蛍雪の功

 恋の病を患うならば、それは甘酸っぱい果実の味がするはずだと思っていた。

 根拠はない。でも、無味無臭の平々凡々な毎日に味変を求めるなら、それは幸福をもたらす甘味であってほしい。刺激に満ちた艱難辛苦の毎日は、私が求めるものではないのだから。

 それはそれとして、期末テストの時期だった。クリスマスが近づいて、やや浮かれ気味な私の心をチクチクと勉学のストレスが攻撃してくる。勉強が嫌いなわけじゃないけど、やっぱり好きな教科と苦手な教科があるし、興味のない科目は面倒くさくて仕方がない。

 マユと一緒に、私の部屋で勉強をしていた。机に伏せて動かなくなった私が心配になったのか、彼女が顔を覗き込んでくる。

「ユカ、大丈夫……?」

「んー……。駄目かもしんない」

「私でよかったら教えるけど」

「あー、うん。遠慮しとく。私の方が頭いいし」

 すぱこーん、とマユに頭を叩かれた。ツッコミが早いぜ。

 そして、わしわしと撫でられる。祝日でも何でもないごく普通の金曜日である。諸事情があって、私とマユのクラスが学級閉鎖になったのだ。元々、工事だか何だかの関係で午前授業だったから、それほど特別な感じはしない。これが苦手な授業の日ならもう少し気分良く休めただろうに、体育の授業が飛んでしまったのは残念だ。

「うー。もう限界。脳が疲れた」

 教科書の内容を写経するのに飽きて、ごろんと横になる。マユは早々に諦めて漫画を読んでいたはずだが、暇を持て余したのか再び勉強に集中し始めていた。私とちょうど入れ替わりになったらしい。

「……? ……。……?」

 世界史の課題を進めているマユは、一行ごとに疑問符を浮かべて止まっていた。

 イマイチ、頭がよくないのだ。それでもテストは平均点をきっちり取ってくるあたり、やれば出来る子という印象はある。私は気力が回復するまで休もうと、カーペットの上にごろりと横になった。寝心地は良くないので、ベッドに移ろうかと考える。……休憩で収まる気がしないから、やめておくか。

 まだ正午を回った頃だと言うのに、カーテンが閉まっているせいか、薄暗い。開けてみると、スカッとした青空が広がっていた。夏の空よりも、冬の空の方が綺麗で好きだ。色は少し薄く感じるけれど、その分透明度が高いような気がして。

 部屋をぐるりと見渡す。机の上はノートや教科書、参考書が乱雑に並んでいる。床に落ちていた一冊を拾いあげて、ひょいと机に乗せる。ぬいぐるみのクマ吉を連れて、マユの隣へと戻ってきた。彼女は未だ真剣な面持ちで世界史の教科書と向き合っている。授業ノートと一緒に見比べて、今回の出題範囲を整理し直しているらしい。

「大丈夫かよー」

「平気だよ。他の教科は余裕で終わってるし」

「……マジで? 珍しいこともあるもんだ」

 テスト前日に課題を仕上げることも多いマユにしては、かなりやり込んでいるようだ。私もクマ吉を抱いて、勉強を再開することにした。クマ吉はでっかいぬいぐるみだから、向き合って抱けば座椅子の代わりにもなる。小学生の頃に発見したテクニックだった。

 学級閉鎖が開ければ、すぐにテストだ。出題範囲は事前に連絡があった通りだし、勉強用の資料も学校のホームページからダウンロード済だ。頭のいい子は授業なんか受けなくてもいいんじゃないか、と思うほどに手厚いサポートがされている。先生の解説があった方が分かりやすい科目も多いけど、ただ教科書を読み上げるだけのつまんない授業をする先生もいるしね。そういう先生の授業で地蔵ごっこをするくらいなら、友達と一緒にプリントを眺めている方がよほど頭に入ってくる。

 ついでに私は、お喋りしながらでも勉強が出来るタチだ。

「ねー、お喋りしよー」

「ヤだ。今は勉強中」

「今回に限って、やけに頑張るじゃん」

「たまには賢いところを見せたいので」

「誰に?」

 マユからの返事はなく、代わりに頬をぷにぷにと突かれた。

 彼女の手元を覗き込むと、文字がびっしりと書き連なっていた。まるで暗号のような文章を目で追っていくと、どうやら年表を暗記しているらしい。必要なところだけ覚えればいいのに、と思いつつもヤマを外したら惨状が広がるので黙っておいた。私は全部を暗記するなんて出来ないので、授業で印象に残ったところから枝葉を広げるように覚えることにしている。そのため、成績がいいときと悪いときの差がめちゃくちゃはっきりしている。

 先生がもっと面白おかしく教えてくれればいいんだよ。それで全部解決するんだ、と他力本願してみる。他力本願寺~とかふざけてたら点数拾えたこともあったし、テストってのは何が正解を導けるか分かんないよね。

 閑話休題。

 暇だ。

「ねぇ、何か話そー」

「…………」

 反応がない。しょーがないな。

 クマ吉を机との間に挟んで、世界史の課題を進める。授業でやったところしかテストには出ないし、授業でやったことはノートに書いてある。分からなくなったところだけを見返せるように付箋して、カンペキに解答できる自信があるものは復習の範囲から外した。勉強は効率よく、がモットーである。

 問題なのは、やる気が湧かないことなのだ。

 マユが無言だから、集中できない。

 クマ吉のお腹に顔を埋めてみても、何も変わらなかった。

 仕方がないから最終手段を取ることにした。

「マユ」

 ペタン、とマユの足元へ倒れ込んだ。膝枕をしてもらう格好である。

 流石にマユも、私を無視しきれなくなった。

「……ユカちゃん、今日はめちゃくちゃ甘えてくるなー」

「だって、そういう気分なので」

「普段から甘えて欲しいんだけど。こーいう時だけじゃなくて」

「それは無理。私は安くないので」

「今は押し売りしてきてんのにねー」

 文句を言いながらも、マユは私を撫でてくれていた。マユの太腿は柔らかくて温かい。この心地良さを知ってしまった以上は、手放すことはできないのだ。

 幼馴染の膝に頭を預けて、ぼんやりと天井を見上げる。視界に映る天井は、三割ほどがマユの胸によって隠れている。正面から見ればちょっと大きい程度なのに、下から見上げれば天を衝くほどの山脈にしか見えない。私のそれとは比べるまでもなく、なんかむかついたのでぽむぽむと叩く。

 頭を思いきりグーで叩かれた。

「……ひどくない?」

「マジのセクハラは禁止です」

「……ごめん。調子に乗りました」

 甘えたい盛りの子供なので、という言い訳は通用しないのである。

 痛みを堪えて目尻に涙を浮かべていたら、マユが頭を撫でるのを再開してくれた。勉強に集中したいだろうに、彼女はなんだかんだいって私に甘いのだ。家族との仲が良好とは言えない私に、確かな居場所をくれる。彼女の側にいるためなら、何だってしてもいい。……でもまぁ、別に恋人として好きなわけではないので、そういう『お願い』をされたときには対処できないと思うけど。

「マユ」

「………………」

「勉強がひと段落ついたら、今度は私が膝枕してあげるね」

「……ん。ありがと」

 わしゃわしゃと、彼女の指が私の髪を梳く。指先からマユが喜んでいるのも伝わってきて、私も少しだけ平静な気持ちを取り戻せたのだった。

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