第4章第12話

* * *



あんまりだ。──暁がそう言った後、その場は沈黙に包まれていた。そのなかで断続的に水槽からわき起こる気泡の音は、さながら胎内に息づく命の鼓動のようだった。


けれど、と北斗は思う。


けれど、ここからはもう何も生み出されはしないのだ。






北斗が意を決して手を伸ばし、暁の手を取った。


その動きにハッとして北斗を見つめる暁には目を合わせずに、一瞬強く握り、そうしてその手をじっと見下ろす。


伝わるには、それだけで十分だった。


二人の目の前には、細い一本の脚に支えられたボードがあった。それが『第七の門』なのだろう。古くなった建物は埃が溜まりやすい上に、ここのところ顕著になっていた破綻のため、清掃に出されるアーマノイドもいなかったのか、そのボードには、うっすらと毛羽だつような埃が見てとれた。




暁は、黙ったまま北斗の手をといた。


そうして、目の前にある博物館の展示プレートのようなその『自爆装置』を、見下ろした。北斗はそれを暁に知らせていなかったが、『最後の門』が何を意味するのか、訊かずとも理解できていた。終わりのためのものだと。どう終わるのかは分からずとも。


北斗が暁の横顔を見やり、それから水槽にあって失われた瞳を閉ざす少女を見上げ、囁く。


「……俺は、アンタの『言いつけ』通り、見てきたよ。……ただ、見てきたんだ。……もう、いいだろう?」




それを合図に、暁の手が最後の門に伸ばされた。


触れるか触れないかのところで一瞬躊躇い、固く目を閉じる。指先がひどく震えていた。詰まる息を吐き、唇を噛み締める。


それから、ゆっくりと識別画面に手を重ねた。






MOTHERが、壊れてゆく。





少女の眼窩に嵌め込まれていた起爆物質が、爆発した。




砕け散る、水槽。


内側からの破裂。


無数に走った亀裂が、破砕音を轟かせ、爆発に耐えかねて──。


つぶてのように降りかかる水飛沫と破片が、暝い照明を受けて光を溶け込ませ、それを含む少女の髪が細い針のように輝きながら舞い散った。


暁が咄嗟に腕を伸ばし、北斗を庇う。


北斗は暁の肩越しに、崩れ落ちてゆく水槽から目を離すことなく、ずっと見つめていた。




それは、終焉の儀式のように。






……やがて、全ての音がやんだ時、北斗は見開いていた目を弛緩したように閉じた。そのさまは虚脱ともとれた。


それから、止めていた息をそっと吐くように、いなくなった『MOTHER』に語りかける。


「……俺は、見てきたんだ。ずっと見てきた。アンタの見られないものを、全部。……アンタは、あんなものを、見たかったんじゃないだろう?」


「……北斗……」


暁が腕を緩め、北斗を見つめた。茫然としたような北斗の眼差しは、何を見続けているのか、暁には分かりかねた。もしかしたら、ここにはすでにない何かを見ているのかもしれなかった。すでにない、少女の眼差しを。


気づかなければよかったと、切なさのなかで暁は思った。


北斗は、いつしか愛おしんでいたのだ。


生きることの全てを奪われた、自分自身の家族さえ奪った元凶ともいえる、その、自ら消えることもかなわなかった命を。


泣きたい。いっそ声の限りに泣き叫び、喚きたい。暁はその衝動に駆られ、けれど涙も声も出てこなかった。


少女が奪われたものは返らない。天之河が、北斗が失った『家族』という世界はすでにない。育ちきった緑の世界に眠る、もう一人の『兄』には、もう会えない。




「……おやすみなさい」


北斗が、低く、厳かに囁いた。







* * *



夜になってから、天之河は外に出てみた。


月光に照らされるなか、『彼』のもとへ続く細い道を歩く。


静かな夜だった。ここ最近の夜風にあった病んだような熱は、もう感じられなかった。暗く、穏やかに木立は眠っていた。


四人がそれぞれに通ったはずの道が二本口を開いている、そこに立つ。『黒い彼』の眠る場所の前に膝をついて目を閉じた。


潮騒のような葉擦れの音が微かに通り抜け、やがて静寂にかえってゆく。






……考えても、仕方のないことなのかも、しれない。


彼女を『生かす』ためのシステムはすでに老朽化して、破綻をきたしている。


彼女には、もう生きる術はない。






「……行こう」


不意をついて頭上から声が聞こえた。


一瞬、眠るはずの彼のものと聞こえて、天之河は弾かれたように顔を上げる。似ている声。けれど。


「……暁」


目の前の道から戻ってきたらしい北斗と暁が並んで立っていた。足音もしていただろうに、気づかなかった。


北斗が暁に続き、途切れがちに告げる。


「天之河君、……もう、終わったから」


だから、もう。壊れた世界には、いてはいけないのだと。


「……そう」


天之河は再び目を閉じた。彼らの言わんとしていることは分かっていた。


行かなければ、いけない。眠る彼を置き去りにして。


瞼の裏に、いつか自分に対して笑いかけた顔が浮かんだ。


殺すことも救うことも、連れ去ることさえできなかった彼の顔が。




「……“これ”、は。どうするのかな」


天之河が、そっと呟いた。暁が息を呑むのが気配で伝わった。北斗が代わりに話す。


「天之河君。……でも、残っても何もしてあげられないね」


「……分かってる。もう何も届かない」


沈痛な声に、北斗が小さく息をついた。目をそらして戻し、前髪をかきあげて、天之河の傍らにしゃがみこむ。


「心のなかで生きてる。そい言うのは、都合がよすぎるかもしれないけど。……でも、考えてもみなよ。自分が今何を望むかより、彼が、もしいたら何を今望んだか」


容赦ない言葉。天之河が打たれたように顔を上げた。北斗は真っ直ぐにそれを受けとめながら、今にも泣き出しそうな顔だと思う。迷い子の眼差し。


「一緒に生きることは、彼も望んだかもしれない。でも今、一緒に消えられることは、……望むかな」


暁が、手探りのような語調でそれに続いた。


「天之河君。……俺も、思うんだけど。人って結局、それぞれで、全てを分かりあうのは無理だから。でもだからこそ、人のなかで、別の人を生かせるのかもしれない」


重ねられた言葉に、天之河は眠る彼を脳裡に思い浮かべた。


いつか笑いかけた顔。最後の息で、薄く開いた眼差し。蒼ざめて、固く閉ざされた、その瞼。


遺された手記を、黙って読んでいた横顔。


そうして再び、変わらずに笑いかけた、彼の。


連れてゆけなかった。何もしてやれなかった。


けれどもし、人は所詮、自分以外の誰かと向き合う時に、自分なりにとらえた人物像を心に住まわせることでしか共にあれないものなら。




彼は“ここにいる”。


打ち消しようのないほど、ここにいる。




天之河が、ゆっくりと立ち上がった。北斗がそれを見上げて立ち上がり、暁が僅かに目を見張る。


その二人に向き直り、天之河は一言、応えた。


「……行こう」








連れてゆこう。


今度こそ、どこに、どこまで行っても。


どこまでも君を連れてゆく。


たとえそれが、幻であったとしても。






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