番外編「優しいコーヒー」
番外編「優しいコーヒー」
* * *
濃いめに淹れたコーヒーに数滴のレモン果汁と、コーヒースプーン一杯分の蜂蜜を加えてよく混ぜる。それを氷で割って冷やし、グラスにそそぐ。
コーヒーをブラックでは飲めない“彼”のために、飲み物のレシピを集めた本を参考にして作るようになったアイスコーヒーだ。
コーヒーとレモンは意外だが相性は良いらしい。初めて作った時、味見をしてから、自室のベッドでぼんやりとしている“彼”の元へ運んで、声をかけて手渡して──茫洋としていた“彼”の瞳が、コーヒーを口に含んだ瞬間、『こちら』に戻ってきたのだ。
「……美味しい」
そう呟いて、顔を微かにほころばせて。
『美味しい』時の顔は隠し弾だ。作った者の心を真っ直ぐに射抜いて愛情でいっぱいにする。欲情を満たし、もっとと望ませ、優しくさせる。
天之河はそれを知り、味わい、肌を合わせた後には“彼”のためのコーヒーを作り続けた。
“彼”はグラスをもてあそびながら、綺麗に飲んだ。そのたびに天之河は満足した。
そのコーヒーは、“彼”以外の誰にも作らない、秘密の飲み物だった。
いつも天之河からコーヒーを受け取っていた“彼”が、一度だけ、それを天之河に作ったことがあった。
その頃、天之河は風邪が長引いていて、けれど煙草はやめられずに絶えず咳き込んでいた。喉が荒れて声が掠れ、それを“彼”にうつすわけにはいかないと、“彼”からは距離を保っていた。
そうして自室に籠もって、ベッドに横たわりながら長い一日をやりすごしていた時、ドアがノックされたのだ。
「……誰?」
半身を起こしながら、ドアの向こうに問いかける。
「……俺……」
躊躇いがちな声。聞きなれたものより少し固い。──それは。
「──昴?」
天之河は、ばさりとシーツを払ってベッドから降り、足音をたてるのも抑えられずにドアへ向かった。
「……昴、今は」
「──喉渇いてないかと思って」
「……昴?」
「……とりあえず、開けろよ」
そうだ、いつだって“彼”が訪れてくれる時には、すぐにドアを開けて迎え入れていた。
──けれど。
「……風邪がうつるよ」
「うつらないよ。──いいから、早く」
“彼”の声が促して急かす。
そういえば、“彼”は最初何と言ったか?
──喉渇いてないかと思って。
そう切り出してくれたのは、──それは。
天之河はハッとしてドアノブに手をかけた。
「……昴」
「……まだ声が辛そうだ」
ドアを開くと、大きめのグラスを持った“彼”が立っていた。グラスは夜のような色をした何かで満たされている。
「……昴、それ」
「ん。──飲んで」
“彼”の眼差しが手元に落とされ、グラスの水面を見つめ、そのままでグラスは差し出される。
天之河はつられるようにグラスを受け取り、戸惑いがちに口をつけた。
それはアイスコーヒーだった。レモンの爽やかな香りがコーヒーの豊かな香気と溶け合い、華やかに鼻腔をくすぐって柔らかく喉を潤す。それは蜂蜜の優しさにもよると甘味で分かり、いがらっぽさを宥められた喉でも知る。
「昴、これ……」
「……蜂蜜とレモンは風邪にいいから」
それは、いつも天之河が“彼”に捧げていたものだった。蜂蜜はやや多い。おそらく、痛めた喉を思いやってのことだと分かる。
「……美味しい」
そう囁いて、もう一口含んで。味わい、そっと飲み込む。
それを見ていた“彼”は口元をほころばせて──とろけるような笑みを天之河に向けた。
「……よかった」
「ありがとうな、昴……本当に美味しい」
「うん。……なあ、天之河」
「ん?」
「──部屋、入れろよ」
強引には身を滑り込ませてこない。ただ、天之河が招き入れるのを心待ちにしている。
「でも……風邪が」
「うつらない。……駄目か?」
本音をいえば、ここで優しいコーヒーだけを手にして別れるのは名残り惜しい。数日ぶりに顔を合わせた“彼”は、その手土産によって愛おしさを格段に増している。
さらには、何の躊躇いもない眼差しが胸をあやしく打つ。──もう駄目だ、と溜め息をつくように天を仰ぐように天之河は思う。
「……じゃあ、風邪がうつらない程度に」
苦笑して、ドアを塞いでいた身を引いて、招き入れて。
“彼”が「うん」と答えて一歩足を踏み入れ、そうして天之河にまた向き直り、手を差し出した。
「……昴?」
「煙草出せ。──治るまで吸わせない」
「…………ああ、」
こうなると拒めない。天之河はサイドボードに置かれていた煙草を手に取り、ここに来る時アイスコーヒーを持っていた愛しの手に引き渡した。
“彼”が小さく頷く。
「……じゃあ、天之河がそれ飲んでる間は、ここにいるから」
だから、すぐには飲み干すな。──言外の言葉は、受け取った煙草をすぐにデニムのポケットにしまい込み安楽椅子に腰を降ろした動作から伝わって。
「……昴、来てくれてよかったよ」
ありがとうと重ねて言う代わりに甘く囁くと、“彼”の横顔は満たされて見えて──天之河は思わず唇を寄せそうになるのを、コーヒーを口に運ぶことで抑えた。
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