第4章第11話
* * *
「……MOTHER──アレクシエルは、どうして『MOTHER』となったか」
北斗が沈黙を破った。凍りついたようになっている暁の傍らをすり抜け、水槽に向かい歩き出す。
「リンク、してるんだよ。マザーコンピュータと。信じられないよな、正気の沙汰じゃないじゃんか。……こんな、いつ停止してもおかしくない、少女の脳波と国家が繋がってるなんて」
水槽の前で北斗の足が止まる。見遥かす眼差しで目を細めて水槽に浮かぶ少女を見上げ、手を伸ばし、水槽にそっと指を這わせた。
「当然、それを知った国は焦った。リンクを外そうとして──その頃には、彼はもう死んでいた。自殺だった。助手の二人も、ほとんど同時にこの世を去っていた。……折よく……悪くかな、世界じゃ冷戦が流行ってたらしいよ。コンピュータウイルスは蔓延して、国営銀行は敵性国家の金融に抑圧をかけあった。ネットを使って、洗脳ゲームなんて得体の知れないモノも広まったらしいね。洗脳っていうか、悪質なノンフィクション・バイオレンスか。ラストシーンで、お前がさんざん遊んできたコレは実写だってバラしたんだって」
もういい。もういいから。話さなくていいから。
今にも叫びだしそうになりながら、けれど暁は叫べなかった。喉に、声を出すための全てが固く張りついていた。
矢継ぎ早に吐き出される北斗の声音には抑揚がなかった。機械的なほど淡々とした語調の、殺気立った静かさに、暁は止めようとする言葉を失って、聞いた。
「もう滅茶苦茶だよな。それらの対応に汲々としている間に何度かのシステムエラーが起きて、何度目かにクライシスが起こった。国家は滅び、国家間の国交は断絶された。国民はこの国土に遭難し漂流することになった」
「じゃあ……今、“ここ”は? この国の、他の人たちは……」
暁が、やっと声を押し出して北斗の背中に歩み寄った。
北斗は小さく首を振った。
「……どうなんだろうね。世界には、人脈なり財力なりがあれば国籍をくれる国家も少なからずあったみたいだから、ある人たちは根回しして逃げ出したんだろうけど。敵性国家が、流出した頭脳を受け入れたり。……国内でも、サブシステムの統括するシェルターに、そうした力で入った人たちは今でも生きてるかもしれないし」
「……サブシステム?」
鸚鵡返しに問い返す暁に、北斗は簡略された説明をした。
「俺たちが暮らしてた世界の、拡大版みたいなモンだよ。むしろ、俺たちの生活や状態をサンプルデータにして設計・調整されてるっていうべきか」
サブシステムは、事実を知った国家の中枢が火急のこととして造ったものだった。ある程度の有機物質の自給が可能となり、研究施設が備わっている点で、あの緑の世界とは異なっているものの、人工気象管理や外部からの侵入に対するセキュリティシステムなどは、そのほとんどを踏襲していた。
「まあ、収容人数の容量は詰め込んでも五千人程度らしいから、当時の国内総人口だとニ万人に一人の確率でしか入れなかったことになるけど。でも、そこからあぶれた人たちも、あるいはどこかしらにコミュニティを形成してるのかもしれないしね。……でも、分からないよ。この世界から、出てみないと分からない」
水槽を辿っていた北斗の指に力が籠もり、握り締められた。
傍らでそれを見ている暁の脳裡に、MOTHERの言葉の記憶が蘇る。
──止めて。そう願う、声。
あれが、彼女自身の、あるいは彼の、意思によるものかは分からなかった。それとも単純に、システム上のものなのか。
……けれど。
「そんなの……滅茶苦茶だろ。あんまりだ」
間違っている。暁はそう思った。
あまりにもひどい話だ。
* * *
涙に任せた、その果ての微睡みから天之河が目を醒ました時、薄闇に沈んでいたはずの部屋はカーテン越しの日射しに柔らかく照らし出されていた。俯けた顔に撫でるような陽の温もりが感じられて、すでに朝は過ぎていることを知る。
安楽椅子に凭れたままの浅い眠りは、どことなく嘘のようで。軋む背中を伸ばし、焦点の合わない眼差しと頭をぼんやりと巡らせる。デスクライトはつけっぱなしで、恨むような暝い明かりの色だった。天之河はしばらくそれを眺めて、手を伸ばし電源を切った。頭の芯が疼くのを感じながら、とにかく目覚ましのコーヒーを淹れるために立ち上がる。
「……?」
廊下に出て、一階に降りてゆくうちに天之河は家のなかの静けさに違和感を覚えた。誰の話し声も物音も聞こえてこない。何も聞こえない。
そこには、人の気配がなかった。
天気がいいから散歩かと思い、昨日の出来事を思い出して、それは見当違いだろうと思い直す。昴のもとに訪れた暁。ノートの存在を自分によって知らされた北斗。ならば事態はそんなに安閑とした状態ではないだろう。
全ては動き出したのだ。天之河はそう認識する。
リビングに行くと、テーブルには二つのカップが使ったまま残されていた。灰皿に一本だけ棄てられている吸い殻。フィルターで北斗のものだと気づく。
