第4章第3話

* * *



「たまにはいいもんだね、朝の散歩ってのも」


流星が昴に向かって振り返り、軽く伸びをしながら笑いかけた。


何かこう、健康的だよな。──そう相槌をうちながら昴は空を見上げる。まだ熱しきっていない、早朝の白い日射しはただ眩しくて、演じるかのようなその穏やかさが、どうしてか優しく感じられた。




目を醒ましたのは明け方だった。胸苦しさのない軽い目覚めに、昴は熱が下がっていることを自覚して──そうして、ベッドとは向かい側にある小型のソファで窮屈そうに眠りこんでいる流星を見つけた。そういえば、熱のある間、目を醒ませば必ずといっていいほど流星は枕元にいたのだ。ずっと、つききりでいたのだろうか。


「……流星?」


肘をついて半身を起こし、そっと声をかける。浅い眠りだったのだろう、何度か目をしばたかせながら、それでもすぐに流星は目を醒ました。


「……あ。昴、起きたの」


具合はどう?──ソファからはみ出していた足を、そのまま床に降ろし、ベッドに歩み寄って昴の顔色をうかがう。手を伸ばし、前髪に隠れる額に触れて。


「よかった。熱下がったんだ」


嬉しそうに流星が笑った。


「……ていうか、お前。ずっとついてたのか」


起き抜けの、まだうまく出ない声を押し出す。額にかかっていた流星の手のひらが、滑りだし頭を撫でるのはそのままにさせて。


「だって心配だったし」


「それで今度はお前が熱でも出したらどうすんだって」


「いいよ。出してないじゃん」


「……結果論じゃねえか」


「結果オーライだろ。あ、喉渇いてない?」


昴の素直とは縁遠い反駁には慣れているのか、それとも調子の戻ったのが単純に嬉しいのか。おそらくは両方を交えて、まるで気にも留めない口調で言い返す流星に、珍しく昴の方が返す言葉を失った。


「……渇いた。少し」


渋々と頷く。


「じゃあ、ちょっと待ってて」


言いながら流星が身を屈める。昴の後頭部に手を回して引き寄せ、額に口づけた。汗ばんだままの髪や額に触れさせるのもどうかと思ったが、潔癖がちな流星にしては意外にも特に気にかけている様子はなかった。


微かな感触を残し、唇が離れる。


「……ありがとな」


背を向けてドアに向かおうとした背中に、ぽつりと昴が呟いた。


「どういたしまして」


振り返り、流星が笑った。




一人になった静けさのなかで昴は窓の外を見やった。紫だった暁の空に、逆光に黒く照らされた鳥の影が飛び込んで遠ざかる。目立つほどの雲はなかった。今日も暑くなるのだろう。


プログラミングされた『晴れやかな朝』は、“外”はどれだけ美しいだろうと、囁きかける。






「でも昴、よく来てるよな? 裏庭」


部屋やリビングにいない時でも、探せば大抵ここにいるじゃん。──目の上に伸びている枝を摘まみながら、流星が言う。


あの雪で、だいぶ葉の落ちてしまった枝は、それでも息を吹き返したらしかった。枯れたような木立に、黴とも錆ともつかないような何かが吹き出して、やがてそれを割って小さな芽が盛り上がり、日を追ううちに膨らんで緑へと姿を変えていった。ずっと昔、震災で燃え尽きたという街の緑も、似たような蘇り方をしたらしい。


「……そんな、来てるかな」


答えにくかった。流星には話していない、きっとこれからも話すことはないような事実は、数えあげれば、おそらくかなりあった。隠すというよりは、話す必要を感じていなかった。たとえ言い訳にとられても、それでも今に満たされていた。


「多分ね。……あ、昴! 花咲いてるよ、ここ」


屈託なく流星が声を上げ、昴に向かって手招きをした。引き寄せられた枝に、小さな白い花が見えた。


「気温に反応する種類もあるからな」


そうなんだ、生命力ってすごいよな、今年はもう枯れてるのかと思ったけど、季節外れになっても咲く花ってあるんだ。──感動した様子で、傍らに並んだ昴に話し続ける流星の横顔に、昴はしばらく見入る。それから、改めて枝先を眺めた。


