師匠

 降雪した日は最悪だ。

 まだ学生が登校する期間だったから歩道の部分が除雪されていたけど、冬休みになってからだと誰も雪なんか退かさないからな。豪雪地帯じゃないし、半端にインフラが整っているから誰も家から出ないようになるのだ。結果として、大雪の日に外を出歩くのは可哀そうな社会人か、元気の有り余っている子供達か、私みたいな変人のみになるのである。

「さっっっっむ」

 防寒着を重ねてきたけど手足が冷える。手を繋ぐ相手も今日はいないから、心も冷える。最悪だ。これで道場が閉まっていたら、玄関を蹴破ってから帰ろうと思う。ついでに看板も盗っていこう。

 最寄りのコンビニで缶のココアを買ってから道場へ向かう。糖分たっぷりの温かい液体が喉を通ると、吐き出す息の白さが増した。

 道場までは、自宅から徒歩十五分ほど。自転車だともっと早いけど、流石に雪の日は危ないから自重して歩いた。てこてこと道なりに歩いていくと、見慣れた看板が私を出迎えてくれる。おやつの時間はとっくに過ぎているが、夕方と呼ぶにはまだ早い。道場が空いていれば人がいるはず、とビルの駐輪場に目を凝らす。いつもより数は少ないが、自転車で来ている子もいるようだ。玄関へ向かうと、他人の気配がある。気後れするかと思ったが、気付けば扉を開けていた。やはり古巣である。遠慮する気持ちは起きなかったようだ。

 稽古場よりも先に更衣室へ向かって、女性用更衣室に鍵が掛けられていることを思い出した。電子錠で、数桁の暗証番号を打ち込むことで解除される仕組みだ。果たして正解はなんだったかな、と適当にボタンを押してみる。定期的に更新が掛けられていたが、私の覚えている番号はどれも違った。あまり間違い続けて警備会社に連絡が行っても迷惑をかけるので、素直に師範へ挨拶をしに行こう。あの人、試合の時以外は優しいからな。

 階段を降りて稽古場へ向かうと、そこには物好きが集まっていた。全体練習の日ではないから、それぞれに好みの稽古を繰り返しているようだ。私よりも年上の、社会人の生徒が目立つ。アマチュアクラスで試合に出ている人もふたりいて、なるほど強さの秘訣は積み重ねた稽古にあるのだろうなとコソ練をしていた私は胸を撫でおろす。またイチから空手を習い始めるとなれば、趣味として続くとは思えなかった。

 私、面倒なことは嫌いなので。

 まぁ、今回もただの趣味じゃないんだけど。

「……っと。あれ? いないじゃん」

「あら。どちら様かしら」

「どうも。こんにちは。湯上と申します」

「こんにちは。誰かを探しているの?」

 入口から様子を窺っていた私に話し掛けてくれたのは妙齢のマダムだ。私の顔を知らないところをみるに、入会して一年未満の方らしい。

 嶋井舞玄師範を探している旨を伝えると、彼女は小首を傾げた。師範の名前がすぐに出てこないなら、試合にも興味がないようだ。この道場には身体を動かすのを目的に入会する人も多いから、彼女のその手の人に違いない。

「ごめんなさいねぇ。私じゃ分からないみたい」

「いえ、ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げて、妙齢のマダムに礼を告げた。稽古場で練習していた姉弟子達の元へ向かうと、よく見知った顔を見掛けた。手を振ると、彼女はくりくりとした目を大きく見開いた。

「奈乃師匠、ども」

「ん? おっ。ゆっちーだ! おひさー」

「ご無沙汰してます。相変わらずちっちゃいですね」

「うるせぇ。ゆっちーもチビだろうが」

 自分より頭ひとつ背の高い相手と組手をしていた、小柄な女性の元へと駆け寄る。

 彼女は嶋井奈乃。私の姉弟子で、師匠で、舞玄師範の妹だ。そろそろ三十路になるはずだが、それを感じさせないほど若々しい風貌をしていていた。私の制服を貸しても似合いそうだ。

 久しぶりの再会に握手を交わし、彼女と組手をしていた姉弟子にも頭を下げる。世間話もそこそこに、私は彼女に舞玄師範の居場所を尋ねることにした。

「師範はどこに行ったんですか」

「年の瀬に試合があるから、カノと調整してるよ」

「そっか。そんな時期でしたね」

「んで? ゆっちーも試合に出たいの?」

 エントリー期間は終わったけど、と奈乃師匠は悪戯っぽく笑った。

 私が急に道場へ顔を出さなくなったことを責めもせず、彼女は寛容に受け止めてくれるようだ。私がもごもごと口ごもると、彼女は何も言わず私を更衣室へ連れて行ってくれた。鍵が開かなかったことを説明してはいないけど、着替えを背負ったまま稽古場に現れた私をみて自然と察してくれたのだろう。高校時代に後悔したことがあるとかで、他人の機微に敏感な人だった。

