第32話 ……そうか、嬉しいのか

 パチパチと油がはねる。

 ケイトはカラリと揚がったイカのリングフライを網に上げ、油切りをしてから皿に盛った。


 コトン。

 小さな音を立てて、イカのリングフライを盛った大皿がテーブルへ置かれる。

 そこにはすでにたくさんの大皿が、ドドンと勢揃いしていた。


「よし」


 外したエプロンを、自分の定位置である椅子の背へ掛ける。

 簡単に身なりを整えたケイトは、ベルと自分の部屋の前へ立った。


 ベルと自分の部屋。

 改めて考えてみると、じわりと胸にクるものがある。

 立ち上る湯気のようにふわりと湧き上がる妄想を、ケイトは慌てて打ち消した。


 美女に言い寄られてもチラリとも発揮されなかった気持ちは、ベルを前にすると過剰なくらい揺れ動く。

 今はまだ黙っていられるが、そのうちとんでもない拍子に告白しそうで怖い。


 今はまだ、その時ではない。

 言い聞かせるようにケイトは拳を握り、一呼吸置いてから、その拳で扉をノックした。


「ベル。ごはんを作ったんだけど、一緒にどうかな?」


 我ながら弱気な声を出すものだ。

 自分でも少しどうかと思うくらい優しい猫撫で声が出て、ケイトは苦笑いを浮かべる。


 美女の誘いを素気無く断っていた、あの頃の冷たい声とは雲泥の差である。

 当時のことを知る人が今のケイトを見たら、さぞ驚くことだろう。


 ノックをして声をかけると、「え⁉︎」という素っ頓狂な声がして、それからガタガタと扉の向こうがにわかに騒がしくなった。


 びっくりしてキョトンとしていると、ゆっくりと扉の隙間からベルが顔をのぞかせる。

 彼女越しに見えた部屋の中では、椅子がひっくり返っていた。


「ごはん、作ってくれたの?」


「ああ。せっかく湖へ行ったのに一匹も釣れなくて気落ちしているようだったから……ベルのためにたくさん作ったんだ。だからぜひ、食べてほしい」


「私の、ために……」


 ベルはそう言うと、その場でしゃがみ込んで両手を頰へ押し当てながら「うぅぅ」とうめいた。


「どうしたんだ? もしかして、おなかが空いていたんじゃなくて、おなかが痛かったのか? 体調が悪いのなら、無理して食べなくても大丈夫だ。だから、」


 ケイトは慌てて、ベルのそばへしゃがみ込む。

 俯いているせいで彼女の表情は読めず、ケイトは困惑した。

 挙動不審に手を彷徨さまよわせながら、それ以上触れていいものかと逡巡しゅんじゅんする。


 混乱して早口になるケイトに、ベルはそろりと顔を上げ……ギョッとした。


 思っていた以上に距離が近かったことに戸惑いながらも、自分以上に混乱しているらしいケイトのおかげで冷静になる。

 彼女は気持ちを切り替えるように小さく息を吐くと、安心させるような笑みをケイトへ向けた。


「ケイト。ケイト、違うから。大丈夫よ、どこも悪くない。急にしゃがんだのはおなかが痛かったからじゃなくて、すごく嬉しかったからというか……そう、感極まってしまっただけなの」


「感極まって?」


「ええ。だってケイトは、私がションボリしていたから、わざわざ湖へ行って魚を釣って、お料理してくれたのでしょう? 私はそれが、すごく嬉しいって思ったの」


 ケイトはベルを抱きしめたいと、切実に思った。

 ベルの「嬉しい」という言葉が、頭の中でこだまする。

 嬉しい、嬉しい、嬉しい……そうか、嬉しいのか、と。


 恥ずかしそうに頰を赤らめて、秘密の告白をするようにポツポツと話してくれる内容は、ケイトが何よりも求めていた言葉だ。

 ジワジワと感染したみたいに、ケイトの頰がうっすらと赤くなった。


「だから……ありがとう、ケイト」


 はにかむような笑みに、ケイトの心臓がギュンと脈打つ。

 この距離では聞かれてしまうのではないか。


 不安に思って、無駄な足掻きだと分かっていても、胸に手を押し当てずにはいられなかった。

「おいしそうな匂いね!」と立ち上がってしまったベルに、ケイトは少しだけ安堵あんどした。


 一度抱きしめたらもう、我慢なんてできそうにない。

 だから、今はこれでいいのだ。

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