第3話 「例えば」って好きです。
例えば、ドアを開けたとき。
例えば、階段を昇り終えるとき。
例えば、上を向くとき。
例えば、
例えば、
例えば。
そこに何があるだろう?
このフレーズを思いついたのはいつだったかなぁ。
それからずっと気に入っていて、下を向きたくなるときにいつも考えます。
それこそ、例えば、叱られたとき。
例えば、間違いをしてしまったとき。
例えば、寂しいとき。
こうやって、例えば、例えばって考えていると実際にそのときが訪れたときに少し前を向く勇気をくれるのです。
そして、例えばの最後の文は素敵に締めましょ。
例えば、叱られたとき。
例えば、間違いをしてしまったとき。
例えば、寂しいとき。
例えば、人に会いたくないとき。
私は、その人になにかを与えられたのです。それが、プラスのものでなくとも。
また、それまで人と触れ合うことを幸せに思えていたのです。
だから、大丈夫。
今回は「大丈夫。」で終わってみました。
根拠のない大丈夫って少し心配です。
先生に大丈夫かと聞かれて、大丈夫と答える生徒は本当は大丈夫じゃないことがあるから、咄嗟に大丈夫と言ってしまうみたいな。危うさがあるのです。
でも同時に、母親が子供をあやすときに抱きしめて大丈夫、大丈夫と言ってくれるような包容力も持ち合わせていると思います。
他にも、漫画や映画のヒーローが言うような、だいじょーぶ!には根拠はなくても、この人はきっと私を見捨てないだろう。(この『きっと』は絶対みたいな意味です。)という“事柄”ではなく“ヒーロー”への信頼のようなものを与えるのです。
あくまで私が思うに、ですが。
あと、理不尽に屈してはいけないですね。叱られたと書きましたが、愛のある怒りについてです。
わけもなく怒られたとかは受け入れちゃだめなんですよ。そこに愛はないのだから。
ただ事実を告げられた場合は別ですが…。
例えばから脱線しましたね。
毎日歩く道があるなら、いいえ、なくとも。世界のどこかの毎日そこにある道は同じではないのです。
私たちは毎日一秒もずれずに歩くわけじゃない。タイムスケジュールにコンマ刻みで動くわけじゃない。
横断歩道を渡るとき、いつも全く同じタイミングで出てくる同じ車なんて存在し得ないのですから。
だからこそ、例えば、今日はどんな日になるだろうと期待するのです。
そして、不安も楽しいも考えているだけでもわくわくするのです。たから、本が好きなのかもしれませんね。
期待といえば、以前数学に関する本を読んだのですが、幸福度というものを見つけまして、
いつもの幸せ(辛さ)<(=)明日以降の今日の嫌なことを取り返した時の幸せ
というのを中学生の時から続けています。
少しわかりにくいかもしれないですが、学校にどうしても行きたくない日に考えていたことです。
今日休んで明日どうなるかを考える。今日やるべきことを明日に引き延ばすから、当然明日は今日より幸せじゃない。でも、今日幸せになって明日の幸せじゃない部分を上回れると思うなら、休んでもいいのだと思います。
私は、休息、心の休憩を取ることが苦手です。
だから、苦しいときに苦しみ続けなくていいように自分にルールを課しました。
罪悪感はあるけれど、自分を守るためにどうしても必要ないことだったのです。幸せなことに、私の親はそれを許してくれていましたから、とても感謝しています。
この方程式がひっくり返っていたとしても、私が学校に行くときいつも程期待をしないで登校してましたから、少し違う景色が見れて、いつもより少しいいところに目を向けられる。
とも教えてくれて、私は楽しく通うことができました。
終わりに、
自分を抱きしめる。
ということを伝えたかったのです。
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