ソラ
日々の歪みは些細な場面で詳らかになる。
例えば、お昼休み。私とマユはお弁当を食べ終えて、のんべんだらりと過ごしていた。マユと喋りながら、窓の外を眺めている。それだけならいい。普通だ。でも、同級生の視線をガン無視して仲良しこよしをしていたら?
やっぱり、それは変だよね。
あまりに穏やかで気付きにくいけど、私とマユの共依存的な関係は歪だ。四六時中一緒にいる友達なんて言えば聞こえはいいけど、その実態は危ういものだ。互いに寄りかかり合えば倒れないというけれど、それはどちらかが倒れれば双方が崩れるという裏の顔も持っている。根本から緩やかに腐っていったとして、誰も警鐘を鳴らしてくれないのだし。
私は、この関係を終わらせたい。なんとか自立したい、と切に願っていた。
「でも、無理なんだろうね」
家族よりも仲の良い友達だし。マユと喋っている時間は、私に確かな癒しをもたらしてくれるのだから。
窓の外に見下ろす中庭に人影はなかった。風は冷たく、木枯らしが吹いている。マユに求められるまま頭を撫でていたら、彼女は安らかな寝息を立て始めた。昼休みの教室の喧騒は、彼女の耳には届いていないようだ。このまま、昼休みが終わるまで目覚めないだろう。いつもそうだし。部活が大変なのか、私の掌には睡魔の精霊が宿っているのか。
私もこのまま寝ても良かったけれど、今日は随分と時間に余裕がある。
「……遊びに行くか」
席を立って、校内探検に出掛けることにした。
「ねぇ。お願いがあるんだけど」
マユの頭を最後にひと撫ですると、近くの席の生徒に声を掛けた。もしマユが目覚めたら、私が遊びに行ったことを伝えてもらう予定だ。お願いを了承してもらって、私は足取り軽く教室を出た。
廊下に出て、階段を下っていく。一年生の教室は四階で、二年生の教室は三階、と学年によって使用する階が違っている。三階の渡り廊下から、私は特別棟へと向かった。家庭科室や美術室、科学室がまとまった棟だ。昼休みは教室棟にほぼすべての学生が集まることもあってか、特別棟には人の気配がない。廊下の窓から差し込む光が妙に眩しくて、私は手でひさしを作りながら歩いた。
最終目的地は図書室にした。
久しぶりに訪れた図書室には、見知った顔がいる。学年一の秀才と名高い才女だった。黒髪ロングの綺麗な少女は、窓辺の席で小説を読んでいる。お洒落な表紙の、ハードカバーの小説だ。手でファインダーを作って、彼女の姿を覗き込む。本当に綺麗な子だ。深層の令嬢という大それた肩書も、彼女なら似合うかもしれない。
彼女の名前は、酒井空。私がこの学校に入学したとき、新入生代表として挨拶をしていた子だ。成績優秀、品行方正。そして生真面目ゆえに、彼女はあまり好かれていない。
いい子なのに、もったいない。
それが私の感想だった。
ひょい、と彼女の隣に座った。ソラは微動だにせず小説を読み進めている。伸ばした背筋と真面目そうな表情に、他の子なら話し掛けるのを躊躇するだろう。私は特に気にしないけど。体育の授業が一緒だから、なんて些細な理由があった。
「……」
ひょい、とソラの隣に座る。
ひとつだけ、面倒な儀式があった。ソラは心の壁が分厚いのだ。彼女とお喋りをするためには、彼女が読んでいる本を取りあげなければならない。覚悟を決めよう。これも友達を増やしてマユとの共依存から脱するためなのである。
ソラの手から、他人との境界で、壁で、盾としての役割も持つ小説を取り上げる。怒るでもなく、悲しむでもなく、ソラは私に視線を向ける。そして、小さく肩をすくめた。
「こんにちは、湯上さん」
「ども。ご無沙汰してまーす」
「……そこまで久しぶりでもないと思いますが?」
「ねへへ、そうだよね」
先週も図書室でお喋りしたしね。
生真面目な彼女は口調も硬い。やや冷たい印象を受けるけど、めげたりしない。
私の問いかけには丁寧に答えてくれるので、信頼していた。
「これ、面白い?」
「……うん。まだ途中ですけど」
「いいね。貸してよ」
「私が読み終わったら、いいですよ。来週を目途に貸してあげられます」
「ん。センキュー。それで行こう」
グーサインを出して、彼女の提案を受け入れた。取り上げた本を返すと、彼女はこくりと頷いた。話し掛けたかっただけで、彼女の読書を邪魔する気はない。ただ手順がズレただけだ。
そのまま会話を続けるわけでもなく、彼女は小説の世界へと没頭し始める。私は本棚へと目を向けた。特に読みたい本はない。小説にも漫画にも興味はない。映画にもドラマにも興味がない。私は平々凡々な日々を過ごせれば、それで満足だった。たまに話題作へ食指が伸びる程度で、自分から特定のジャンルを追いかける気はないのだった。
ぼんやりと本棚を眺めていたら、ソラに頬を突かれた。どうしたの、と尋ねる前に、彼女は自分の手元にある文庫本の栞を外してから、私に差し出してきた。
「今から読みますか? 暇つぶしになるかもしれませんよ」
「ん。じゃあ借ります」
「はい、どうぞ」
「…………」
「……なんですか」
「いや、ソラは何をするのかと思って」
「……湯上さんの観察?」
そこで疑問形を浮かべられても、と私は苦笑した。