息を吹き返した花は、ひそやかに、白かった。あの雪を思わせる白さで、熱を孕みだした日射しを受けながら、誇張なしに無心に咲いていた。


不意に流星が枝から手を離し、昴を真っ直ぐに見つめた。


「昴。……キスしていい?」


「……いきなり何言いだすんだかな」


「だって何か、嬉しいから」


理由になっていそうで脈絡はない流星の言葉に、「しょうがねえな」と昴は苦笑する。拒むつもりはない。


そんなのいちいち訊くコトでもねえだろ。──言い返しながら昴はついと手を伸ばし、流星の腕に触れた。




触れ合う直前。まだ清冽さを残す朝方の風が通って、昴の髪が流星の頬を掠めた。流星はそれを宥めるような手つきでかきやり、白い頬をおし包んで引き寄せた。






二階の窓で、微かにカーテンが揺れた。


その室内では時間柄か、明かりは灯されていないらしく、外からはおそらく二人が見上げたとしても何も窺えない影だけが僅かに覗いていた。




天之河は、ひどくぼんやりとした眼差しで窓の外を見下ろし、風の抜けた後に、ゆっくりと俯いた。落とした視線の先に、古びて表紙の褪色したノートが映った。


それは、“黒い彼”が全てを奪われる以前、天之河が一度だけ手にしたことのあるものだった。手にして、けれど過去として処理していた、“全ての事実”が遺されていた。


目を醒ましたのが早すぎたせいか、頭の芯がぼやけている、それをこめかみに指先をあてて遣り過ごす。


……分かっていた、はずだ。


声にならない一言を、喉の浅瀬に留めて、カーテンを閉めきった。




会いたい。


どうしようもなく、会いたいと思った。


あまりにも鮮やかに、願いだけを残して喪われたものは、あてどない叫びさえ塞いで。確かにあったと言う術もない朧ろげな希望までをも鮮やかに灼きなおす。



* * *



薄暗がりに戻った室内で、どれだけの間そうして天之河は立ち尽くしていたのか。


時間的な感覚はなかった。いつしか、カーテン越しにも熱をじりじりとあてつけだした時間の経過を、半ば茫然と受けとめていた。


踵を反し、外へ続く廊下に出たのは、その熱に煩わしさを感じたためかもしれない。あるいは、飽和した渇望が唆したのかも、しれない。どちらでも構わなかった。


今さら、そこへ行ったところで、あるのは喪われた現実だけだろう。──それさえも、分かっては、いた。にもかかわらず自分は何が見たいというのか。それだけは分からなかった。


くだらない自虐だと思い、甲斐もない追憶だとも思う。


それでも、会いたいという願いだけが、通り過ぎた何かの残像にも似た掴みどころのなさで頭を占める。


ノートを手にして、けれど開くことのできないまま、天之河は歩きだした。道なりに進んで行くしかないマウスのような、あるいは迷い子のような、たどたどしい歩みで。




埃じみた、冷たい匂いのする裏廊下を通り抜け、昇りつめた日の照りつける外へ出る。昴と流星はすでに室内へ戻ったのか、裏庭に二人の姿はなかった。


天之河は、朝に二人が佇んでいた木の下を、故意に歩調を変えることなく横切った。白昼という言葉が相応しいような、白すぎる日射しは目眩を思わせるようで、その先には煤けたコンクリートの壁が剥き出しになっている倉庫がある。




全てから隔絶された、世界。




なぜ、“彼”はここに送られなければならなかったのだろう?


どうして、生きる彼がゆるされることのなかった世界で、彼が鎖されていなければならなかったのか。




棚があるわけでも配置を考慮されているでもなく、無造作に放り込まれた本の束や機械類が、じっとりとした埃に侵食されている。それが、今になって訝しいほど足元を掬う。ふらついた天之河は、咄嗟に煤でざらつく壁に手をあてて身を支えた。明かりらしいものは、最初からここにはなかった。今となっては、必要を感じる必要さえない。今さらだ。




──何で笑えるの。




いつか、自分が彼に訊いた言葉を天之河は思い出す。


まだ、彼があの育ちきった緑の世界にいた頃。


彼はいつまでも変わらずに、天之河に笑いかけていた。何が彼にそれだけの強さを与えているのか、理解できなかった。いつ自分に手をかけて殺すかもしれない相手に、どうして。




──何でって?




