ひびの、ゆがみ③
マユは拍子抜けするほど順調に勝ち進んだ。
気付けば決勝戦だ。既に全国大会への切符は手にしているものの、次回以降のシード権が掛かっている。手を抜いても、いいことなんて何もない。試合場に立つ彼女は、柔道部の仲間達に囲まれて激励を受けていた。
「よし、日比。行ってこい!」
「勝てよ。お前がウチで一番強いんだからな!」
既に敗退した同級生も、他の級で勝ち残っている先輩も、マユに声援を送ってくれていた。肩をぐるぐると回す彼女も気合十分だ。マユの立ち振る舞いに、油断は感じられない。
対戦相手の子も、真剣な顔をしていた。名前も知らない子だけど、相手も一年生ながら勝ち残ってきた強豪だ。この同学年同士の戦いには、観客も双方の健闘を期待しているだろう。
私はお菓子を食べながら、のんびり彼女を応援していた。なぜか、試合に出ないソラの方が緊張している。運動の苦手な彼女には、決勝に進めるマユが格好良く見えているのかもしれない。
「湯上さんは緊張しないんですか」
「うん。まったく」
「すごいですね……」
「だって、マユが負けるところなんか想像できないもの」
私の言葉を聞いて、ソラはくすりと笑っていた。
どこかおかしいところがあっただろうか。首を傾げれば、彼女は慌てて首を振る。
「あ、いえ。ただ、仲が良いなって」
「そう? 普通じゃない?」
幼馴染ってのはそういうものである。私が空手に本腰を入れていた時も、全国大会の決勝だろうとも、マユは呑気に観客席でお菓子を頬張っていた。いつまで経ってもマイペースな奴である。私も人のことを言えた義理じゃないけど。
相手の選手は長身の痩せ型だった。階級が同じなら、より筋肉量の多い小柄な選手が有利になる柔道において、彼女の体型はハンデと言ってもいい。空手なら別だ。リーチは相手の有効部位を狙う助けにもなるし、相手の防御の上から叩くことが出来るから。でも、柔道においては、ただ身体がデカいという程度では有利にはなれない。
さて、どんな試合になるかな。
審判の合図と共に、決勝戦が始まる。開始早々、相手はマユへと腕を伸ばした。むんずと道着を掴んで、自分で間合いを決めるつもりだろう。押し合いと引き寄せの技術はマユの方が上手だった。腕を何度か交差させるうちに、後攻となったマユが試合の流れを掴む。マユが一歩引けば、相手も踏み込まざるを得ない。マユが攻めれば、慌てたように距離を取って身体を入れられないようにしていた。
マユが優勢だ。
でも、相手もかなりの熟練者である。
「強いな……」
思わず、独りごちてしまうほどに。
対戦相手は、今日マユが戦った相手で一番背が高い。リーチもあるけど、マユとの攻防はスピーディーだった。流れを掴み損ねているけれど、それでも反射神経に優れている。
マユの攻撃をいなし、隙を見て攻撃を繰り出す。けれど打撃がない柔道において、掴みと払いを繰り返すだけでは彼女は勝利に至らない。試合が長引くほどに、マユの勝利は近付いていく。
「……判定勝ちなんて、許さないぞ」
お菓子を飲み込んで、私は席を立つ。
試合をもっとよく見るために、前へと場所を移した。
3分だ。それが彼女達の試合時間である。僅かな隙を見つけては、針の穴を通すように繊細な足運びで、対戦相手はマユの間合いに踏み込んでくる。それを豪快にねじ伏せ、マユは逆手で攻め込む。
やがて、その瞬間は訪れた。相手がマユの袖を掴んだのだ。ようやくタイミングが来たのだとその顔には確信を得えていた。力任せに引き寄せて、投げ技を掛けるべく腰を軸に据える。だが、マユはそんな誘いに乗るような柔ではない。マユは素早く足を動かして、逆に相手を自分から引き付けた。相手の勢いに乗ったまま、マユは自分の身体を半回転させて背負い投げる。
僅か2秒の逆転劇である。
低い姿勢からの強烈な一撃だ。
受け身こそ取ったものの、相手の選手の顔が苦痛に歪む。
ぎしり、と骨が軋む音すら聞こえた気がした。
「……っ!」
痛みに耐えかねるように、対戦相手が身体を起こそうとする。けれど、その時にはもう勝負は決まっていた。
「一本!」
審判が旗を高く掲げると同時に、会場が沸く。
マユが、誰かのヒーローになった瞬間である。
「……あれ、湯上さん。どこに行くんですか」
「帰るの。もう大会も終わったからね」
「でも、日比さんに挨拶していかないと」
「いいのよ。どうせ後で祝勝会やるから」
「……ふふっ。そうですか。ホント、ふたりは仲が良いんですね」
そんなことないと思うけど。
ただの幼馴染だから、だ。
「今日はありがとうございました。面白かったです」
「礼ならマユに言ってよ。活躍してたのはあの子だから」
「それもそうですね」
ソラは随分と上機嫌だ。とても、羨ましい。
「明日学校で会いましょう。お疲れ様です!」
「うん。またね。バイバイ」
さて、と別れてから考える。
私だって、マユと本気で戦ってみたい。でも、その境地に至るまでに脱ぎ捨てなければいけない感情があまりにも多いのだ。友達、幼馴染、その他諸々。そして空手家と柔道家が本気で他流試合をするなら、それはルール無し、問答無用の真剣勝負である必要があった。
友達としての一線を越えない私達が、武芸者として歩み寄ることなど出来るのだろうか。握った拳で空をついて、まだ衰えてないことを確かめる。鋭く息を吐いて、私は空を見上げた。
冬か。
寒くて、朝早く起きるには辛い時間だ。
でも。
「……少しだけ走り込んでおくか」
優勝したマユの祝勝会も考えなくちゃいけないし。
ぐちゃぐちゃと考え事を始めてしまった私は、ゆっくりと走り始める。趣味のない私が、ただ義務的に続けている唯一のもの。空手が、ひょっとするとマユとの関係を変えてくれるのかもしれないな、と思った。
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