1章 獣の血を吸うきのこ ブラッディマッシュルーム

第2話 いってきます、お兄様

 半地下牢の天井近くにある窓には鉄格子がめ込まれていて、月明かりが差し込むと歪な模様を床に描き出した。


「なんてことだ……!」


 鉄格子の向こう側では、傲慢ごうまんの兄・ルシフェルが、イライラと頭を掻きむしりながら歩き回っている。

 常日頃から見下しているマモンにお気に入りのベルを害されて、不愉快なのだろう。


 普段の飄々ひょうひょうとした態度が崩れかかっている。

 撫で付けた前髪がハラリと落ちている様は目を見張るほど美しいが、憤怒の兄・サタン以上に怒りをあらわにしている目は、ベルの胸をざわつかせた。


 同じところを何度も往復する姿は、檻に入れられた鋼熊スチールベアみたいだ。

 ベルはふと思う。


(熊の手、食べたいなぁ)


 脂の乗ったゼラチン質の肉の味を思い出して、ベルはペロリと唇を舐めた。


 鋼熊の手は、入手困難である上に、下処理が大変面倒臭い代物である。

 全体にびっしりと生えた鋼のような毛を抜き去り、香味野菜と一緒に茹でて匂いをとったあと、五日間に渡り蒸して柔らかくして、皮を剥ぐ。そしてそれを、薄味のスープでじっくりと煮込むのだ。


(おっと、いけない。そんなことを考えている場合ではないのでした)


 どこにいても、何をしていても、最終的に食べ物に行きついてしまう。

 さすが暴食の姫である。


 のんびりと熊の手に思いをはせている間もウロウロし続けているルシフェルに、ベルは苦笑いを浮かべながら声をかけた。


「お兄様、落ち着いて」


「ベル。どうしておまえはそんなに落ち着いていられるのだ。このままではゴミ溜めの森ホーディング・フォレストへ追放されてしまうのだぞ」


 怒りを沸々と煮えたぎらせているような低い声に、ベルは至極冷静に「まぁまぁ」となだめた。


 勇者行方不明の一報が入ってから数日。

 魔族を総動員して地の国を探し回ったが、骨一本見つからなかった。


 ──もしや人の国へ逃げ帰ったのでは?


 そんな憶測も出たが、両国をつなぐ転移魔法陣を使用した形跡は見当たらず、やはり怪しいのは暴食姫だとなったらしい。


 地の国にいる大多数の魔族は、暴食姫のことをこう思っている。


 ──ありとあらゆるものを食べてしまう暴食姫。一度手にした食材は、骨の髄まで残さない。


 実際、骨を煮込んで出汁を作ることもあるので、あながち間違ってもいない。


『ほら見たことか。骨すら見つからないということは、やはりベルの仕業としか思えない!』


 マモンの言葉に、魔族は「そうだな」と納得せざるを得なかったようだ。


 だが、いかに暴食姫だろうと、食べて良いものと悪いものの区別くらいつく。

 食べられるものと食べられないものの判定が、他者よりもガバガバなだけなのだから。


「おまえは勇者なんぞ食べていない。そうだろう?」


「そうね」


「ならば、なぜ抗わない」


魔王おとうさまの命令は絶対だもの」


 そこでようやく、ルシフェルが足を止めた。

 ギラリ、と鋭利な刃物を思わせる目が、ベルを捕らえる。


「……おい」


 彼は気づいたようだ。

 ベルの思惑と、魔王の思惑を。


「なぁに、お兄様」


 ベルはにっこりと微笑んだ。

 大輪の薔薇とはいかないまでも、素朴な野薔薇くらいの愛らしい微笑み。


 わかりやすく誤魔化すベルに、ルシフェルは呆れたように深々と息を吐いた。

 乱れた前髪を、ぞんざいな手つきでかき上げる。


 色欲の姉がいたらキャーキャー言いそうな、セクシーなしぐさ。

 だけれどベルは、


(ちょっとかっこつけすぎじゃないかしら?)


 と思っていた。


 人の国には『色気より食い気』という言葉があるらしい。

 まさにベルにふさわしい言葉だと言えるだろう。実際の意味がどうであるかは別として。


「おまえ、父上にゴミ溜めの森へ行かせてくれと、頼んでいたな」


「ええ」


「宰相に、姫という立場上、許可できないと断られていたな」


「ええ」


「……もうちょっと、やりようがあったのではないか?」


「そうかもしれませんが……この機会に便乗しちゃおっかなって思ってしまったものですから」


「……」


 ルシフェルはたっぷり間を取った後、深々とため息を吐いた。

 チラリと見てきた目には、呆れの色しかない。


「ごめんなさい、お兄様」


 テヘッと気の抜ける顔で笑いながら、ペロッと舌を出す。

 ルシフェルの眉間に皺が寄った。


「悪いなんて思っていないだろう」


「そんなことないわ。ちょっとくらいは、悪いと思っている」


「……そうか。ならば俺は、かわいい妹がいつでも戻ってこられるように、準備をしておくとしよう」


「ありがとう、お兄様」


「気をつけていけ」


「はい! いってきます、お兄様」


 伸ばされた手に、ぎゅっと抱きつく。

 鉄格子越しの抱擁は、いつもと違って少しだけ苦しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る