第4章第6話
* * *
「……暁」
昴に被さっていた半身を起こし、天之河が呟いた。どうしてここに、といわんばかりに。
昴に目立つ動揺はなかった。
一瞬だけ驚愕に見開かれた瞳が、すぐに別の閃きを宿して微かに細められた。ごく僅かなその変化は、天之河にも暁にも見てとれるものではなかった。
昴が、暁と同様に呆然としている天之河の、まだ自分の首にかけられていた手に触れた。静かに剥がすと、力の抜けていたそれはすんなりと離れた。
「……天之河。後で、部屋に行くから」
剥がした天之河の指を軽く握り締めて昴が言うと、暁を見つめていた横顔がどこかぼんやりとしたまま昴に向き直った。昴は真っ直ぐに見つめ返して握った指に力を籠めた。
「……だから、待ってろ」
天之河からは、返される言葉はなかった。しばらく昴を見つめていた眼差しが幾分か放心を残しながら、微かに頷いた。そして立ち上がり、暁の脇を無言のまますり抜けていった。残った二人もまた、無言でその背中を見送った。
「……入れよ」
昴が暁に呼び掛けた。幾らか慌てた様子で暁がそれに従い部屋に入る。二人きりになって沈黙の続くなか、暁は初めて向き合う『兄』を正面から見た。
体つきは似ていない。目元がどことなく似ている。口元も少し。そういえば声も似ているかもしれない。性格はどうなんだろう、…………
一人で思い巡らせているうち、昴から口を開いた。
「……暁」
それは昴自身も驚くほど静かな声だった。
「何、……兄ちゃん」
躊躇いがちに暁が答えると、昴はただ「暁」と繰り返し、名ばかりを呼んだ。暁もただ繰り返し頷いた。口ずさむようなそれは、自らに確かめるようにたどたどしく、それでいて懐かしかった。
昴が立ち上がり、おもむろに両腕を伸ばして暁の肩を引き寄せた。
髪が頬を掠め、微かな息遣いが聞こえる。その温もりを確かめて暁は腕を上げ、『兄』の背に回した。
どちらからも、言葉が出なかった。伝えたいことならばあるような気がした。箇条書きの断片にしかならない言葉は、喉に塞き止められて、息の詰まるような切なさがあった。
辛うじて、昴が言葉を紡いだ。
「……お前が、“鍵”になる。……“使い方”は北斗に訊けばいい」
それだけを知らせて。
──だから、どうか。そう繋げようとして、その先が言えないまま、昴は口をつぐむ。
最初に伝える言葉が、最後の言葉で、いいのだろうか。
『弟』の強張る背中を抱き締めながら、昴は思った。
繋げようとした言葉は、昴にも決めかねた。
どうか、気をつけて。
どうか、元気で。幸せに。
それとも。
どうか、貴方は貴方として。
木立の奥から流れ出した黒い雲は、夕暮れにつかの間の雨を落とした。晴れ間さえ覗いた、通り雨だった。
雷はどこにも落ちた様子はなかった。
乾いた土埃が、大粒の雨滴に打たれて靄のように沸き上がり、灼けた匂いを庭にたち籠めさせて、やがてそれも風に流されていった。
* * *
夜になってから、昴は天之河の部屋を訪れた。
ドアの前で、軽くノックをしてから抑えがちに「天之河」と呼ぶと、ややあって「入って」と言葉だけが返ってきた。
呼吸一つ分、躊躇って従う。部屋に入り、後ろ手にドアを閉めながらそこに立ち止まった。
室内は薄暗かった。デスクライトだけがその周りを朧ろに浮かび上がらせて、そこから外れた家具は濃い影に蟠っていた。あれから真っ直ぐにここへ戻り、そうして自分が訪れるのを待っていたのだろうかと昴は思う。部屋の暗さが、静けさが何とはなしにいたたまれない。
窓際の安楽椅子に身を沈めた天之河が、その様子をちらりと見やって先に口を開いた。
「……さっきは悪かった」
「……別に、お前は」
「でももう、どうでもよかったんだ。MOTHERの“言いつけ”なんていうのは」
「──天之河、」
「どうでもよかった。どのみち、俺には何一つ、守れなかったんだから」
言いきって、低く笑う。その横顔は、泣き明かした顔に似ている。
「……お前だけが、間違いなんじゃない」
顔を壁際にそむけて昴が言った。
「……だけど、俺は俺としてしか生きられない。それがたとえ、“お前の見る”俺じゃなくても」
残酷なことを言っている自覚はあった。
それを間違えたのは、天之河だけではない。昴自身、取り返しのつかないかたちでそれを知って、けれど。
