第4章第5話
* * *
静かな午後だった。
奇妙に静まり返った空に、鳥だけが羽を打ち鳴らし、どこかへ飛び立っていった。もしかしたら夕立でも来るのかもしれない。北斗を残して倉庫を後にし、一人で階段を昇りながらぼんやりとそう思う天之河の頭のなかもまた、同じように静まり返っていた。全てが飽和していた。
階段の半ばで立ち止まり、以前は何度となく足を運んだ部屋の、その隣のドアを見つめる。二つ並んだドア。その手前。
階下で不意に物音がして、誰かが一階の方にいるらしいことに気づく。こちらに向かってくるのだろうか。足音が近づいてくる。それが“流星ならいっそ都合がいい”けれどと天之河は思う。そうであれば、今は“彼”と二人ではいないことになる。この先の部屋には。
天之河はしばらく足音の行方に耳を澄まし、そうして歩を進めた。
中二階の廊下。かつて彼らが共有していた──黙殺しあっていた、その空間へ。
迷わず奥のドアへ向かい、ドアノブを捻る。閉まりきっていなかったらしいそれは、音も立てずに開いた。
飾り気のない部屋。必要最低限のものだけが工夫を凝らすでもなく邪魔にならない程度に配置されているだけのそこに“彼”がいた。
床に座り、ベッドに背を凭せて。読書でもしていたのだろうか、眠りに投げ出した手元で、本が開かれたまま伏せられているのが見えた。
天之河は何も言わず部屋のなかへ入り、歩み寄った。
無表情のまま彼の前に佇み、その、シーツに預けた寝顔を見下ろす。食い入るように。
静まり返っていたはずの外で風が騒ぎだす。
窓は幾分開いているらしい。ブラインドが何かを急かすように警鐘を鳴らすように、打ち合う音を響かせた。
「……昴」
低くひそやかに名を呼んで、天之河はゆっくりと身を屈めた。
その寝顔に顔を寄せ、口づけて、首に手を絡める。
スローモーションのように籠められた力に、昴が目を醒ました。
「……っ」
押さえた昴の喉から、引き攣れるような息が洩れる。
浅い眠りはぶつりと途切れ、そこに漂っていた平穏からはかけ離れたその現実に、昴が瞬時に目を見開き、びくりと身を竦ませたのがはっきりと見てとれた。
その一瞬の、驚愕。
目を醒まし天之河を視界に認めた昴に、呼応するように天之河の指に僅かな力が加わった。
押さえつけられた脈が、皮膚と天之河の手の間で暴れだすのを昴は戦慄のなかで実感する。頭に血が昇りだす。まだ、息は辛うじてできている。
投げ出したままになっていた昴の手が、浮きかけて、床に留まり握りしめられた。
刹那に襲いかかった諦念。
彼が殺したところで、その何が間違いだろうと昴は思う。それを止めて生きる資格があるのかと。
だって自分は“すでに殺した”のだ。
同じように、しているだけなのだ。天之河も。
いつか自分がそうしたように。
──そして、こみあげる“生”への執着。
浮かび上がる、姿。
「……あ、」
流星。──声にならない息が、昴の唇を蠢かせた。
脳裡になだれ込む流星の顔。声。
伸ばされた腕。
──“彼”も。“あの時”に、誰かを思い出したのだろうか?
「……昴」
凝然と天之河を見上げている昴に、天之河が口を開いた。低い声は微かに掠れ、震えを帯びていた。
「……言って、くれよ」
首にかかる手が、がくがくと震えている。堪えかねるように、天之河が俯いた。
「頼むから、言ってくれ。死にたくなんかないんだって──生きたいって」
俯き、落とされた肩につられるように、指がずるりと下がる。首はそれでも包まれたまま、けれど力は抜け落ちていった。詰まりかけていた肺が、堰を切って送り込まれる空気に膨れあがり、昴は顔をそむけてむせ込んだ。
天之河は顔を上げ、呆然とそれを眺めた。
「……昴……」
今にも泣き出しそうな顔で、天之河の口元が笑みに歪む。
「あいつは、どうして“生きられなかった”のかな」
「……天之河、」
「間違いで造られた、あいつが。……生きることは、“間違い”だったのかな」
昴が言葉ごと息を呑んだ。
向かい合う天之河の眼差しは失意に細められ、何も映っていなかった。
天之河は言葉を繋ぐ。返される言葉を求めない問わず語りは、懺悔でさえない。
「……じゃあ、俺があいつを愛おしいと思ったことも、──間違いだったのかな」
そんなはずはないだろう。叫びだしそうな心が、潰えた現実の前に立ち尽くす。
生きて欲しかった。生きて、そのことが幸せであって欲しかった。
“どちら”ともなく、──“彼”に。
「……でも。昴は昴なんだ」
囁いて、首にかけた手はそのままに天之河が頬を寄せた。
同じ顔で同じ形で同じ名前の彼らは、けれど違う心で違う命だった。
天之河は、流星とともにある“彼”に、そのことを知る。
