祭り太鼓

明日乃たまご

祭り太鼓

 武蔵野台地の西の端、正月の木々は裸で広大な林の中の境内は寒々としていた。足元には薄い積雪があり、人々を芯から凍えさせた。そんな冷気を吹き飛ばすような熱い声がした。


「俺は捕えた敵を並べ、大根を切るように首を切り落とした。下手な奴は頸椎けいついで止まって首を落とせないが、俺は30人やったぞ」


 社の前、集まった村人の真ん中に自慢話をする若者がいた。軍服姿の彼は右の掌を刀に見立てて振り下ろす仕草を何度か繰り返した。その左手の指は3本ほど欠落していて、左目も潰れていた。豊山安介とみやまやすすけという退役軍人だ。


「ヤスさんは村の英雄だぞ。隣組として、俺も鼻が高い。もし負傷しなければ、今頃陸軍大将だったな」


 隣家の年寄りが赤切れの手をすり合わせて褒めちぎる。


「この前聞いたときは、20人だったぞ」


 背中の曲がった老人が話に水を差した。


「20も30も一緒だ」


 安介は豪放磊落ごうほうらいらく、声をあげて笑うと囲む者たちもつられて無邪気に笑った。


 1937年に始まった日中戦争は、日独伊の三国同盟を中心とする枢軸国と米英を中心とする連合国が争う泥沼に陥っていた。


 安介は16歳で陸軍に入隊、中国大陸に送られたあと各地を転戦した。1943年の冬の戦闘で左目と3本の指を失い帰国、治療をおえて故郷に凱旋した。後のことになるが、所属していた部隊はインパール作戦で全滅したから、生き残った彼は強運の持ち主といえた。


 村民は彼の帰還を喜び、すぐに結婚話が持ち上がった。徴兵に次ぐ徴兵で村には若い男がいなかったから、自分の家の娘を嫁にもらって欲しいという申し出が山ほどあった。安介は晶紀あきという村一番の美女を嫁にして、家族の明るい未来を思い描いた。


「村長が来たぞ」


 綿入り半纏をまとった子供が声をあげた。


 参道を上ってくる小柄な老人は、村内の田畑の半分ほどを所有し、多くの小作人を抱える村長だった。食べている物がいいのか70歳を過ぎても石段を踏みしめる足取りはしっかりしていた。安介も彼の畑を借りて耕す小作だ。


「村長、俺の頼み聞いてくれるか?」


 安介は3日ほど前に頼み事をしていた。太平洋戦争が始まってから中断している秋祭りを開いてほしいと。


 目の前に立った村長に、安介は答えを求めた。太鼓が得意な彼にとって、秋祭りで叩く太鼓は生きがいに等しいものだった。


「ヤスよ……」


 村長は申し訳なさそうに安介を見上げた。小作人といっても今は戦争帰りの英雄だ。村長にも遠慮があった。


「思案はしてみたがなぁ。……戦争中なのだ。質素倹約、派手な行事は慎めと政府からお達しが出ている」


 言いながら、ゆっくりと首を左右に振った。


「ああ。だから結婚しても、式も披露宴もしていない。それは俺の家だけのことだからいい。しかし祭りは、俺だけの事ではない。みんなが楽しみにしているものだ」


 安介は、彼を取り巻く村人たちを目で指した。


「それでも、ダメなものはダメなのだ」


「国のために指と片目を失った俺が頼んでもだめなのか!」


 3本の指が欠けた手のひらを、村長の眼前に突き付けた。


「国の命令なのだ。戦局が良くないのは、戦地にいたお前が一番よくわかっているのではないのか?……昨年は、北九州にも爆弾が落とされたというではないか。祭りをやる場合ではなかろう」


「しかし……」戦局が悪いのは安介も承知の上だった。入院中に、東京と名古屋にも空襲があったと聞いていた。が、身体の一部を失って傷んだ心を癒したいと本能が訴えていた。


「もう言うな。天皇陛下が悲しまれる」


 村長は切り札を出した。この時代、天皇陛下を持ち出せば、国の方針に抗うような発言を抑え込めた。


 村長は社に向かって柏手を打つと、大日本帝国の勝利と天皇陛下の安寧を願った。


 ――ウゥー、ウゥー……――


 サイレンが鳴る。村役場に設置されたものだ。


「何だ?」


 村の者たちが顔を見合わせる。


「飛行機だ!」


 小学校にも入らない子供が空を指した。高い空を大小15機の飛行機が悠々と飛んでいた。陽の光を反射するジュラルミン製の機体は文明と暴力の象徴でもあった。


「ゼロ戦?」「隼?」


 子供たちは飛び跳ねるようにして両手を振った。


「いや……」


 大人の声はひしゃげていた。小さな機影は戦闘機だが、大きなそれは背筋をざわざわさせた。


「敵のようだ」


 それっきり村人は沈黙し、一様に空を見上げ続けた。隠れようとしなかったのは、村には攻撃されるような軍事施設がなかったし、市民を機銃掃射で殺すような戦闘機に遭遇した経験もなかったからだ。


「B29だな。爆撃機だ」


 安介もそれを見るのは初めてだったが、名古屋を爆撃したのは巨大なB29爆撃機だと聞いていた。それが飛ぶ高度まで日本軍の高射砲は届かなかったし、その高さまで飛べる戦闘機も少ないという話だった。


