ぐるみの付き合いで十年も側にいて、険悪な仲ですと言われても私は到底信じられなかった。

 不意に奈乃師匠が道着を脱いで、タオルで汗をぬぐった。細い身体だ。押せば飛びそうな体躯だけど、彼女は結構強い古武術家である。大会数や賞金の関係で舞玄師範やカノさんはカラテを中心に稽古しているけれど、この道場は元来古武術を教えている道場だ。奈乃師匠は先のふたりよりもカラテこそ弱いが、古武術の型を披露しているときは道場の誰よりも綺麗だった。

 それだけの才能がありながら、自らが矢面に立つ気がないらしい。自分が才能を持つ古武術よりも、愛した相手が選んだカラテに絞って指導技術を磨いている。そのおこぼれを、私みたいな暇人がもらっているってことだった。

 不思議だ。

 奈乃師匠には出世欲や顕示欲がないのだろうか。

「……いや。あるな」

「ゆっちー。ぼそぼそ煩いんだけど。それよりこれ見て?」

「わぁ、おいしそーですネー」

「棒読み過ぎるでしょ。これ、お姉ちゃんが作ったの」

「普通に上手でコメントに困ります」

「だろ? そっちの素の反応の方が欲しいんだよなー」

 にしし、と師匠がご機嫌に笑う。

 奈乃師匠が見せてくれたスマホの画面には、とても美味しそうな料理が映っていた。肉汁たっぷりのハンバーグ、付け合わせのポテトサラダ、コンソメスープ、そしてパスタ。盛り付けられた皿からは湯気が立っていて、熱々な様子が伝わってくる。舞玄師範の趣味が料理だと聞いたことはあるけれど、ここまで上手だったとは。料理の写真には、ちゃっかりカノさんが映り込んでいる。今年で三十路になるはずの彼女は金髪をなびかせ、真っ黒パーカーを羽織っている。相変わらずのヤンキースタイルだが、美人なのは変わらない。

「仲良しですねぇ」

「でしょー。いやぁ、久々に自慢できて嬉しいよ」

「他の人に自慢するとウザがられるんでしょ」

「うん。マジで嫌な顔をしてくるんだよね、みんな」

「そりゃ五分おきに惚気話をされるとねぇ」

 幸福のお裾分けも、度が過ぎれば毒である。

 軽くストレッチをしてから、運足の練習をした。いわゆる足運びである。

 私が得意とする技は足回りに多い。カラテの大会でも、最後には足技で決めることが多かった。足腰の強さが勝敗に直結するから、この足運びの練習には気合を入れて臨む。わずか半歩の間合いで相手を畳に沈められることもあれば、相手の拳が深く刺さって敗北を喫することもある。

 古武術も、カラテも、奥は深い。

 それはとてもワクワクして、楽しくて。

 どうして私は、あんなに辛い練習しか出来なかったのかな、と悲しくもなる。

「よし、いったん休憩!」

「……今日は休憩が多いですね」

「ゆっちーの体力がないからだよ。感謝してもいいくらいでしょ」

「それは確かに。誠にありがとう」

 一通りのメニューを終えてから、また休憩を挟んだ。自然と師匠の惚気話に付き合わされる羽目になって、あぁ休憩時間が多いのはこのためかぁ、と苦笑が漏れる。他人の恋愛模様を聞くのは苦じゃないし、むしろ楽しみですらある。ここにソラがいたら、目を輝かせて師匠の話を聞きたがるだろう。

「師匠、今日は大晦日ですよ。カノさん、寂しいんじゃないですか」

「大丈夫だよ。お姉ちゃんがいるし」

「舞玄師範ですよね。奈乃師匠ご公認の浮気相手ですか」

「んなわけあるかい。あのふたりは喧嘩友達なの」

「喧嘩するほど仲がいいっていいますよね」

「……でも、カノと一緒に寝るのは私だし」

 もごもごと言葉を濁らせた師匠だったけど、私の記憶が正しければ師匠はカノさんと同棲していたはずだ。それが浮気防止になるとは思わないけど、それだけ仲が良ければ浮気するリスクも低いんじゃないかなぁとは思う。社会人同士の恋愛模様を知らない私が言うのもアレだけど。

 喧嘩できる友達がいるって、いいなって。

 そんなことを思いながら、私は師匠の話を聞く。

 稽古がしたいというわがままを聞いてもらった代わりに、師匠の惚気話を聞くのだ。そういえば、昔もこんな感じで練習していたなぁって思い出して少し懐かしくなる。当時は私がオーバーワーク気味で、それを抑えるために師匠が無理に長話をしてくれていたのだ。

 ……ふふっ。

「意外と私、師匠から優しくされていたんですね」

「えっ、何? 私に惚れたとか?」

「それはないです」

 ごちんと道場に鳴り響くほどの拳骨も懐かしくて、私は涙が出るほど笑ってしまった。稽古がこんなにも楽しいものだって初めて知って、だからこそ私は寂寥感に心が覆い潰されるのも知ってしまう。

 どうか、この楽しさが。

 ずっと続きますようにとだけ、私は願うのだった。

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