エピローグ
* * *
「……あの二人、何やってんだか」
所在なく一人で立ち尽くしながら、北斗がぼやいた。
あれから二日後に三人で『家』を出て、すでに数日が経過していた。
天之河と暁は、近くに停留しているキャラバンに道を訊きに行っている。道に関しては、北斗は疎外というか丁重に回避されていた。行動を共にするようになって二日目には、彼らは「北斗は道だけは見なくていいから」などと、失礼極まりないことを言っていた。もっとも、北斗自身それに反論する気はない。苦手なものは苦手なのだ。
『外界』には、予想していた以上に人がいた。
もとは島国であった“ここ”の、国家が滅びたところで国土が沈没したわけではない。そう思えば納得はできた。荒々しく、そして活気もあった。
サブシステムの統括するシェルターは、あの緑の世界を出てすぐに見つかった。巨大な円錐形のドームだった。なかは窺い知れなかったが、周りだけを見て歩くと外壁のところどころに銃痕が残っているあたり、外界の人間からすれば羨望や憎悪の対象であることは明らかだった。
そこには呪詛のような落書きもあれば、おそらくはこの付近で起きた抗争に巻き込まれた誰かの、血がなすりつけられた跡もあった。干涸びてどす黒く変色したそれは、下手な落書きより遥かに烈しくこのシェルターを呪っていた。
「にしても遅いな、二人共」
再びぼやく。吹きっさらしの頭上には青空が広がり、何よりも本物の太陽が燦々と輝いていて、外界の季節はどうやら秋のさなかでも、立ち続けているには暑かった。
早く来いよ。──独りごちながら辺りを見渡した時、北斗の視線が、じっと寄せられていたらしい誰かの視線とかちあった。
* * *
早く。早く、行かないと。
がくがくと震える膝を押さえつけながら、少女は走り出した。出てきてしまった。だから、見つからないうちに早く。
脱出したシェルターの周囲には、隠れられるようなものは何もなかった。荒廃した景色に、はじめ少女は息を呑み、呆然とあたりを見回した。シェルター自体も薄汚れてひどい外観だった。
サブシステムのシェルター内には派閥も階級もあった。
もとあった国家の機構がそのまま縮小され、爛熟を極めたようなものだといえば分かりやすいかもしれない。
そして、MOTHERは世界の破滅と再生を司る姫神として信仰されていた。
閉鎖された世界だった。キャパシティが限られているために出産制限はかなり厳しく、それでも生まれた子ども達はほとんどが私生児となり、親は制裁を恐れて放棄した。
その子ども達はシェルターの地下部分に孤児として収監され、半数以上は幼児期に死亡し、生き延びた子ども達は大抵の場合が十代のうちに売買された。表面上は養子縁組ということになっていたが、事実上それは奴隷売買だった。
少女は、売られる直前に逃げてきたのだ。
天井の排気孔に潜り込み、手探りで進んだ。何かに触れるたび、心臓をわし掴みにされるような恐怖と短い悲鳴が迸りそうになるのを、ひたすら堪えた。
暗闇で時間さえ麻痺してくる。途方もない不安のなかで明かりが見えてきて、後は何に触れようとも構わず這い進んだ。外界に繋がっていた。
出口には、小さな鉄柵が嵌め込まれていた。隙間に埃のこびりついたそれは、少女が力任せに揺さぶっても、びくともせずに少女を焦らせた。ここまで来たのに。嫌だ。
そうして、憤りに近い激情に衝き動かされて滅茶苦茶に柵を揺すっているうち、不意にがくりと手応えが返った。
少女はハッとして、慎重に柵を掴みなおし、持ち上げた。僅かな隙間が下にできた。ゆっくりと手前に引くと、それはついに外れた。
開かれた出口は、痩せっぽちの少女の体が、肩を擦りむかせながらもようやく通れるほどの幅があった。………………………………………………………………
走りながら少女は、地平に続く空を見た。
天井のない、無限の空を。
外の空気は、甘かった。甘く、どうしてか懐かしかった。
少女は泣きたいような衝動を、とにかく走ることに変換して、その場を駆け去った。
どれだけ走ったのか。息がしゃくりあげるような忙しなさになって、脚が重く痛みだした頃、少女は初めて外界の人間を見つけた。
「……あの二人、何やってんだか」
その人間が声を発した。若い、男の人。服も持ち物もこざっぱりとしている。外界に於いてはそれが可能になる程度の『立場』を持っている人なのかもしれないと、少女は判断する。
どうしよう。見つかったらどうなるだろう?