 安介の声に村人は勇気を得たのだろう。


「撃ち落とせ!」


 その場にいない日本軍に向かって真剣な声をあげた。子供たちは石つぶてを投げて飛行機を落とそうとした。ふざけているのではない。多くの日本人、一人一人が国のために滑稽なほど真剣に戦っていた。


 村長は黙って飛行機を見ていた。彼は小作人や子供と違って知識が豊富だった。子供たちの投げた石が社にあたった時にはじめて「止めろ」と声を上げた。


「神風よ、吹け!」


 ひとりの子供が叫ぶと、皆それに続いた。普段、「いざとなれば神風が吹く」と教えていた村長は黙った。


「日本の空もアメリカのものになった。もはや祭りなど……」


 安介は、村長の声を背中で聞いた。そこで「非国民」と村長を責めれば事態は変わっただろう。しかし、安介はそうしなかった。護衛の戦闘機の大きさと比べれば、B29の機体が巨大なことはわかる。そのような飛行機を作るアメリカという国は、どんな国なのか。それを思うと村長を責められなかった。


 もはや。……村長の言葉を心の中でなぞり、祭りのことはあきらめた。


 ところが、秋祭りは開かれた。1945年8月、日本国が降伏したからだ。


「戦争に負けて祭りが戻ってくるとは、皮肉なことだ」


 安介は笑い、自分専用のバチをこしらえて祭り太鼓の前に立った。左手の指が欠けていてバチを握ることができないので、縄でギリギリと縛り付けてもらって叩いた。


 ――ドンドン、カッカ、ドンドン、カッカ――


 太鼓の振動が腹に伝わると、安介の右目が生き生きと輝いた。


「やっぱりヤスは村の英雄だ」


 村人は賞賛し、英雄の打ち鳴らすリズムに合わせて神輿みこしを担いだ。


 ところが翌年の5月、極東軍事裁判が開かれて戦争犯罪人を糾弾する時代がやって来ると状況は変わった。敵の首を英雄的に切り落とした安介は犯罪者だった。村人は彼を英雄の座から引きずり下ろした。


「戦争犯罪人に祭り太鼓をたたかせてはGHQ連合国最高司令官総司令部に眼をつけられるのではないか?」


 村長は権威に忖度し、安介から祭り太鼓を打つ名誉を取り上げた。


「俺は神国日本のため、天皇陛下のために戦ったのだ。そんな俺から祭りを取り上げるというのか!」


 安介は村役場に乗り込んで強談した。


「ヤスが日本のために戦ったのはよく分かる。しかし、戦い方がいけなかった。戦争にもルールがあるのだ」


「俺は、そんなこと知らなかった。学校でも隊でも、教えられなかったぞ」


「お前が学ばなかったのが悪い。第一、政治と宗教は切り離されたのだ。村長としてワシが祭りのことで言えることはない」


 村長がうそぶいた。


「戦争と祭りと、どんな関係がある!」


 安介の勢いは、村長に噛みつきそうなほどだった。


「そんなことは、ワシは知らん。……祭りの事なら禰宜ねぎに訊いてみろ。訊いたところで答えは変わらないと思うが」


 小さな村だ。全て根回しは済んでいるのだろう。安介はあきらめてバチを捨てた。


 安介が可哀そうだという者もあったが、「ワシは村を守らなければならん」という村長の意思を打ち砕く理屈はなかった。村のため、誰もが自分自身を説得し、無情にも村長に従った。


 結局、安介は極東軍事裁判にかけられることなどなかった。とはいえ、GHQからいつ何を言われるかわからないと怯える村長の〝熟慮〟によって、安介が祭りに参加することは許されなかった。


 同じころ農地改革が行われ、村長の農地のほとんどが、ただ同然の金額で小作人たちに分け与えられた。安介もその恩恵にあずかった一人だ。


「ざまぁ、見ろ」


 土地を失った村長を、かつての英雄は笑った。すると、土地を譲り受けたかつての小作人たちが困惑した。自分も安介同様、村長を笑っていると世間から見られているのではないか、と。自分は国の政策に従っただけだ。……かつての小作人の理屈は、村長に対する同情の論拠となり、村長をさげすむ安介との距離はさらに広がった。


「寂しいなぁ」


 深夜、安介は社に忍び込んで太鼓を打った。


 ――ドンドン、カッカ、ドンドン、カッカ――


 その音は武蔵野の木立を越えて村中に届いた。禰宜はもちろん、村長も聞いた。


 安介が太鼓を打つのは約束違反だった。しかし、誰もそれを止めなかった。いや、止められなかった。村人には彼を孤立させた負い目があったし、祭り太鼓の音があまりにも寂しげだったからだ。


 ――ドンドン、カッカ、ドンドン、カッカ――


 祭り太鼓は一晩中続いた。その音は、ある者には秋の嵐のように険しく、ある者には乙女の嗚咽のように切なく聞こえた。


 ――ドンドン、カッカ、ドンドン、カッカ――


 音は、太陽が昇るころに止んだ。乾いた風が色づきはじめた木々の葉を揺らす朝だった。


 帰ったのか、眠ったのか。……考えながら社の扉を開けたのは禰宜だった。太鼓の足元に腰を落とした安介の影があった。


「ヤス、そんなところで寝たら風邪をひくぞ。もう満足しただろう。家に帰れ」


 声をかけたが安介は動かない。


「ヤス……」


 禰宜は安介の肩を揺すった。彼の身体がぐらりと崩れて倒れた。

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