たつ鳥が本当にあとを濁さないものならば、北斗ともう一人の誰か──多分暁は、一応は帰ってくることになる。物語を先読みするように、そう思う。昴は、今いないなら帰ってはこない気がした。そうなると流星もだ。
天之河は、さながら傍観するような目で現実を見た。急速に動き出す周囲をまのあたりにして、にもかかわらずその現実に附随すべき何らの感慨も起こらないそのありようは、冷静とは明らかに異なっている。何かが抜け落ちた思考回路はとりとめなく軽く明晰で、そして楽天とは程遠かった。
分かっていた。いつか壊れてゆくことは分かっていたのだと、声には出さず繰り返し嘯く。
いつか、定められた殺人者である自分が「何で笑えるの」と問いかけたのに対し、「何でって?」と逆に問いかけてきた“昴”の顔が浮かんだ。彼は、「天之河は殺さないのに」──そう言いきって笑ってさえみせた。
どうして、なんて。訊かなくても分かっていたはずだ。
彼と自分は、おそらくは似ていたのだと思う。
“どちら”が、というのではなく、それぞれに。
だからこそ生きて欲しかったのだと。そうして、それが幸せであって欲しかったのだと、思う。
──それでたとえ“お前自身”が苦しむことになっても。
たとえ、取り返せるものなど何一つとしてなくても。
──出来損ないなんかじゃなかった。俺にとっては。
そう言って。だからこそ、全ての願いに構わず、自由になって欲しかったのだと。
『黒い彼』は、MOTHERの誤作動によって作り出されたと、関係者からは解釈されていた。
けれど、それだけでは括りきれないのも、あった。天之河は一度きり、遺された手記を読んだその時から、弾き出された解釈に疑問を抱くようになっていた。
“彼”は、出来損ないではなかった。それは、天之河自身の感情を越えた最初の事実が裏付けしていた。
『黒い彼』は『白い彼』から作り出される時に遺伝子操作を施され、人工羊水で育てられている間に『教育』さえ受けていた。『白い彼』から『危険因子』を除去したものが、すなわち『黒い彼』なのだと、手記には書かれてあった。
そしてその後、アーマノイド化されるに至った彼は、遺伝子操作と教育の異質性を示すかのように、大脳皮質が本来受けるべき抑圧を、回避していたのだ。
では何が危険因子だったのか。今となっては判然としなかった。今、彼が──彼らが動き出した、そのことを示すのだとすれば、それは人類史上に繰り返し刻まれている『革命』の要素ということにでもなるのか。
けれどそこに特異性はないだろう。極端から極端に走った例なら西暦一九六〇年以降から起きた『革命の輸出』と銘打った動きがある。それは文化性・民族性の確立を前面に押し出すことによって、国民を統括・動員したものだった。国家というパーソナルの確立のために、国民という個々のパーソナルは『神』という絶対者を頂点に掲げて統一された。それと対照的な例ならば、同時代に『無血革命』と呼ばれるものもある。『革命』は人間が人間である限り、必ずどこかで起こる。
動き出さないものなどないだろう。いつの時も、誰がどれだけ取り残されようとも、時代は変遷する。
……そう、変わらないように仕組むことなど、できないのだ。天之河はそう思う。ならばそこには、生み出されたはじめの『誤作動』という要因さえをも包括する、“能動的な意思”が、ありはしなかったか?
MOTHERは確かに、天之河に対して『昴』を『殺せ』と言った。
それが、MOTHERあるいは少女の意思ならば、なぜ彼女は流星に『守れ』と言ったのか。そもそも、脳波だけを辛うじて保たれた少女に、それは可能だったのか。──そう考えれば、MOTHERの『言いつけ』はプログラムされた『MOTHER』によるものだと考える方が自然だった。
けれど、それだけでは説明しきれないものも、あった。誤作動だけでは括りきれない事実と、プログラムだけでは纏めようのない現実。
『守れ』と言われた流星が、天之河の両親によって施設から引き取られたことには、創造主である『彼』は一切関与していなかった。それは、彼のプログラムの埓外での出来事だったのだ。
プログラムだけでは、『MOTHER』は解明できない。
それがもし、ただの空想でなければ、それは恐るべき事実を意味することになる。
彼女の、生きようとする意思──あるいは、人としての本能──それが、理不尽な現実さえをも取り込んで発生した。
──その仮定が、もし正しければ。
生きることの全てを奪われた、少女──MOTHERは、その果てに、自ら進んで『MOTHER』としてあったことになる。
* * *
おぞましい推測に寒気を感じ、天之河はコーヒーよりもシャワーを浴びることにする。
シャワーのコックを捻り、熱めの湯を勢いよく出して頭から浴び、天之河は固く目を閉じた。
立ち昇る湯気が、熱気が、軽いめまいを誘う。
これは、推測の域から出ていない。天之河はそう思う。言い聞かせる。
今となっては、事実は確かめようもない。
世界は壊れてゆき、彼女はそれを止められない。
──けれど。
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