第4章第2話

* * *



今日も、どうやらいい天気だ。


システムの流れとしては、そろそろ残暑の頃だろうか。にもかかわらず──相変わらずというべきか、真夏の日射しが照りつけているものの、さすがに雪の降りだす気配はなくて、北斗は一応妥協する。精巧さを望むような期待なら、とうに捨て去っていた。


他の四人も、それについては取り立てて騒ぐこともなかった。あの雪の日以来、世界は奇妙な静穏にあった。


破綻をきたした世界に対する──それは、嵐の前の静けさとも助走から跳躍へ切り替わる一瞬の機会をうかがっているとも、とれた。


そう、落ち着いたのではない。北斗は現実をそう認める。




白い彼──昴は、何かを決定的に変えた。


あの雪の後、彼の部屋を訪れた時、彼は熱を出して寝込んでいて、どうしたんだと訊くと「雪に埋もれてみた」──そんな呆れる答えを返してきた。


「何だってそんなコトしたのさ」


ベッドの端に腰かけて見下ろす。傍らで付き添っていた流星が幾分煩わしげな表情をみせたけれど、昴本人は構わないようだったので、それは無視した。


「……何となく」


「それで寝込んでちゃ世話ないよ」


それとも何、寝込みたかったの。──遠慮のない口をきくと、僅かに昴が顔をしかめて口元に手をあてた。まさか図星だったんじゃないだろうな。北斗はそう思いながら、昴の視線が少し彷徨うのを眺める。


「……流星。ちょっと、席外してて」


ややあって、昴が一歩下がった場所で気遣わしげに見ていた流星に視線と声を投げた。


「……いい、けど。何かあったら、すぐ呼べよ?」


躊躇いがちに答える声には明らかに不満が滲み出ていて、北斗には──この世界にあっては、新鮮でさえあった。皮肉ではなく、単純な感慨だった。


「うん。……呼ぶから」


素直に返す昴の声音を、まるで睦言のような甘さだと、それにも北斗は感嘆を覚えながら流星の背中を見送った。昴も頭をこころもち枕から上げて見送る。その眼差しは、どこか和らいでみえた。


そういえば、流星はいつの間に平静を取り戻したのだろう。昨夜のうちに、二人の間に何かがあったことはたやすく想像がつくけれど、そのプロセスは知りようがない。


それでも、今の様子を見たところでは、彼らなりに由々しからぬ結論を出したのだろう。北斗はそう看做し、安堵する。彼らは、大丈夫だ。


そうして改めて向かい合った北斗に、昴が切り出した。




「同じ顔の人間って見たコトある?」




何を言わんとしているのか、瞬時には分かりかねた。


「……昴?」


同じ顔。咄嗟に白と黒の彼らが浮かんで、けれど北斗自身の身には、あるはずがなかった。彼らと同じほどの“初期”に送り込まれた、この世界が今までの半分近くを占めていた。


「“世界”には自分と同じ顔をした人間が、あと二人いるんだって。……同じ顔の人間が、三人っていうのかな」


何かで読んだ話だろうか。北斗はそう察する。


昴は熱があるとは思えないような静かな表情をしていた。こういう時は、大抵その静けさのなかに剣呑な何かを孕んでいる。


「……でも、会ったらいけないんだ」


意想に反さず、昴は呟く。


「……何で? 面白そうだけど」


アナタは、会ったことになるのかな。少なくとも、一人に。──それは言わずに、話だけを受ける。


“彼”は。世界にとって、その三人というカウントのうちの『一人』だったのだろうか。その答えは知る術もない。


昴は、微かに笑ったようだった。


「……同じ顔の人間が、三人集まった時、潰し合いになるから。誰かが、死ぬまで」


それは、きっと凄惨な真実だ。


北斗はやるせなさにも似たもどかしさを覚える。その、自嘲に。昴自身がそれを自覚しているのかは分からない。聡明な彼のことだから、知ったうえで笑うのかもしれない。だとしたらそれは閉鎖的な泥沼だと北斗は思い、流星がこの話から外された理由に気づく。


