第6話 逃げるな、私のごはんー!

 これは、まずい。とてもまずい。

 ベルの背中に冷や汗が伝っていく。


「非常事態よ、助けてお兄様」


 真っ先にルシフェルの顔が浮かぶのは、今まで助けてもらってきた実績があるからだろう。

 ベルは改めて、彼の過剰な愛情を思い知った。


「って、今はそれどころではないわ」


 ベルの叫びを聞きつけて、レティの足音が近づいてきていた。

 彼女が小心者だったことに感謝だ。おかげで、少しだけ考える時間ができた。


「ああ、どうしたらいいの」


 ベルはとても困っていた。

 人生でこれほどまでに困ったことがあっただろうか。


「いや、ない」


 断言できるくらいに、彼女は焦っていた。


 腕の中──といっても寄りかかられているだけで抱きしめているわけではないが──にいるのは、ベルが食べたとされる勇者様だ。

 金の髪に青い目。それはまさに、勇者の特徴として聞いていたものだった。


 太陽も青空も存在しない地の国では、存在しない色とされている。

 なんでも、金の髪と青い目は天の国からの贈り物で、神に愛されている証なのだとか。


「胡散臭いことこの上ないけど、容姿のせいで地の国へ行かなければならないなんて、天の国と人の国は地の国以上に理不尽ね」


 魔王よりもよほど恐ろしい。

 解せない、とベルは鼻に皺を寄せた。


 とりあえず、なぜ勇者がここにいるのかは置いておくとして、ベルにとっての問題は、彼が生きているということだ。

 なにせベルがゴミ溜めの森ホーディング・フォレストへ追放されたのは、勇者を食べてしまったからなのである。


 冤罪えんざいだし、魔王の私情が多少入ってはいるけれど、追放処分をベルは甘んじて受けた。

 勇者が生きているとなれば追放は即座に解除となり、城に連れ戻されるのは必至である。


「まだなにも口にしていないのに終了なんて、あんまりだわ……!」


 まだ見ぬ獣や、先ほど見たばかりのブラッディマッシュルームが「僕らを食べずに終わるなんて、残念だねぇ。アハハ!」とケタケタ笑って挑発してくる妄想が脳裏を駆け巡る。


「逃げるな、私のごはんー!」


 ゴー、バック。

 まだ見ぬ獣に手を伸ばしたところで、ベルは我に返った。


 貴重なシンキングタイムを妄想に費やすとは。

 さすが暴食姫、食べ物への執着は筋金入りである。


「面倒だし、いっそ殺してしまおうかしら?」


 地の国では、もういないものとして処理されている。

 歴代の勇者の墓が並ぶ場所には、新たな墓石が足されていることだろう。

 ベルの追放をもって、一件落着となっているのだから。


 人の国も、勇者一人戻らなかったところで戦争を仕掛けてくることはない。

 なぜだか彼らは勇者と選ばれし仲間だけが魔王を倒すことができると信じていて、それ以外の手段なんて無意味と思い込んでいるのだ。


「実際には、勇者も無意味なんだけどね……」


 ほどよく日に焼けた肌に、筋肉質な体躯。

 これはきっと、魔王討伐のためにくる日もくる日も努力して手に入れたものなのだろう。


 甘めのベビーフェイスと筋肉質な体に、ベルはチグハグな印象を持った。

 色欲の姉ならば「そのギャップがたまらないのよぉ」とか言いそうだが。


「本当は、違うことをしたかったんじゃないかしら?」


 ベルが知るはずもないけれど。

 だけれど彼女はなぜだか、そう思えてならなかった。


 そもそも、地の国から人の国へ帰還した勇者は一人としていないのに、人の国の者たちは、そのあたりのことをどう考えているのだろうか。


「人の国に魔族が攻め込んでこないのは、勇者様が魔王を倒したから。帰ってこないのは、相打ちだったから。きっと、魔族が人の国と戦争する気なんてないという可能性は考えもしないのでしょうね」


 天の国や地の国の者と違い、人は短命だ。

 短いサイクルで入れ替わってしまうから、勇者派遣がいかに無意味なことなのか、気づけないのだろう。


「人って、ほんと、謎」


 肩口に、勇者の熱い息がかかる。

 とても苦しそうだ。

 じっと見ていると、だんだん勇者がかわいそうに思えてきた。


 一生懸命、生きているんだろうな。

 知らない国で一人ぼっちなんて、寂しいだろうな。


 なんとなく慰めたくなって、勇者の背を撫でる。

 すると、食いしばっていた口元が少しだけ緩み、あるかなしかの淡い笑みが浮かんだ。


「ああ、これは……もう放っておけそうにないわね」


 無防備な寝顔は、弟を思い起こさせる。

 手のひらに収まるほどの小さな生き物を抱いている時のような気持ちになったら、もう殺そうとは思えなかった。


「せぇのっ!」


 ふんぬ! と気合いをかけて、ベルは勇者を担ぎ上げた。

 とにかく、時間がない。

 あと数分、いや運が悪ければ数十秒でレティが来てしまう。


 勇者を背に乗せて、ズルズルと小屋の外へ脱出する。

 その際、勇者の持ち物が落ちていないかどうか、確認するのも忘れない。


 どうやら彼は、毛布一枚で逃げ延びてきたらしい。

 一体何を食べて生きていたのか気になって仕方がなかったが、今はそれどころではないと言い聞かせる。


 生まれてこの方、ここまで素早く魔術を使ったことがあっただろうか。


「いや、ない!」


 勇者を背負ったまま、鮮やかなお手並みで小屋を消滅させ、速やかに家を召喚したベルは、自画自賛しながら家の中へ入った。

 主寝室のベッドに勇者を寝かせると、ほどなく玄関からレティの足音が聞こえてくる。

 ドアをノックされるのとベルが扉に施錠魔術をかけたのは、まさに同じタイミングだった。


「セーフ……!」


 心臓がドキドキしている。

 こんなことをするのは初めてだからだろうか。

 初めて厨房へ忍び込んだ夜を思い出し、ベルは苦笑いを浮かべた。


「姫さま?」


「なぁに、レティ」


「お荷物、持ってきても良いですかぁ?」


「ええ、お願いするわ」


「了解でぇす」


 パタパタと足音が遠ざかっていく。

 彼女が仕事熱心なメイドで良かった。おかげでまた少しだけ時間ができたと、ベルはホッと息を吐いた。





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