伝染

 風邪の正体を知っているだろうか?

 私がスマホで調べたところによると、正式には風邪症候群と呼ぶらしい。くしゃみとか咳とか、発熱や身体の倦怠感みたいな、一般的な風邪で浮かべる症状を総称したモノが『風邪症候群』と呼ばれている。

 つまり、やつらに正体なんてない。恋心と似ているね。

 主な原因はウイルスで、特効薬の類は存在しない。一般されている市販薬が効く理由は、それぞれの症状に対する薬を飲むことで対症療法をしているだけにすぎないのだ。……という話らしい。

 そして、風邪は伝染する。

「ソラは大丈夫なの? 今日は会えなかったからさ」

『はい。元気ですけど……』

「そっかー。んじゃ、感染したのはマユだけか」

「めんぼくねぇー、ユカちゃん……」

 咳き込む幼馴染の彼女の額を指先で突く。

 ふたりが私の家を訪れてから一週間。タイムラグを経て、マユが風邪をひいてしまった。幸いにもソラは元気らしく、電話越しに聞こえてくる声も普段と何ら変わりがない。ふう、と一息吐いて、もう一度マユの額に手を伸ばす。今度はぐりぐりと彼女の額を擦った。

「ありがと、ソラ。安心したよ」

『どういたしまして。日比さんの看病?』

「しょうがねぇから来てやったぜ。あ、ソラは控えてね」

『はい。今度は私にも感染りそうですし』

「だよねー。二度あることは、とか言うし」

 友達の間で病気を回しても面白いことなんか何もない。せめて漫画を回し読みするくらいであってくれ。私は漫画とかも読まないけど。

 ぴぇ~っと妙な鳴き声をあげるマユを無視しながら、私はスマホの通話ボタンを切る。ふぅ、と再び溜息をついて、それから私は枕元のペットボトルを手に取った。スポーツドリンクを口に含んだところで、ようやくマユが口を開く。なんか不満そうだ。

「もっと優しくしてよ」

「忠告したのに、散々私で遊んだからよ」

「別に……癒してあげようと思っただけで……」

 その節は誠にありがとうございました。

 でも、一時間も同じベッドにいたのはやり過ぎだと思う。私は三十分で帰れっていったのに。

 ベッドで布団にくるまるマユは、苦しそうな表情を浮かべていた。その顔を見たら、なんだか怒る気力も無くなってしまう。大きめの溜め息をこれみよがしに吐いて、彼女の額に新しい冷却ジェルシートを張り付けた。なんで風邪をひくかなぁ、と健康優良児のマユの頬を撫でる。ソラは細身で肉付きも薄いけど、マユの頬はもっちりとしていた。それでいて余分な肉と言う印象はない。エネルギーを溜め込んでいて、これを試合や練習の際に発散しているんだろうなと思う。

 私ももっと体格が良ければ、楽に空手の試合を勝てたのだろうか。

 それはないな、と首を横に振る。持って生まれた才能とは別に、やはり努力は必要なのだ。一緒に高みを目指す仲間や、努力した先の目標なんかも必要で、周辺環境を欲しがればキリがない。そして、それらを手に出来るのも、一種の運が必要だし……、と話がどんどん横道にそれていく。

 汗をかいたマユの喉周りに手を伸ばす。

 タオルでガシガシと拭くも、全身が濡れているようだった。

「プリン食べる?」

「まだいい。お腹減ってない」

「あんまり食べないのも身体に悪いよ」

「……でも食べたくない」

 ぷいっと顔を背けたマユは、珍しく強情だ。いつもなら素直にいう事を聞いてくれるのに、今日は頑として譲らない。

 机の上に放置されたままのビニール袋へと手を伸ばす。ひとつは白桃ゼリーで、もうひとつはミルクプリンだ。ゼリーはマユからのリクエストで、ミルクプリンは私の好みによるセレクションだ。結局、マユはミルクプリンを選んだけど、それでも食べようとはしない。時刻は16時を回っている。朝ご飯も食べていないし、昼の間もずっと眠っていたと彼女の母親から聞いている。既に丸一日、何も食べていないはずだ。学校から一度自宅を経由して彼女の元を訪れた私は、看病のための諸々を備えてきている。道具とか、覚悟とか。本当に色々だ。

