第4章第10話

* * *



それまで通ってきた道よりもさらに細く、根を張る草に足場の大半を狭められたそこを、視界を遮る枝を払いながら進んでゆく。いつか本で読んだ獣道は、こういうのか。北斗は頬を掠める葉先の鋭さに顔をしかめながら実感した。


先を歩く暁は、背中しか窺えないけれど案外落ち着いていた。大きく伸びだして道を遮っている枝を掴み上げて振り返り、「大丈夫?」と訊いてくる程度には。


平気、ありがと。──言いながら北斗も枝を潜る。野趣の溢れる道ではある。昴と流星の通ったであろう、もう片方の道も、こんな感じだったのだろうか。普段、口の動きの早い二人のことだから、終始道の悪さに苦情を言うか、逆に黙々と出口へ歩を進めたのかもしれない。その姿を想像して、何となく北斗は気持ちがやわらぐのを感じる。研究所に着いてしまえば、そんな優しい空想どころではない。それは分かっているけれど、今、少しの間は。


「──暁」


「何? どこかぶつけた?」


「や、そうじゃなくて。歩いたままでいいよ。……昴は、さっきの場所の、もう片方の道を行ったんだ。この世界の、出口」


「……そっか。俺たちも、後から通るんだ?」


「……どうかな……そうなるのかな」


思わず問い返した北斗に、暁は歩きながら一瞬振り返って笑顔をみせた。


「そうなるよ」



* * *



二人が辿り着いた研究所は、古びていた。コンクリートの塀が所々ひび割れ、雨に爛れて崩れかけている。


その中央の、ペンキが枯れて剥がれてきている門前に立ち、北斗が暁の手を取った。


そのまま、『ゲート』の識別システムに暁の手を翳させる。


「……まだ、このシステムはイカれてないらしいね」


僅かに安堵を滲ませながら言う北斗の声に、ギイギイと軋みながら開いてゆく門の、そのノイズが被った。


なかに入り、暁は目を見張った。記憶の果ての、くすんだ『白い世界』が死んだように横たわっていた。あれはいつの記憶だったんだろうと思い、けれど記憶を定かに手繰り寄せることはできなかった。


ゲートは全部で七つだと北斗が暁に教えた。第三までは指紋が、第四・第五は指紋と角膜が『鍵』になっているらしかった。


「あとの二つは?」


そう訊ねると、北斗はそれには答えずに、あるドアの手前で立ち止まった。そこが、第六のゲートだった。


北斗が、ドアを見つめたまま口を開いた。


「……天使って知ってる?」


「あの、羽が生えてるやつのこと?」


何のことか分からないまでも一応答える。北斗が頷いた。


「そう。その天使にもランクがあるらしくて。下級天使は美しい人の姿をしていたりも、するらしいんだけどね。──上級天使は、違うんだ」


「……上級天使?」


そこで北斗が会話を切り、暁に手を翳させた。ゲートが緩慢に開きだす。第六は指紋と声紋が『鍵』らしかった。


それを見つめながら、北斗は再び口を開く。その声は、低く落ちて響いた。


「……頭に、羽を生やした姿なんだって」


開ききったゲートの前で、暁が立ちすくんだ。


目の前、数メートル先に、あの“水槽”がある。


「分かる? MOTHERに、なってから。“彼”からは──『アレクシエル』──そう呼ばれてたらしいけど」


これが、全てを奪われた少女の虚像だと北斗は言った。



水槽に、少女がいた。


眠るように目を閉じた、白い顔。


長く長く伸びて広がる髪は、白く柔らかい光を放ちながら、羽のように彼女を彩る。そして水槽の底からわき起こり消えてゆく気泡が、それを揺らめかせる。──それ自体生あるもののような動きで。


その少女の白さは、煤けた現在のなかで異質だった。そこには、時間から隔絶された『記憶』が息づいていた。


「これ、が……」


呆然と見入る暁の前で、不意に大きな気泡が音を立てて昇った。揺らめく髪が、つかの間持ち上がる。


水槽越しに、向こう側の壁が、透けて見えた。




「……MOTHER……?」


暁が掠れた声で呻いた。






“眠る少女”の、美しい顔の下に、体はなかった。


代わりに、太い管が一本、通されていた。






* * *



助手の二人──父たちが、遺した手記を。あの薄暗い地下室で天之河から渡され、初めて読んだ時のことを北斗は思い出す。


ごわついて黄ばんだ紙の上に走る、変わらずに鮮やかなインクが生々しく伝える事実は、居合わせた者だけがもつ強烈な誘因力をもってして読み進める北斗の脳裡を駆け抜けた。




……狂気した科学者が、やたら白く光るライトのもと、テープで固定した少女にメスを入れ、チェーンソーをかける。


卵巣は最初に摘出した。すでに保存液に漬け、アイスボックスに入れてある。あとは術後に冷凍する。


眼球は残せない。腐敗が止められないのでは仕方ない。美しい、何よりも綺麗な貴珠だったのにと、彼は残念に思う。残念だ。呟いて、閉じられた瞼を開き、固定して眼球をも摘出する。この顔にあって艶やかに輝いていた頃はあんなにも美しかったのに、取り出してみると、学生時代に何度か解剖した家畜のそれとどう違うのかという気がして、彼は僅かに幻滅する。美しいものには美しく儚く別れを惜しむのが彼の理想だったのだ。


首は早急に離し、さらに早急に処置しなければならない。


少女の脳波、血圧と心電図を確認する。血液はギリギリまで抜いて低温保存してある。それを注入してさらに抜く。投薬の効果も今のところ安定している。……………………………………………………………………






そのノートには写真が一枚、挿まれていた。


角は傷んで破れ目が入りかかり、色も褪色が進んで青ざめていたそれは、けれどはっきりと被写体の表情を残していた。


白衣を着た三人の男性と、端に一人の少女。


一人の男性を除く三人は、明るい緑をバックに、溶けこみそうなほど明るく笑っていた。


その面立ちを思い出す。笑う、父たちと──少女。


そして、表情を作りかねるような面持ちで、少女の隣に立つ、青年。




その瞳が、どこを、何を見ているのか。その時、北斗には分かりかねた。そうして、突如悪寒が駆け抜け、烈しい吐き気がこみあげた。





* * *



……残念だ。全てが終わった時、彼は再び呟いた。やり遂げた達成感のなかに浸る今、どうして、何が残念なのか。心底にそう思っているのか、彼自身にも分からなかった。


残念だ。彼は繰り返す。咀嚼することで、その真意を引き出そうとするかのように。


蘇るのは、遠い昔の記憶だ。


軽蔑しきっていた父が、反発的なその息子を殴る。あれはいつだろう? 思い出せない。記憶がひどくとりとめない。


やめて。幼い少女が駆け込んで父にすがりつく。背中の中程まで伸びだ髪。ならばあれは妹が五歳、自分は十八歳の時だと彼は気づく。


父が少女を罵り、本気の力ではないにせよ突き飛ばす。うるさい。そう叫んで拳を振りかざしてみせる。少女が怯えて身を縮ませる。拳は振り降ろされず、けれど何度も振りかざされる。その度に少女が身をすくませた。父が腐った油を張ったようなギラついた目で笑っている。自分はそれを呆然と眺め、それから衝動的に叫ぶ………………………………………………………………………………



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