彼は、何を言うんだといわんばかりに問い返し、向き合って。


そうして、笑う。


「だって、天之河は殺さないのに」


そんなこと、絶対しないのに。


そう言いきって。




「……っ」


開け放されたままになっていた小さなドアの手前で、何かに躓いて天之河は膝をついた。同時に床についた手のひらに、じわりと痺れが伝わり、それを握り締める。わけもなく指が震えていた。


やっぱり明かりは必要だったかな。ぼんやりと考える頭は靄のかかったようで、思考は巡るそばからすり抜けていった。遠く近く事実だけを取り巻いてさざめき、静まり返っていた。外は真夏なのに、ここは残酷なほど寒かった。




そうして、どうしようもない震えを、何かを握り締めることで抑えようとするかのように、固く力を籠めた拳が、倉庫の闇よりも黒い何かに、触れた。


急激に、体中の何かがざわめく。薄く開いた唇から、浅い息が洩れた。病んだ者のような、掠れた息だった。




“彼”、の。それは、血痕だった。




黒ずんだ褐色のそれは、天之河に、ありもしない記憶を呼び起こさせる。


ごぽごぽと、溢れだし流れてゆく血。コンクリートの上に盛り上がり染み込んでゆく血の湖。


やけに赤いそれが、やがて黒く死を示し、そして眠りに落とされた空間のなか、ひっそりと、確実に時とともに色褪せてゆく。赤から黒ずんだ褐色に変色した染みは、やがてくすんだ緑を経て黄ばんだ体液の色に。最後には、灰色の影に。




全ての光から、遠ざけられた世界で。




めまぐるしく廻り続ける思考から逃れるように、天之河は目を閉じ、天井を仰いで開いた。何も見えなかった。ただ、鎖された壁だけが分かった。目を凝らし見上げているうち、思い出したように体にぞっと震えが走った。




来なければよかったのだろうか。そうすれば、今自分の立つ足場に迷うことも、取り返しようのない現実を悔やむこともなかったのか。


ぶつぶつと騒ぐだけの胸の奥で、天之河は相反する答えを知る。


「……昴……!」


今はただ、過去の幸福に迷いたかった。


迷い果てて、思うさま現実を悔やみたかった。




外は今日もいい天気だった。


あの雪に、一度は散った葉も息を吹き返し、気候としては真夏の空の下で、幾分淡い緑を日に透かして。


眩しいほどに。




涙さえ出ないまま、天之河は今朝の光景を思い出す。


明るい世界。日射し。逆光を浴びて飛び立つ鳥の影。


緑の世界で、並ぶ二人の姿。


まるで、いつか自分に見た姿のようなそれは、けれど、“それさえも”現実なのだ。




──だって、天之河は殺さないのに。




口ずさむように言いきった彼の言葉に、押し出せない声が、今になって応える。いつか呟いた言葉を添えて。




殺さなければ、それで貴方は救われたのか。


殺さなかった自分は、その実、“何もできなかった”だけだ。




涙は出なかった。嗚咽さえ漏れることはなかった。


もう何も届かない。


迷っても悔やんでも叫んでも、“そこ”には何もない。






「……天之河、君」


不意をついて、背後から声をかけられた。


突然のことに、天之河はびくりと肩を揺らし、振り返る。近づく足音は聞こえていなかった。


「……あ」






見開いた天之河の目が、緊張を孕んで声の主をとらえ、そして僅かに弛緩する。


「ごめん、……邪魔した?」


「……や、別に」


俺もすぐ出るとこだったし。──言いながら、そうだと自分に言い聞かせる。ここにいても、もう仕方がないだろうと。


「そう。……読書するには、暗すぎない?」


天之河の手元に落ちていたノートに目を留めたらしい北斗が、言いながら隣に膝を折った。



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