 着替えを済ませて稽古場へと戻ると、奈乃師匠は休憩を取っていた。彼女と組手をしていた人は、別の人と組んでいるようだ。私が邪魔をしてしまったみたいで、申し訳なくなる。

「すいません」

「いいってこと。高校生活は充実してた?」

「あー。うーん……」

「その様子だと、まだ友達いないみたいね」

 にししっ、と奈乃師匠が私をからかってくる。

 師匠だって友達少ないくせに、と私は頬を尖らせた。こうして軽口を叩けるのも、十年近い付き合いがあるからだった。

 両親に認められたい、と他の子とは明確に違う理由で戦っていた私だ。私が道場へ戻ってきた理由も気になっているに違いないのに、それを聞かずに普通に稽古をさせてくれる。怪我防止の準備運動が終わったところで、やはり説明責任は果たさねば、と私は正座をした。奈乃師匠に手招きされて、場所を道場の隅へ移す。姉弟子達の視線を追い払うように手を振って、師匠は私に向き直った。

「よし、聞こうか」

「すいません。私――」

「……ゆっくりでいいよ。話せるところだけで」

「はい、すい……ありがとうございます」

 師匠は小柄な人だけど、その懐は海より深い。私が無理を言って鍛錬に鍛錬を重ねていた時期も、私が壊れないギリギリを見極めて手綱を握ってくれていた。彼女の指導がなければ、私の全国大会優勝があったかも怪しい。その意味では、技術的には遥か高みにいるはずの師範よりも私にとっては大切な人だった。彼女にだけは、私が道場へ戻ってきた理由を説明しておかなければならない。

「私は、幼馴染と離れたくないからここにいます」

 きっぱり言うと、師匠は目を丸くした。

 それから少し寂しげに微笑む。

「いい子だねぇ、ゆっちーは」

「いえ、違うと思います。自分のためだから」

「だとしても、だよ」

 師匠の言葉の意味は、今の私には分からなかった。

 武術は好きだ。好きだけど、私にとっては手段のひとつに過ぎない。退屈を紛らわし、幼馴染と会話する切っ掛けを作るための道具のひとつなのだ。道着を捨てずにいたのも、マユに自慢できるほど修練したものが古武術しかないからだろう。それを重々に承知しているから私は武術を捨てられない。こっそりと練習は続けているし、マユと一緒にいることで降りかかってくる火の粉を振り払うために悪用もする。私にとっての最優先事項はマユだ。それじゃいけないと思っているから、その次に私の中で大きな存在の武術の比重を大きくしようと目論んでいる。

 道場に来た頃の写真を見返したのも、きっと、天啓みたいなものだろう。

「ふむ。家族の次は、幼馴染のために、か」

「ダメですかね」

「うーん。それは私が決めることじゃないしなぁ」

「……師匠はいつも適当ですからね」

「なははっ。そういうとこ、ゆっちーもあるんじゃない?」

 師匠は私の背を押してくれるようだ。すごく嬉しい。もしマユがいなければ、私は師匠に惚れていたかもしれない。でも師匠は年上のお姉様が好きらしいので、叶わぬ恋となっていたことだろう。

「そういえば、彼女とはまだ仲良しなんですか?」

「まだ、って何だよ。十年以上の付き合いだぞ」

「そういうこと言っているとフラれますよ」

「カノはそんなことしないもん。優しいんだから」

 仕返しにとからかったら、師匠は頬を膨らませた。

 それから、堰を切ったようにふたりで笑う。

 立ち上がった師匠が、導くように私の手を握った。私とほぼ同じ背格好なのに、その手は力強い。年季の差だろうか。年の功だろうか。分からないけれど、マユとは違う安心感を私にもたらしてくれる手だった。

「まずはゆっちーの実力を確認するところから始めよう。どうせ、春季大会には出るんだろう? どこまで行けそうか、私が確かめてあげるよ」

「まぁ、せっかくなので」

「”ついで”で優勝を狙えるほど、武術ってのは甘くないんだけどなぁ」

 にししっ、と師匠が歯を見せる。

 私も釣られて笑った。そうだ。武術の世界は甘くない。真剣に取り組むほどに、先の見えない世界だ。それでも、今の私から苦しみを取り除いてくれるなら。

 その頂きに登ってみよう、と思えるのだった。

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