「……俺は、最初から俺でしかなかった。“あいつ”も。……最初から」
あたりまえの、ことだった、はずなのに。
「……お前、だって」
身じろぎ一つせずに、じっと横を向いたままの天之河に昴が歩み寄った。傍らまで来たところで微かな風が通ってカーテンが揺らめく。窓が少しだけ開いていて、その向こうに黒い夜が見えた。
昴は天之河の前に立ち、椅子の肘掛けに手をかけて、その顔を見下ろした。そうやってはじめて眼差しが向かい合い、一瞬ぶつかって天之河からそらした。
「……分かってる。分かってた、はずだよ」
昴の眼差しから堪えかねて逃げた天之河が、低く潰れそうな声を吐き出す。
そして、まばたきほどの間固く目を閉じ、落ち着けるために長く静かに息をついてから、目の前の昴に手を伸ばし、指先で触れた。
天之河の指は、触れるか触れないかの感触で昴の頬を滑り、髪をかきやった。その動きの行方を昴の視線が小さく追う。
「我が儘、言ってみただけだから。……最後に」
天之河はそれを眺めながら、強いて表情を緩めた。
昴が何かを言いかけ、唇を噛み締める。
どうすれば、何と言ってやれば天之河は救われるというのか。
「……天之河」
名を呼んで、手を差し伸べ、頭を包み込む。
彼が求める手は、“自分の”それではないけれど。
「……気をつけて。──昴」
腕のなかで、天之河が囁いた。
ただ頷き返しながら昴は思う。自分たちは、似ていたのだと。
願い方を知らなかった、互いは。
ぬるい風が促すように吹き込んで、昴は体を離した。
黙ったまま、踵を返して部屋から出てゆく昴を、天之河は見送りはしなかった。安楽椅子に身を沈め、横顔を向けたまま、ドアが開き閉まるのを聞いた。
その音を耳だけで追い、全てが静寂に戻ったその時になって、不意にこみあげてきた涙に任せた。
声を殺して。
* * *
ドアの外に出て、昴は一度立ち止まった。どうしてか泣きそうになった。
その瞬間を堪え、足早に階段へ向かう。行くところは決まっていた。
あの冷たく潜んだ裏口を抜け、裏庭に出る。
夜の裏庭は、日中に孕んだ熱気を闇に放出して、通り雨の水分を含んだ重い空気が漂い蒸し暑かった。どこから雲が流れ込んできたのか、月も星も出ていなかった。窓から漏れる明かりが、僅かに視界を照らした。
心もとない足元に気を配るような、ゆっくりとした歩みであの木の下へ進む。木立のなか、そこだけが浮かび上がって見えた。暗い夜に、黒く葉を蠢かせていた。
昴は“護身用”として辛うじてこの世界での所持が許されている二十二口径のグリップを右手に握った。
左手で支え、眼前の茂みに向かって発射する。消音加工されたそれは風を切るような短い音と軌跡をみせて茂みのなかの何かに飛び込み、葉を払う音と何かの金属が割れる音がして、けれどじきに静寂へ戻った。
自分の部屋を訪れた暁を、昴は思い出す。
そこには、“破綻”という事実があった。
* * *
夜が明ける直前の浅い眠りのなか、ドアをひそやかにノックする音に流星は目を醒ました。
こんな時間に起こしてくれた相手に、憮然としながらシーツを払い起き上がる。無視しようかとも思ったけれど、何とか思い直した。
文句なら面と向かって言えばいい。いや、一言くらい言わないと気が済まないだろう。この時間なら、もう朝になってからでもいいではないか。──そう思いながらドアをいくらか乱暴に開け、「誰?」と低く訊いて──それまで考えていた全ての愚痴が吹き飛んだ。
「──昴? どうしたのこんな時間に」
ドアの前には、昼間一緒にすごした時のままの服装で昴が佇んでいた。
「……悪い、こんな時間に」
「や、……とにかく中入って」
言いながら昴の腕を掴み、誘い入れる。
「どうしたの。眠れなかった?」
ドアを閉め、サイドボードの明かりだけに照らされていた部屋に、天井の照明を加えて。二人きりになった空間で昴の顔を覗き込む。こころもち俯いた顔。顔色は悪くない。それでも病み上がりなことを考えれば気にかかる。
手を口元にあてて考え込む素振りをみせる昴に、流星が重ねて呼び掛ける。
「昴?」
「……流星。お前が、この間言ったこと」
「……この間?」
「雪の夜に、俺に言ったことだけど」