自責という、繕われるべき過去から、解かれる存在に。


「……だから、知らないままでいないと、いけないんだって」


昴は言葉を閉じ、目を閉じた。






押し黙っている北斗に対して、こんな自虐的な言葉を投げかける自分に靄がかかるような嫌悪を感じながら、昴はぼんやりと記憶を手繰り寄せる。


……あれは、いつのことだろう? 同じ顔、同じ形、同じ名前で──目の前で、笑う“彼”。


幸せそうに。


全てのしがらみから、自らを解き放つように。


それを目の当たりにした、あの衝撃は、憤りに近いものだった。


自分が、望むことさえ諦めている幸せを、自覚せずに甘受している──その笑顔に対する。




いつか“自分の複製に自分が喰われる”、憤りという恐怖。




けれど、彼は彼でしかなかった。


同じ顔、同じ形、同じ名前で、それでも“彼は彼だった”。


自分のなかの何かを潰したつもりで、けれど自分が潰したのは自分では、なかった。






しばらく続く沈黙に、北斗は俯きがちで細めていた目を伏せた。窓の向こう、遠くで風が鳴っているのが聞こえた。


瞼の裏に、埋葬の日の天之河と“彼”が浮かんで消えない。


墓を見下ろす天之河の横顔と、埋められる前、蒼ざめて固く目を閉じた“彼”の、何一つ映さなくなった、その顔が。




「……俺には、何もできなかった。最後まで」


呟いた天之河の、その声の低さが。


北斗は知らず唇を噛み締めていた。食い込む歯先の、ジリジリとした痛みに我にかえり、ようやく目を開けた。茫洋と自分を見上げている昴の眼差しが見えた。


「……ねえ、昴」


言葉を、探しながら。北斗は手を伸ばし、昴の頬に触れた。頬も、手を掠めた息も熱かった。


「俺はずっと見てきたから。ずっと、今まで……見ていたから」


語り出される言葉に、昴が目を見開いた。問いかけるように唇が僅かに開き、けれど声は出なかった。


北斗はそれを見下ろし、昴の汗を含んだ前髪をかきあげた。そうして触れているうちに、伝えられる言葉が浮上するのを待った。




「……アンタはアンタで、いいじゃないか」




それが、救いなのかは分からない。


けれど、責める心はなかった。


それだけは伝わって欲しかった。




北斗がお大事にと言いながら部屋を出ると、流星がドアの正面、階段の手すりに凭れながら立っていた。ドアの開く音に、弾かれたように顔を上げる様子は、話を聞いていたわけでもなさそうだった。妙に律儀だと、感心しながら北斗は歩み寄った。


「……話、済んだから」


「……入っていいのかな」


「何言ってんだ」


北斗は思わず切り返す。律儀にも程があるだろう。


「じゃあ俺がもう一度入るけど。看病にでも」


心にもないことを言うと、流星は真に受けたらしく「いや、いいから」と慌てて遮った。


「ああそう、……じゃあ、よろしく」


「──あのさ、北斗」


あっさりと踵を返そうとする北斗を、流星の方から呼び止める。北斗が向き直ると口籠もり、それから早口で「ありがとう」と言った。


意外な言葉だった。瞬間、北斗は驚く。だが、それは波の引くように紛れてゆき、面映ゆい余韻を残した。


北斗は「何言ってるんだか分からないよ」と言って笑った。そこに、ぎこちなさはなかった。


俺も、と流星もはにかむように笑う。けれど互いに、どこか分かっているような気がした。




* * *



昴の熱は、その二日後には下がった。北斗はもしかしたら知恵熱の類いででもあったのかもしれないと受け止めていた。考える時にはとことん考える気性だから、それはそれで頷けた。


狂いだした世界での日射しは相変わらず、時おり唸る風も相変わらずで、一日をいたずらにリピートするような、壊れて歯止めのきかなくなったオルゴールの奏でるヒステリックな音楽のような、何かから放逐された感もあった。






それでも。


時は、流れているのだ。


人は、その流れから外されようもない。生きている限り。



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