第4章第4話

* * *



キッチンから自室に戻り、手にしたグラスに口をつけて、暁は息をついた。淹れてきたコーヒーの、氷の溶け込んだ冷ややかさが、するすると喉を降りてゆく。


自室とキッチンを行き来する間には、誰とも顔を合わさなかった。話し声さえ聞こえなかった。“靄のかかったように”静まり返った屋内に、時おり風が枝をさざめかせる音だけが微かに届いた。蝉はもう鳴いていない。あの雪の日に全滅したらしかった。遺骸が落ちているのは見かけなかったけれど、おそらくはそのはずだった。


蘇った夏に、蘇る命と。蘇らない命。


気温に対応するかタームに従うかの違い。添えない流れに消えてゆくものは今に始まったことではなく、いつにでもあった、はずだった。それは仕方ないのか。何となくそう思う。


手にしたままのグラスから結露した水が滴り、指を伝う。思い出したようにグラスを口に運び、一気に半分ほど喉に流し込んでからデスクに置いた。


そうして一人きりの部屋のなか、暁はある記憶を反芻する。


最近はずっとそうだった。そう、あの雪の夜から。




──お前、MOTHERに言われたこと、憶えてるか?




沈黙を破り、逆に問いかけてきた北斗の言葉。


それが、“どんな意味を持つか”。お前は考えたことがあるか。──そう言って、責めるように見つめてきた眼差しの峻烈さが、北斗は何かを見渡し把握していることを、はっきりと知らせていて。そこに自分が軽からぬ意味を内包していることさえ告げていた。




──……考えてしまった、そのために。何もできなかったんだ……“あいつ”は。




あいつ、と北斗が言ったのは。それは、誰のことなのか。


いっそ問いつめたかった。誰が。何があったのか。


じりじりと思考は行き詰まり、けれど今の北斗にはどことなく人を拒む雰囲気があった。“知らずにいる”暁にのみ対するものかもしれないが、元々、一人の時間を重んじるところが強く感じられるだけに、強いて歩み寄るには、何か──確かな必然性が必要な気がした。臆病かもしれないけれど。


少なくとも、北斗の問いかけに対する答えが欲しかった。彼が自分をあからさまに拒絶することはまずないにしても、このままでは体よくあしらわれるのがオチだった。


「……何、言えばいいんだよ」


北斗が待っている答えがあるのだとしたら、それは何なのか。独りごち、北斗の投げ掛けた言葉を一つずつ洗い出す。


ぼんやりと窓の外を見やると、黒い雲が木立の向こうから這うように近づいてきていた。夕立でも来るのだろうか。


最近は雷も激しい雨もなかったけれど、そういえば一時金続いていた。天之河は落ち着きなく窓の外を気にして。暗んだ空に光が迸って、一瞬の間をおいて、衝撃ともいえる音が。


──そう、“あの時”も。




北斗は言ったのだ。MOTHERとは彼女の声を一度聞いたことがあるだけだと言った暁に、俺もだよと頷いて。

“あいつら”は、知ってるのかな。──そう繋いで。




──少なくとも昴と天之河は絶対、知ってる気がする。



北斗が、初めて自分にMOTHERについて切り出してきた嵐の夜。北斗のそれは、確信だったのではないか。




……兄ちゃん?──小さく、口のなかで暁は呟いた。何かに打たれたような感覚が走った。


北斗の言う“あいつら”は間違いなく昴と天之河だろう。


じゃあ、──“あいつ”は?