昴が顔を上げた。
改まった様子に思わず流星は狼狽える。
雪の夜──それはすぐに思い出せた。昴に向かって言った言葉。昴が言い出すことがあるとすれば、一つだった。
──一緒に消えるくらいなら、一緒に生きよう。
そう、言ったのだ。
「うん。……憶えてるよ」
「あれが、もし本当なら」
本当だよ。──一度言葉を切った昴の、その隙間に、流星は声に出さずに返す。
昴は、次に出す言葉を躊躇っているようだった。真っ直ぐに見つめてきていた視線が覚束なく彷徨い、足元に下りてから、途中まで浮上して流星の胸元あたりで止まった。
「……昴。言っていいよ、俺なら大丈夫だから」
促す。何かは分からない。何らかの覚悟が必要なことかもしれないと、それだけは薄々勘づいていた。
──ただ、別れでさえなければよかった。
昴が、ぎこちなく顔を上げ、向き合った。
「流星、……行こう」
先刻、銃で撃ち壊して確認した。
セキュリティシステムはすでに無効化している。
監視する『目』は、ない。
* * *
「散歩には物騒な時間なんじゃないの?」
二人で裏口から外に出ると、北斗が立っていた。腕を軽く組んで。
「何事も。朝が一番はかどるらしいからな」
僅かな緊張を走らせて昴が答える。流星を手で制して。
「まだ朝じゃないって」
北斗が、やれやれといった風情で溜め息をついた。
「まあ、昼間じゃね。行き倒れるかもしれないし、ね。昴? 最近色々壊れてきてるみたいだから」
「まあな、そういう時期にきてるんだろうけど」
「ああ、お年頃っていうかね」
昴の傍らで流星が「お年頃……」と少し絶句した。それはこの際黙殺して、北斗が昴に向かい言葉を重ねる。
「──ここの、トラップは?」
昴は一瞬、考えたようだった。
あまり話し込む時間はない。可能性は低いにしても、システムがいつ復旧するかは分かったものではない。できるだけ手短かに、なおかつ全ての事実を伝えうる言葉。
事実を、伝えうる事実。それは一つだけあった。
「……暁が。会いに来た、俺の部屋に」
北斗は、すぐには返事をしなかった。彼もまた、昴と同じように言葉を探していたのかもしれない。数秒の沈黙。三人の間を、放置された後に掻き回された湯の底から熱を失った水が交ざり込むような、微かな冷気を孕んだ風が通り抜けた。
「……よかったじゃん。晴れて兄弟の対面ができて」
北斗が静かに笑い、何かを持った手を差し出す。
「餞別だよ。持っていきな」
「……北斗?」
訝しげな面持ちで昴が受け取り、それを見下ろす。手帳ほどの大きさの──端末のようなものだった。
それが何なのか気づいたらしい昴が北斗を見つめる。
「……北斗、コレ」
「何かの、役に立つといい。そう思うよ」
答えて、肩をすくめて。北斗は二人に向かって挑むように笑った。
「──行ってこい。お前らは、自由だよ」
二人の背中が黒く影になった木立に消えてゆくのを見送って、北斗は見遥かすように目を細めた。二人の踏み込んで行った木立の奥、遠くへと。
ここのところあまり寝つけずにいたのが、こういう時に幸いしたとでもいうべきか。自室で、ベッドにも入らずに煙草を灰にしていた時に、階段の方から「待って昴、忘れ物した」だの「莫迦さっさと取ってこいって……つかお前、何忘れたんだよ?」「絵本。一回読んだきりだったけど、昴から初めて貰ったモンだし」「……莫迦かお前? んなの、俺がいりゃいいだろうが」だのと、ついにこの時が来たのだと実感しながらも呆れずにはいられないやり取りが聞こえて、取り急ぎ机の引き出しから、先刻昴に渡したものだけを掴み出し、二人が部屋に戻っている間に先回りした。
間に合って、よかった。何となく溜飲の下がる思いで夜明けの近づきつつある空を眺める。東から白く褪せてきている闇は、じきに昇りだす日に染め変えられるのだろう。
昨日の通り雨に洗われたせいか、熱気に醸されるためか、空気がどことなく甘かった。
「……自由、だよ」
北斗は、彼らに言った言葉を繰り返し囁いてみる。
誰に宛てるでもなく、思いつく限りに。
そして、振り切るように裏口へ戻った。
やるべきことならば、まだ残っていた。
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