第4章第7話









『水槽の唄。残された、最後の鼓動』




少女は願う。


「願う心が、願うための理由にかき消される前に」


その願いの果てに願う。


「壊れずに壊さずに生きられる世界を」


それはまるで、望郷のように。









* * *



壊れた世界に、それでも朝は訪れるらしい。


明けきった空は嘘のように澄み渡って、昨日よりも明らかに低い位置に雲が細くたなびいていた。“秋晴れ”だった。


それについてはもう何も考えないことにして、北斗はリビングにおける自分の定位置のソファにつく。そろそろ、飲み物を取りにキッチンへ行った暁が戻ってくる頃だった。




朝になって暁は北斗の部屋を訪れ、「兄ちゃんは?」と訊いてきた。どうやら、朝一番で会いに行った部屋がもぬけの殻だったかららしい。


それに対して、北斗は「行ったよ」とだけ答えた。暁からすれば遣る瀬ないものもあったのだろうが、予想していた反応とはうって変わって、冷静だった。あるいは、壊れだす世界に、別れという転機まで予感していたのかもしれない。


「……そっか」


寂しそうに呟き、暁はしばらく俯いていた。そうして黙ったままそれを見守っていた北斗に向き直り、口を開いた。


「でも何で俺は、今まで“見えて”なかったのかな」


「……“トリック”は話してもいいけど。長くなるよ」


“全て”を話すなら。──言外の意味を籠めた北斗の返事に、「じゃあ下に行こう」と暁が誘い、リビングに向かった。




* * *



この家のカラクリそのものは、決して複雑なものではなかった。


「……マジックミラー?」


「そう、原理はそんなモンだね。割りと、単純なトリックだった。まさか、ここまでうまくいくとは思ってなかったけど。……まあ俺が造ったんでもないけどさ」


問い返した暁に、北斗が肩をすくめてみせる。


うまく、いきすぎだったんだよ、いくら何でも。──こみ上げるその毒は呑み込んで。


「でも、何でそんなこと? 兄ちゃんと俺が顔合わせたら、何か不都合でもあったのかよ」


「そう。大アリだよ。……MOTHERに、とってはね」


「……俺が──“鍵”だから?」


「……暁?」


不意に切り込まれてきた、その言葉は核心を突いていて北斗が目を見開いた。教えた憶えはなかった。


どうして、いつ知ったのか。そう思い巡らせて、北斗は昨日暁と昴が会ったことを思い出す。


「……昴が、言ったんだ?」


訊ねると、暁は神妙な面持ちで頷いた。


「……兄ちゃんは、俺が“鍵”になるって言ってた」


「……そう」


「“使い方”は、北斗に訊けばいいって」


「────」


そんなコト言ったのか。丸投げかよ。


内心で、最後に見送った後ろ姿にがなりつきながら、北斗は向かい合っている暁を見つめる。真剣というよりは、必死な眼差しが真っ直ぐにぶつかってきた。


仕方ない。腹を括って「そうだよ」と肯定する。


「順を追って話すけど。この家のトリック──それは、セキュリティの一環だった。言われた通り“鍵”である暁と、……おそらくは、誰よりもこの“世界”の破綻を望んでいたはずの、昴が。決して出会わないように仕組まれた。……なら始めから同じ場所に送り込まなければよかったんだと、俺は思うけど。MOTHERには、俺の想像が及ばないような思惑が、あったのかもしれないけどね。……それにしたって、矛盾したセキュリティだよ」


そこまで一息に話して、暁の運んできたコーヒーに口をつけ、煙草に火をつけた。


「……誰よりも、って」


ありありと見てとれる混乱に、それは後で話すからと受け流して、いささか癇性に煙を吐き出す。今まで、早く気づけとばかり思っていたものが、いざ話すとなったこの時、どうしてか気が重かった。


それも、仕方ないだろうと北斗は思う。それだけ事実は重いのだ。言葉という形に出すことさえ忌まわしいような現実。


「……この“世界”のことだけど。暁もシステムがイカれだしてるのには気づいてるよな。機械もアーマノイドも、その“老朽化”は避けられない。この世界が造られた時には、まだここには正常に機能するネットワークがあった。それを統括しようとする『国家』もね。そしてこのシステムは、この世界を造ることを可能にした『国家』の存続が、不可欠の前提だったんだ」


国家、と口籠もった声で暁が反芻する。遠く実感のわかない単語だった。それは、暁が物心のつくより以前にはすでに失われていた。僅かに知っていることといえば、それがかつてあったことと、それはニ十年以上も昔に滅んだということだけだった。再興されたという話はおろか、そうした動きさえ聞いたことがない。もっとも、ここに鎖されているせいもあるのだろうが。


けれど北斗にしても同じようなもののはずだった。歳は一つしか違わない。彼が生きてきた、自分のそれとは違う世界を、違和感のように暁は感じる。


──違う“世界”。


直感に近かった。北斗は、こことは違う──『国家』という世界に、かつて組み込まれていたのだと、鎖されている自分自身を自覚することと引き替えに暁は感じとる。


黙り込む暁を見やり、北斗は一つの段落を終える言葉を続けた。感情を沈めた声で。


「名目は、実験として。ある人物の欲望が、“ここ”に送り込まれ、そして鎖されたんだ」




北斗が、フィルターぎりぎりまで灰の進んでいた煙草を灰皿に押しつけて、ソファの背に凭れた。ギシ、とスプリングの軋む音が、静まり返ったリビングのなかを反響して回る。


暁はしばらく黙ったままだった。まだ理解できずにいることがほとんどだろうと北斗は察する。分からないことさえ分からない状態から抜け出したばかりなのだろう。


とりあえず反応を待ちながら、カップに残っていたコーヒーを飲みほした。冷めきったそれは苦かった。


淹れなおしてこようか。暁の分も。そう考えるうち、暁がふと俯いた。足の上で組み合わせていた指が躊躇うような動きをして、その指先に力が籠もったのが見えた。




「……俺は、お前の言いたいことは、今でもよく分からない」




ぽつりと暁が呟きを落とし、そして顔を上げた。


「でも、分からないままでいたいとは、思ってなんかない。老朽化とか……時間の経過で、壊れてくものは壊れてくんだろうけど。でも、壊したくないものだってあるだろ」


その言葉に、今度は北斗が黙った。


時のなかで壊れてゆくもの。それに壊されたもののことを、知らないからこそ言える言葉だった。少なくとも北斗にとってはそうだった。


何も知らされずに、知りうるものからも隔てられて育った意思の、その歪みなさに刹那妬ましささえ覚えて、けれどあとはもうそれに託すしかないことも分かっていた。暁が“鍵”だから隔てられたのか、暁は隔てられたからこそ“鍵”になりえたのか。ふと考え出して、やめた。今となっては水掛け論だった。


……そう、彼に負うべき責めがあるわけではなく。


自分はただ、少しばかり羨んだ。北斗はそう自覚する。




「暁、行こう」


言いながら、立ち上がった。



* * *



返事も待たずにリビングを出てゆく北斗に、「ちょっと、北斗待てって」と狼狽えたように暁が腰と声を上げ、テーブルの縁に足をぶつけながらその背中を追った。


「行くって、──場所は」


玄関で追いつき、すでにドアノブに手をかけていた北斗が肩越しに暁を見る。唇の端で笑って。


「里帰りだよ」


おもむろに開かれたドアからなだれ込む、密度の高い日射しと空気の匂いが囁きかける。


“外”はどれだけ美しいだろうと。




外の、世界。


屹立する木々の、細く遠く道を開く、その向こう。


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