それは理屈ではなく、倫理などでもなく、突きつけられる真実として。けれど“彼”は、“いない”のだ。
天之河は取り残された現実をそこに見て、けれど歩きだす未来はそこには見えない。
「……だけど憎めない」
心底苦しそうに、天之河が呻いた。
頬の触れそうなほど近くで、熱い息が昴の耳にかかる。
天之河の、片手は首にかけられたままで、もう片方の腕が無理な体勢を支えるように、あるいは昴を閉じ込めるように伸びて、ベッドにつく。
ぎし、と軋む音をスプリングがたてる。昴の肩が、シーツのふちにくい込んだ。
憎めない。──天之河が繰り返し囁いた。
自分の、生きてあるなかに巡り逢った彼らに、“そのはじめ”の忌まわしさをいっそ切り離して、幸せになって欲しい。
そう願う心と、“そこに自分はいない”現実。
天之河はいつしか、白と黒の彼らの命に、自身の存在を懸けていたことに、──そうすることで幸せになろうとしていた自分に気づく。
気づいて、それはもう潰えている。
そうして天之河は、迷い子になっている自分を自覚する。
“かつて”ではなく、“ここ”には、“何もない”。
けれど自分が求めようとした幸せは何だったのだろうと、潰えた何かに天之河は答えを求める。あてどなく。
生きることに意味をもたらさない幸せなどというものは、ない。たとえ幻影であっても。
その生の無意味を感じとった時に、にもかかわらず生きようとすることができるほど、人間という生き物は、おそらくは強くない。ある者は過去に、ある者は未来に、希望にも似た礎を求める。漂うばかりの真実を受け入れられるほどには、強くない。
それができる者は、何もかもを憎むことができてなお、憎むことまでも無意味として斥けた者だけだろう。
「……昴。お前に生きて欲しいよ。幸せに、なって欲しい」
その言葉に嘘はない。けれど。
「でも、あいつにも生きて欲しかった。あいつにも、幸せになって欲しかった。──俺は」
自分のためにも、そう願ったのだと。
こみあげる嗚咽を堪えるような浅い呼吸が、何度か天之河の肩を上下させるのが見えた。
「……天之河」
どれだけの間、そうしていたのか。昴が沈黙を破る。
けれど返せる言葉は思いつかなかった。今、口をついて出るのは謝罪の言葉くらいのものだろうと、それは昴自身にも容易に見当がついた。だが、それは天之河にとって何にもならない。彼が自覚した無意味を強調するだけだろう。
けれど、ならば何を言ってやれるのか。
窓の向こう、遠い空で風が走り抜けたらしい。僅かに開いていた窓からその片端が入り込み、天之河の背後を通りすぎた。真っ直ぐに。
そして、ドアが煽られて。ギイと音をたて、開かれる。
「……兄ちゃん……?」
その声に、天之河が、続いて昴が弾かれたようにドアへ振り返った。
* * *
階段の途中に突如見出だされた、あるはずのない曲がり角。
その先には二つのドアが並んでいた。現在は流星と昴──かつては、黒い彼と白い彼が──個室としているそこは、本来ならば暁には見られない場所、だった。
それは知らず、暁はドアの並ぶそこへ歩を進めた。
固く閉じた手前のドア。
そして、数歩先にある──僅かに開き、低く声さえ漏れてくる、奥のドア。
暁はつられるように奥のドアへ向かった。聞き覚えのある声だと思い、けれど震えを帯びたそれは低く呻くようで、今までに聞いたこともない苦しそうな声は解答を遠ざけた。
「……昴。お前に生きて欲しいよ。幸せに、なって欲しい」
ドアの前まで来て、近くなった声は天之河のものだと分かった。
普段の天之河からは想像もつかない、哀願する声音は、けれど間違いなく。そしてその内容によって、暁はドアの向こうにいるはずの存在を知った。
「……天之河」
鼓膜を震わせる、『兄』の声。
話した記憶のない、なのに知っていると“憶えて”いた、それが目の前で急速に符号を合わせてゆく。
そうだ。これは確かに『兄』の声だ。暁はそう確信して、ドアの前に立つ。はやる気持ちを抑えて、かける言葉に迷った瞬間、外で風が唸った。
ドアの向こうから、ブラインドと窓枠とが激しくぶつかりあう音が聞こえて、おそらくはその時に吹き抜けた風がドアを煽った。暁は咄嗟に身を引いて、ギイと開いてきたドアをよけた。
そうして、そのまま立ち尽くす。
「……兄ちゃん……?」
呆然と発した声に、天之河が振り返った。続いて、昴も。
『兄』の姿は、暁から半ば隠されていた。天之河の、覆い被さるような体勢が、昴を閉じ込めていた。それはそれとして、けれど。
天之河が、『兄』の首を絞めている。
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