知ってしまったために何もできなかったという、誰かは。


そして、“接触”の記憶を持たない、兄は。




兄ちゃん。──もう一度、暁は呟いてみた。親しいはずの言葉は、ひどく頼りなく喉から漏れた。


会わなければ。そう思う。


会って、──その声を確かめなければ。



* * *



「……どこ、だろう」


部屋を出て、一度グラスを戻しに降りた暁は、階段を改めて昇ろうとしてしばらく立ち尽くした。


考えてみれば、話した記憶のない“兄”の、その部屋を訪れた記憶だとてない。


おかしな話だった。なぜ、今まで何の疑念もなくすごしていたのか。考え出すほどに不思議な事実ではあった。


とにかく、この家の間取りを思い出す。一階はリビングとキッチンに浴室、共同の場だ。個室にできるような場所はない。


そして、二階は北斗と天之河と、自分の部屋がある。その上に小さな屋根裏部屋が一つ、ちょうど北斗の部屋の真上に。


「……え?」


それで、思いつく部屋はおしまいだった。


でもそうしたら、兄の部屋はどこにあるのだろう? 仮に屋根裏部屋だとして、なら流星の部屋は。


地下室はないはずだった。それ以前に地下室を個室に充てること自体おかしいだろう。個室は全て二階に集まっているはずだった。離れにあるのは古ぼけた倉庫だけだ。忘れられた物置にしかなっていない。


おかしい。──口のなかで呟きながら、とにかく階段を昇りだした暁は、その途中で再び呟くことになる。




「……何だよ、これ……?」




二階へ続く階段の、ちょうど中ほど。


踊り場のような僅かなスペースの、向こう側。


そこに、忽然として姿を現した、それは。




「……何で、廊下があるんだよ」




階段とは直角にそれて、その奥に続く、細い廊下が目の前に伸びていた。呆然と見つめる暁の視界に、こころもち小さめのドアが二つ、並んでいるのが見えた。








それは、カラクリがきたした破綻だった。


暁にとっては見たことのないその部屋は、昴と流星の──かつて、“白と黒の彼ら”が分け合い黙殺しあっていた、空間だった。




* * *



「……どうして、“彼”はここに送られたんだろう?」


足元に黒ずんだ染みを残す血痕を見下ろして、北斗は口を開いた。


「せめて、一緒じゃなければ。そう思う。……でも、それを言えば……疑問が多すぎる。そもそもどうして俺たちは“ここ”に送られてきたのか」


「……北斗。お前、……両親の記憶あるか?」


「……両親?」


「そう。MOTHERとかじゃなく。俺が憶えてるのは、まだ子どもの頃のことだけなんだけど」


天之河が、記憶を手繰り寄せるように目を細めた。暗がりのなか、それは北斗の目には見てとれない。


両親の記憶は、北斗にとってはひどく朧ろげだった。まだ、ごく小さいうちに離された面影。


少しなら。──怪訝そうに北斗が答える。


「そっか。……他のやつらが、どこまで憶えてるかは分からないけど」


言いながら、天之河がノートを手にして立ち上がった。北斗もつられて立ち上がる。


「……北斗。“あいつ”は知ってたよ」


そう言って。僅かに唇を歪め、笑う。


「……あいつ?」


半ば呆然とした北斗に、天之河は歪めたままの笑いを返す。




「コレ、な。俺は一度読んだきりだったけど、“あいつ”にとっては愛読書だったよ」


手にしたノートを、じっと見下ろして。北斗に手渡す。


殊更な皮肉は、北斗には理解できないままそれでも何か伝わったらしい。


押し黙り、喉に詰まる疑問符を表情に見せたまま、北斗は差し出されたそれを見つめていた。天之河はそれを一瞥するなり、北斗の横をすり抜けてこの場から立ち去った。北斗が疑問を押し出す前に。




……“彼”は、一体何の拍子でそれを見つけたのか。カーテンのかかるあの窓の傍らに置かれた安楽椅子に身を沈め、黙ったまま、それを読んでいた。その姿を見つけた時、破滅の予感に言葉を失った天之河に、けれど彼は何も言わなかった。


そうして、いつか笑ったのだ。


天之河は、殺さない。そう言って。


自虐とか皮肉などでなく、おそらくは無心に信じていた。


自身の全ての忌まわしさから、それでも解き放つ心を。



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