助けてくれるとは限らない。
売られそうになった自分だ。生き延びるまでの間、生き延びるそのことを望まれてもいなかった。
だから自分は外界でも、いられるか分からないのだ。
でも、生きなければ。嫌だから逃げてきたのだ。ここで、生きなければ。
少女は自分に言い聞かせた。
どうしようか。あの“出口”の情報を、売ったらどうなるだろう?
案外いいかもしれない。シェルター内は物資が揃っている。それを手にすることができる人間は限られているけれど、そんなのは攻めてしまえば関係なくなるのだ。
そうしたら──いい気味だ。奴らはきっと殺される。子ども達が収監されて、押し込められていたあの地獄より、きっとひどいやり方で。
悪くない。それは、考えただけで底意地の悪い快感がこみあげてくるようだった。
でも、だけどそうしたら。──少女はふと思う。
そんなことになったら、あの地獄の子ども達──仲間まで殺されはしないか。
弱いもの虐めや盗みや讒言をしていた奴はどうでもよかった。ただ、仲のよかった何人かの子達の顔が浮かんだ。
置いてきてしまった。皆が寝静まってから出てきた。誰かにあらかじめ話してしまえば、情報はどこから監視する大人に知られるか分からないから、別れさえ告げられなかった。
それを思うと、切なかった。駄目だ。攻められては駄目だ。──少なくとも、外界の人間が子どもを殺さないと分かるまでは、軽はずみに口にしてはいけない。確かめなければ。
「……あ、」
男の人──北斗が、不意に視線を巡らせた。そうして、少女の姿を視界にとらえた。
「一人なの?」
身を固くして立ち尽くす少女に歩み寄りながら、北斗は声をかけた。怯えきった瞳が痛ましい。きっとそれなりに凄惨なものを見てきたのだと推察する。
「ああ、……大丈夫。悪いことはしないから絶対」
信用されるかは分からないが言ってみる。この付近にコミュニティはなかった。にもかかわらず、ここにいるということは、おそらく孤児だ。まして少女──外見では十代半ばだろうか──となると、狼の群れに羊を放り込むに等しい。
「どこから来たの? 一人じゃ危ないから」
目の前にまで近づく。少女は警戒をあらわにして、両手を胸元に合わせ、きつく握り締めた指を震わせていた。
「あの、さ。俺本当に君をどうこうしようって気はないから。──信じてもらえるかな」
その怯えをもてあつかいながら、できるだけ穏やかな口調で北斗が繰り返す。少女の、凍りついたような視線がふいと彷徨い、俯いた。
「……シェルター、から。……来た」
か細い、固い声で少女は呟いた。
一言、口にした後の少女は比較的すんなりと会話に応じてくれた。
元々が素直な気質でもあったのだろう。はじめのうちはひたすら逸らしていた視線が、じきに真っ直ぐ向けられるようになって、北斗は内心ほっとした。
主に少女が脱走してきた経緯を聞きながら、北斗は少女の姿を改めて見る。化繊のワンピースは飾り気のない筒のようなもので、どことなく囚人を思わせた。排気孔を通ってきたというだけあって、ひどく煤けているが、生地の目が潰れているあたり、元はひどくなかったとはお世辞にもいえないだろう。
少女は説明に『収監』という言葉を使った。その意味を、北斗はそこから感じ取った。
「毎晩のお祈りで、あたしは祈った。MOTHERに、祈ったのよ」
少女が、自らに信じさせるような強い口調で言い放った。
「──『この世界から、あたしを出して』って」
「出られたんだね。それは、よかったけど。一つ訊いていいかな……君は、あのシェルターでの“現実”を後悔してない?」
残酷なことを訊いたのかもしれないと、言ってから北斗は気づいたが、少女に傷ついた様子はなかった。
「関係ない」
即座に、少女は首を横に振った。
「『生あるもの、母たる御方の奇跡を知れ』なんて、そんな教えはどうでもよかった。パパとママの顔も知らなくても、何かの事情があっただなんてことも、あたしにはどうでもよかった。──奇跡がもし本当にあるとしたら、ただ、あたしは、パパとママの奇跡よ」