それは趣味が悪いな、と思ったが口にしない。マユもやっていることだし、ソラは別に悪人じゃない。生真面目な彼女には、その瞳に移るすべてが興味の対象だとしても驚かなかった。私がピースサインを向けると、彼女もぎこちないながらに同じ指の形を向けてくれた。真面目な子が不慣れなヤンチャをしている場面をみると、妙な満足感がある。気付けば私は笑顔になっていた。頬がだらしなく緩んでいるのが、自分でも分かる。
「いいね、可愛いじゃん」
「……そうでしょうか」
「引っ込めないでよ。せっかく可愛いのに」
「私には似合わないので」
えー、と私は大袈裟に落胆してみせた。
もう、一学年も終わろうという時期である。
ようやく仲良くなれたと思ったのに、彼女の心の壁は随分と分厚いようだ。
仕方がないから、私は彼女が勧めてくれた小説を読むことにした。ぺら、とページを捲ってみる。少しだけ難しい漢字があった。意味は知っているけれど、馴染みのない言葉だ。隣に学年一の秀才がいるのだ。聞けば即答してくれるだろう。
私が読めない漢字とは、”胡坐”だった。
「ござ、って何?」
「……あぐら、ですけど」
「あー、なるほどね」
完全に理解した。体育館にゴザで腰を下ろしたって、意味の分からんことをしているなー、とは思っていたのだ。危うく、主人公が畳の材料を持ち歩く妙なキャラになるところだったぜ。読めなかった漢字を理解したことで小説の理解度が増していく。
ソラが呼んでいたのは青春部活モノだった。彼女は私と同じ帰宅部のはずで、部活に縁遠い人でもこの手の小説には感情移入できるのかな? と少しだけ疑問に思う。でも読む気があれば意外と面白いもので、私はぺらぺらとページをめくり続ける。
読書は趣味じゃないけど、意外と速読できるタチなのだ。
ふとソラを見れば、口元を覆って肩を揺すっている。
彼女の視線は、ただ私だけを見つめている。
「なんで笑ってんのさ」
「普通、ゴザの方が難しくないですか?」
「だってウチ、和室あるし」
「そうなんですね。湯上さんの部屋も?」
「うん。畳敷だよ」
今日のソラはよく喋る。珍しいなと思って、私も饒舌になってしまう。
図書室を訪れる生徒は、ごくごく僅かだ。貸出カウンターに立つ図書委員も暇そうにしている。司書の先生は別の仕事をしているのか、見当たらない。多少声が大きくなっても怒られないから、と私達は楽しく喋らせてもらった。
昼休みが終わる時間になって、名残惜しくも立ち上がる。また明日、なんて言葉を残して立ち去ろうとしたら、ソラに袖を引かれた。
珍しい。
本当に珍しい。
「どったの?」
「いや……その、何か用事でもあったのかと思って」
「ないよ。別に」
「そう、なんですか」
困惑と寂寞を滲ませて、彼女が眉をしかめる。
生真面目な彼女は、誰かとお喋りをしたいなー、なんて適当な考えで誰かに話し掛けることもないのだろう。友達付き合いが下手な子だ。だけど、それも彼女のいじらしさである。どうやって返したものかと悩みながら、私は正直に答えることにした。図書室を出て、人気の少ない廊下を歩きながら喋る。
「ソラと喋りたかったから」
「……どうして?」
「暇だったし。ソラと、もっと仲良くなりたいし!」
「……そうですか」
「せっかく可愛いんだから、笑った方がいいよ」
へらへらと笑いながらアドバイスっぽいことをしてみた。
私にはマユという笑顔魔人がいるから、自然と笑顔を浮かべる術を知っている。親友に釣られているうちに、表情筋が鍛えられているのだろう。私が微笑み掛けると、ソラも曖昧に微笑んだ。普段から笑っていない子特有の、ぎこちない微笑みだ。他人によっては不安感も覚えるだろうその表情を、私は好意的に受け止める。
「また会おうね」
「……湯上さんは、」
何かを言い掛けて、ソラが立ち止まる。私も、教室棟と特別棟とをつなぐ渡り廊下の途中で立ち止まって彼女の言葉を待つ。秀才が放つ言葉を、丁寧にレシーブする。その意気で、ただ彼女の台詞を待った。
少し寒い冬の廊下で、彼女は勇気を振り絞った。小さく息を吐いてから、彼女は思いを吐露してくれる。だから私も全身全霊で応えることにした。
「どうして私と仲良くしてくれるんですか?」
「だって、体育で一緒のグループになったし。ソラちゃん、普通にいい子だから」
「……それだけ、ですか」
「そうだけど。なんか、ダメかな」
改善点なんて微塵も思いつかないので、質問者に問い返す。
すると、彼女は言い辛そうに俯いた。私よりも背が高い彼女の顔を、下からひょいと覗き込む。彼女は照れたように、今度こそ自然な笑みをみせた。それはとても可愛くて、学年一の綺麗な秀才ちゃんが浮かべられるのだと知れれば、途端に彼女が人気者になってしまいそうな表情だった。
「なんか、気恥ずかしいですね。友達ってのは」
「……それがいいんじゃないかよぅ」
「ふふっ、そうかもしれませんね」
ソラは、とてもいい顔で笑った。
そうだ。
私が望む友達ってのは、こんな関係の相手のことなんだな、って。
今、正直に思ってしまった。
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