第4章第1話

『Sacrifice for NOBODY』






* * *



あが君 なをし給ひそ


たまさか この世の生に宿りて


いかでか依りてや


いまにながらふ




あが君 な呼ばひ給ひそ


ぬかをつきて待ちたるここち


さまで あさましけるかな


ただ朝に夕は知らず


ことわりなりと




あが君


災ひなるか 災ひなるか


今こそは 三界喰らいあふ


災ひたらんか


な哭き給ひそ あが君や



* * *









『眠る椅子をひとつだけ


 置けるあの場所さえ


 通りすぎて』




『まっすぐお帰りなさい』








* * *



近づく夜明けに、窓の外が囀りだした。


漂うばかりの浅い眠りのなか、暁は、歌うような囁きを聴く。


歩み寄る白い朝。


佇む白い世界。


眠りに解けあう記憶は、耳鳴りの果ての静けさにも似て。




暁は最後の夢を見つめる。水槽の唄。


絶え間なく沸き返り消えてゆく気泡が、ささやかに彼女の声を包む。




彼女の、唄が聴こえる。


問わず語りの音楽が、世界を染めつけてゆく。






それは、朝という白い終焉の唄。












* * *



……それは、誰の記憶なのか。


育ちきった緑の世界。木立の奥、遠くに続く道を、静かに踏み分けて。


はやる心を抑えて。ざわめく心臓のなかで、奔流と化した血が、ぶつぶつと沸き立つのを、抑えて。




少女が、恋人と寄り添っていた。


彼女には両親がいなかった。すでに他界していた。


家族といえば、研究室に籠もりきりの“兄”一人だった。


それは、仕方ない。彼女はそう思う。寂しいけれど、物心つく前に失われた両親の命は還らない。“兄”だって、──今は大変だから仕方ないのだ。国に任されたという研究は、詳しく理解できるほどの知識がないから、よくは分からないけれど、でも責任は重大なのだろう。


──そう、それは仕方ない。だから彼女は、そんなことでは今さら悩まない。




「あたし、怖い」


細く震えそうな息をつきながら少女は呟いた。


「最近、兄さんが怖いの」




仕方ない。──そう言えるだけの理由をもたない、恐怖。


向き合う恋人に、戸惑いがみえた。


どうしたんだよ、何があったのか?──押し出す声のぎこちなさを繕うように、彼は少女の髪に触れる。できる限り優しく。


促された少女は、それが問い質すものではないと知りながら、けれど繕えない不安を吐息に混ぜる。


「……怒ったり、するとかじゃなくて……何て言えばいいんだろう? どうしてかな、あたし変なのかな。怖いの」


胸元をおさえていた少女の手が、彼の腕に伸ばしかけられながら躊躇いのうちに離れてゆき、その伸ばしかねた手で、少女は自身の口元を覆う。


「……頭から、食べられそうな。変な怖さが、ずっと」


どうしたらいいのかな?……怖い。


足元に落ちた眼差しは、最後の言葉に影を落とし、彼は言葉に詰まった。


彼──恋人は、少女よりも僅かに年上なくらいだろうか。まだ十代の後半にみえた。


最近、彼女からは会うたびにその不安を聞かされていた。かといって、どうしたらいいのかも分からなかった。最初のうちは、その不穏な言葉に対して常識的に諌めてはいたけれど、この二人の関係を彼女の兄が認めていないことも何となく知っていた。


「昨夜、兄さんがあたしの部屋に来たの。あたしはもう、ベッドに入ってたんだけど、壁の方に向いてたから、まだ起きてるのには兄さん気づいてなかったみたいで」


彼女の肩が、一瞬震えた。彼は咄嗟に手を伸ばし、その肩を包んだ。手のひらが余るほどに華奢な、少女の肩。


「『お前は、この世界の母になるんだ』って。これ、どういう意味なのかな。……何か、怖いよ」


彼にも見当がつかなかった。彼にとって彼女は、今向き合っているその“彼女”以外の何者でもなかった。


たとえ彼女の“女性らしさ”に母性的なものを感じても、そのために、さらに惹かれることがあっても。それは、一人の女性としてだ。


「あの、さ。……よく分からないけど、お兄さん、研究が最終段階にきてるんだろ。……疲れてるんだよ」


最近、めったに休みも取れてないんだろ?──訊きながら、抱き寄せた肩をあやすように軽く叩いた。


「お前も。それが、兄妹だから……一緒に暮らしてるうちに伝染ったりとかさ」


うまい表現だとは、言った本人も思わなかった。けれど他に思いつく解釈もなかった。何かが言い足りていない実感に歯噛みしながら、彼はことさらめいて語調を変えた。


「今度、どこか行こうか。遠くは無理だけど、二人で旅行ってしたことないじゃん」


「……本当? どこがいいかな」


少女が、その提案に強いて自分を宥め、明るい表情をみせる。それを見て、彼がほっとしたように笑った。


「俺はどこでもいいよ。お前の行きたいところなら楽しい」


お前と一緒ならいい。──そう言って、少女の体を抱き締めた。






少女は自宅から少し離れたところで彼と別れ、それから玄関の前に立ち止まり、息をつく。彼と会った日は、どうして分かるのか、兄は機嫌が悪かった。少女は、盗聴器の存在に気づいていない。


思いきって、ドアを開ける。


ちょうど、階段を降りてくる兄と行きあった。


少女は反射的に身をすくませ、それを隠しながら「ただいま」とだけ言った。それに対し、兄は意想外に上機嫌だった。


「おかえり。そろそろ食事の支度ができるらしいから、早く着替えておいで」


食事は寡黙なハウスメイドが用意していた。笑いながら伝える様子に、どうしてだろうと不思議に思いながらも、少女は単純に安堵する。


「うん。兄さんどうしたの? いいことあった?」


無邪気に訊いてみると、兄は晴々と笑った。


「研究が、完成するんだよ。やっと」


おめでとう、よかったね、ずっと頑張ってたもんね。──言いながら、少女は先刻の彼との会話を反芻する。そうだ、兄はきっと疲れていたのだ。きっと大丈夫。


それに、約束したのだ。今度、二人で日帰りの旅行に行く約束。兄はそう簡単には承諾してくれないだろうけど、諦めずに頼もう。


そうしたら、どこがいいだろう?


住んでいるところが森のなかの別荘みたいな場所だから、海の見えるところがいい。少女趣味だと笑われるかもしれないけど、やっぱり憧れる。


泳ぐにはまだ早いだろうか。………………………………………………………………………………………………






軽い音をたてて階段を駆け昇る妹の姿を、兄はじっと見ていた。


その背中が、一度も振り返ることなく、一階と二階の間、中二階にある彼女の自室のドアの向こうに消えるまで。




消えてからも、残像を追うように、しばらく。






彼は、そして笑う。心から晴々と。



「完成するんだ。君は母になる」











ふと、彼は“家”の外に耳を澄ませる。


外には、いつの間にか夕立がきていた。


雷も落ちているのだろう。時おり重い衝撃が音として響く。




──『あな恐ろしきかな かみの轟と叫べり』



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