“現実”はそれだけでいい。──そう言いきる少女の力強い眼差しが、水槽に鎖された少女の開かないそれに脳裡で重なって、北斗はついと手を伸ばし、目の前の少女の頭を撫でた。
伸ばしっぱなしの髪は、パサついていて、けれど頭皮の体温を伝えて温かかった。
「……いい子だね」
そう言って微笑んだ時、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「北斗、道は分かったけどさあ、コレもうちょっと電波強くなんないの」
手帳サイズのレーダーを片手に見ながら暁がぼやく。
「駄目」
「だって何も見えてこないし」
「これ以上強くしたら、違うモノまで拾うから。……大丈夫だって、あいつらも同じの持ってるんだから」
「そうかな?」
「そうだよ。向こうがこっちのコト探してるかは分からないけど」
「痛いコト言うなって……」
気を取り直しかけたところで再びぼやかされる暁を、天之河が「大丈夫、昴はともかく流星の性格なら執念で探すから」と、本人達に聞かれたら後の怖そうな宥め方をしつつ、ちらりと少女を見やった。展開と話についてゆけず、目を白黒させているのが庇護欲をかきたてる可愛い少女だった。
「もう拾ってんじゃん、北斗」
人好きのする笑顔でからかってきた天之河に、北斗は「痛いコト言わない」と、暁と同じ言葉で返した。
「巡り逢いってんだよ、コレはさ」
* * *
「じゃあ。お世話になりました」
「はいよ。また何かあったらおいで。気をつけてくんだよ」
田園風景のいかにも似合いそうな、おおらかな中年女性が、挨拶をする昴に笑い返した。恰幅のいい笑顔だった。
ここまで陽性な人は珍しくはあったが、行き逢った人の多くは意想外によく笑っていた。
戦わざるをえない場合はともかく、それ以外でまで剣呑でいてどうするんだと、無言で語りかけるような雰囲気が、そこにはあった。
コミュニティは全土に点在しているらしかった。元主要都市圏より、元地方農村部が活発らしい。
都市の方は業者が多いんだけどねと、話したうちの一人が教えてくれた。
業者というのは、個々の情報を収集して、おぼつかないながらも新しく構築されようとしているネットワークに関連する専門業者をさすらしかった。
もっとも、コミュニティのなかにはゲリラや賊の襲撃を恐れて閉鎖的になっているものも少なくないから、その流通はまだ限られた交換段階ではあるようだが。
それでも、数十年前に壊滅状態に陥った『世界』は、再生に向けて模索を始めていた。
キャラバンは初期の段階で誕生していたらしいし、試験的な耕作に踏み出しているコミュニティも増え続けているとのことだった。
「昴。コレ、もうちょっと感度上げられないのかな」
並んで歩く流星が、手にしたレーダーをためつすがめつ眺めながら言い出した。
「無理。諦めろ」
「ていうかちゃんと電源入ってんの? 何も見えないし」
「うるさい。あんま愚痴ってると置いてくぞお前」
「置いてったら昴寂しいじゃんか」
「…………お前、いつ覚えたその減らず口」
昴が脱力したようにぼやく。やはり教材になったのは自分なのか。──そう思わないでもないが、認めがたい。
流星は前を見たまま笑い、歩いてゆく。
昴はその、傍らにある姿と横顔とを見やり、そして空を見上げた。
太陽が、ちょうど天頂に差しかかろうとしていた。
【fin】
*
*
*
白い朝に僕は夢を知る。
世界は動きだすと思い、
世界はそれ以前に動いていたと気づく。
貪り喰らいあう夢の現実はきっと口を開けて僕を見ている。
それでも朝は僕に諭す。
ただ一言、「いきなさい」と囁く。
それだけを、世界の果てまで繰り返し囁く。
*
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