 準備万端な私に対して、マユはぐったりとした様子を見せている。熱があるのだから仕方がないけど、それにしても普段と違って弱々しい。風邪で辛いだろうけど、どうにか食べてくれないものだろうか。私が困っていると、マユがぼそりと呟いた。

「食べさせてくれるなら、頑張る」

「それが狙いかー」

「……じゃ、食べない」

「ごめんて。マジで辛いのは分かってるの」

 ただ、いつものノリだったら素直に冗談だと受け止めてくれると思ってしまった。本当に体調が悪いらしいマユは、身体を起こすのもやっとだった。トイレも付き添ってあげたし、こういうときに私も体格が良ければなと思ってしまう。お姫様抱っことかは出来なくてもいいから、せめて肩を簡単に支えられる程度の背丈があれば……とか。そう思う。

 まあ、願ったところで叶わないこともあるのだ。

「よし。じゃ、食べさせてあげるね」

 ベッドの端に座って、マユの手を取る。スプーンで掬った一口分のミルクプリンを差し出した。マユは白い塊を口に含むと、ゆっくりと咀噛した。味わうでもなく、少し噛んでから飲み込んでしまう。もう一口。もう一口、と彼女に食べさせてあげる。半分ほど食べたところで、彼女が首を横に振った。もうお腹がいっぱいになったらしい。

 残りはラップをして、冷蔵庫へ仕舞いに行くことにした。

 マユの母親から新しいスポドリを貰って、彼女が少しだけ復調したことを伝える。マユの母親はとても低姿勢で、私の母親とは正反対だ。

 部屋に戻ると、マユが床に落ちていた。

 マユが床に落ちていた。

「おいおいおーい。大丈夫?」

「……トイレ行こうとしただけぇ」

 頭から落ちたらしく、彼女の額は赤くなっている。目元には涙が浮かんでいた。

 私が抱きあげると、ぐすんぐすんと鼻をすすっている。そのままベッドに戻そうとしたけれど、彼女は首を横に振った。そういえば、トイレに行きたいと言っていたな。よし、と気合を入れて彼女を背中におぶった。体格差もあるし、風邪で全身に力が入らない彼女は、自身の体重も半分しか支えられない。根性だけでどうにかトイレへと連れて行って、ズボンとパンツを脱がせた。

 ……。用を済ませたのを音で確認してからトイレへと戻る。

 マユは熱で赤くなった顔で、私に向けて両腕を広げている。彼女の要望通りに正面から抱きとめて、壁際にもたれさせた。下着、ズボンの順に履かせてから部屋へと連れて帰る。ベッドに横たえた後も、彼女は私の頸に抱き着いたまま離してくれない。嫌な感じは全くしなかった。

 不意に香る彼女の匂いに、鼻腔が刺激された。すんすんと匂いを嗅ぐと、マユは渾身の力を込めて私を突き飛ばそうとしてくる。流石に風邪の影響が強いのか、私は特に吹っ飛ばされることもなく彼女の胸元から動かなかった。

「……恥ずかしいんですけど」

「今更じゃない? 別にヤな匂いじゃないし」

「……私がやったら怒る癖に」

「怒るかなぁ」

 キモいとは思うだろうけど、別にそこまで怒ることはないと思う。

 マユの胸元へ顔を埋める。彼女は観念したのか、それとも衝動や誘惑に負けたのか、私を強く抱きしめた。言葉を交わすでもなく、ただ抱き合ったまま時間を過ごす。しばらくして、マユが安らかな寝息を立て始めたところでそっと距離を取る。彼女は汗をかいている。このまま放置しても、風邪が悪化するだけだろう。私は濡れたタオルと、身体を拭くためのタオルを貰うために彼女の部屋を出た。

「まったく、世話の焼ける幼馴染だ」

 でも、こうして世話をしている間は。

 私の方がお姉ちゃんになったような気もして、少しだけ嬉しくなるのだった。

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