第4章第8話

* * *



昴と流星が夜明け前に入っていった道は、しばらく躓きつつ歩くうちにはっきりとした姿を現していった。


暗い空間に黒い木立が鬱蒼と迫り、足元では木々の張り出した根と丈の低い草が蹲って威圧していたものが、目が慣れてくるのを追うように、あるいはそれを追い越してゆくように明らかに姿を浮かび上がらせて、葉と土の色が分かるようになった頃、空から射し初めた日が霞がかった光を降らせる。


そうして、柔らかく明るむ視界に安堵しながら、曝されてゆく自分の姿に心もとなさを覚える時に、まだ昇り出したばかりの太陽から最初に晒された鮮烈な空気が流れ込む。




「そういえば俺、こっちの方には来たコトなかった」


左肩にかけたリュックのストラップをかけ直しながら流星が独りごちる。一歩前を歩いていた昴が、その一歩分の歩みを止めて流星に並んだ。


「こっちに、道が二本あって。片方はMOTHERに繋がってる。もう片方は──俺たちが行くのはそっちなんだけど──一応、外に繋がってる、はず」


「はず、ですか」


「でも他に出口はないから平気。構造上」


「──構造上って?」


「この“世界”の」


言っている本人なみに実体を把握していなければ理解できないような簡略さで答える昴に対して、流星は再び問いかけようとして、けれど口をつぐむ。何を訊けば自分の疑問に有効なのかも今一つ分かりかねた。


昴はその流星の横顔をちらりと盗み見る。細められた目は朝日のせいも多分にあるだろうが、釈然としないのも同等にあるだろう。


「……後で説明するから。無事出られたら」


こころもち、流星の顔を覗き込み言い足す。流星が表情をやわらげて「その頃にアンタが忘れてなかったら、色々聞かせて」と笑い返した。


「憶えてたらな」とやり返しながら昴は、憎まれ口はやはり自分が教えてしまったのだろうか、などと何となく思わないでもなかった。


「……そういえば俺、分かんないコトばっかりだった。今になってみると」


笑いの余韻を微かに滲ませた眼差しで、前を見たまま流星が呟いた。


「……うん」


頷きながら、昴は思い出す。流星と──それから暁は、意識的にあの世界の真実から隔絶されていた。


暁は、MOTHERの意図から。


そして、流星は。知らせなかったのは他でもない自分だったと昴は認識する。知らせることで巻き込みたくはなかったと。最初の“言いつけ”のせいもあってか──もっとも、流星は忘れていたのだから周囲によって──流星は送り込まれたその時から昴の傍にいるのが当然のような位置付けをなされていた。それからすれば知られたとしても必然といえたものを。




「そういえば昴、憶えてる? 初めて会った時もこんな感じの天気だったじゃん」


殊更に切り替えられた語調に、「……憶えてるよ」と短く昴は答えた。流星がふと微笑む。


「そっか。……よかった」


憶えている。流星が送り込まれた時、自分は自室にいて。MOTHERからの通達を受けた北斗によって中二階、昴とは隣の部屋を自室として案内されていた。隣の部屋のドアが開きっぱなしになっていたためか、二人のやり取りは隣室の昴の耳にも大体が聞き取れた。


──じゃあ、部屋はここだから。あ、ありがとう。トイレとシャワールームは各階にあるけど、リビングやキッチンは一階に纏まってるから……何か分からないことがあったら訊いて。うん、ていうか何も分かんないんだけど。………………そう。


努めて事務的に話す北斗の、今にも口を衝いて出そうな突っ込みを辛うじて抑えている様子が目に見えるようだった。


それから階段を降りてゆく一人分の足音がして、隣からはしばらく荷ほどきや窓を開け放つ音がしていたのを、聞くともなしに聞きながら昴はうたた寝していたらしい。目が醒めた時には音はやんで、辺りはひっそりと静まっていた。


昴は何度か目をしばたかせ、ぼんやりとしたまま立ち上がった。その足で向かってみた隣室は通気のためかドアも窓も開かれていて、半ば以上引き上げられたブラインドが窓から流れ込む風に揺れてカシャカシャと鳴っていた。真昼の日射しが自然に部屋を浮かび上がらせているのを、どうしてか綺麗だと思った。──“彼”がすごしていた部屋を。


昴はついと目をそらし、階段を降りてあの冷たい廊下を通り裏口へ出た。


そうして、晴れ上がった空の下、あの木の方へ歩いてゆくと、そこに流星が立っていたのだ。


「綺麗なところだね」


足を止め、見入る昴に気づいた流星は、振り返って会釈すると、そう言っててらいもなく笑った。


憶えている。




「あのさ、昴」


少し低く落とした声が、そっと鼓膜を震わせる。


「……何」


「俺は、今でも分かんないことのが多いけど。でも……うまく言えないけど、そういうのは昴が話したい時にでいいから。……だから」


たどたどしい言葉とは裏腹に、向き合った眼差しには迷いがなくて、昴の方が戸惑いを隠す。


流星が、すっと手を伸ばして昴の髪に触れた。毛先を摘まむ程度に、ほんの一瞬。すぐに離された指が、気配の感じ取れる近さに留まり、ややあってゆっくりと遠ざかった。


「俺の、傍では……昴の好きな昴でいてくれたら」


それがいいんだと言って、再び前を向き歩き出す。






それから、会話というほどのものもなく歩くうちに、何かが見えてきた。


今まで通ってきた木立よりも丈の低い木々が、小さな空間を取り囲んでいる。


足元には草の生い茂るなかで、そこにだけは僅かに新芽が吹いているだけだった。明らかに、人の手が加えられ守られている場所だった。


「……昴……あれって」


流星が、幾分固い声を洩らす。


そこ、は。MOTHERの居場所と“出口”への、分岐点となっている場所だった。


だからこそ、昴にはすぐに“それ”が何なのか分かった。


おそらくは天之河が、“彼”をここに眠らせたことも。彼をここに眠らせた、そのわけも。


流星も直感的に気づいたらしかった。


「……ここに、眠ってるのかな」


独り言のように呟いた流星に、「ああ」とだけ昴は頷き返した。




眠る、なんていうのはひどく穏便で自分勝手な言いぐさなのかもしれない。


それを愛した者にとっては眠らせることでも、それを眠らせるに至らしめた者には、許される表現ではないのかも、しれないと互いに思う。




「……ちょっと、いいかな」


流星が一言断って、そこに膝を折った。




黙ってそれを見つめる昴の前を風がすり抜ける。


その場所に膝をつき、頭を垂れた流星の、その髪が微かにそよいだ。


そのさまを、耳鳴りのようにさざめく葉擦れの音を感じながら、昴はただ見つめていた。






「……流星」


どのくらい、そうしていたのか。昴が、ひそめた声で促した。


その声に流星が顔を上げ、小さく息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。そうしてまばたくように再び目を閉じて、静かに開き、立ち上がった。


「うん。ごめん待たせて。……行こうか」


どっちに行けばいいの。──そう訊ねる流星に、昴は空を仰ぐ。白く、青空に穴をあけたような光。盛り上がった土の、その場所にこそ降りかかるような。それはけれど全てを燃やし尽くせる熱を持っている。いつか全てを燃やし尽くす。──今はそれに背を向けて、「あっち」と指をさした。


踏み出した視界に、灼熱の残像がつかの間暝く瞬いた。


背から覆いかかるような日射しは、目の前の梢を、葉脈までをもけざやかに照らしだしている。



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