第3章第5話

* * *



翌朝は、前日の吹雪が信じられないほどに晴れ渡っていた。


晴れている、という表現では生温いような、きつい日射し。それは、間違いなく“真夏”のそれだった。


「……どういう、ことだよ……」


自室の窓から洩れる明るい光は雪による照り返しだとばかり思い、確かめずに裏庭に出た暁は、その空と陽気に呆然と呟いた。


昨夜冬物を出し忘れて正解だったかもしれない。でもどうなるか分かったものじゃない。その日ごとに季節が違うなら。そんな、我ながら得体のしれなくなってくることを思い巡らせ、ぎらついた空を仰ぐ。


高く青い、空。


ご丁寧に入道雲までわき出しているのを、神憑りにでも遭ったかのような奇妙さでしばらく見上げて、目を閉じた。


瞼に、灼熱の残像が赤く暝く、またたく。


北斗はどうしているのだろう。今朝はまだ姿を見ていない。天之河君は多分昼近くまで起きてはこないだろうし、あとの二人は──分からない。


覚束ない思考が、暑さによって溶けるように流れ出す。


……一体、何がどうなっているのか。


分からないのは、自分だけなのか。何となく、そんな気がした。分かろうとしてこなかったせいなのか。彼らは、自分以外の四人は、少なくとも何かしらは知っているように思えた。そうして、この“異常”に、何らかの展開か帰結を感じているようにも思えた。なぜかは説明できない、直感だった。




──お前、MOTHERに言われたこと、憶えてるか?




昨夜の、北斗の言葉。




──それが、どんな意味を持つか。お前は考えたことがあるか?




憶えている。MOTHERに言われたこと。


あれが、全てに繋がっているとは今までに考えたこともなかった。けれど。




他の四人が、みている“何か”は、もしかしたら。




「……“止めて”、って……」




何を? この“異常”をか? どうやって?


自分に、彼女は、何を課した?




「……分かんねえよ」




声に出したのは、押し寄せる不安のせいだ。


誰にも会わずに裏庭へ出て、一人で立ち尽くす自分に、答える声はない。当然だった。


おそらくだが、そんな自分を、北斗は詰っているのではないか。


自分が知っているはずの“何か”を、いまだに彼らのみる“何か”に繋げられずにいる、そのこと自体を。


だったら、教えてくれたっていいだろう。声には出さずに毒づいてみても、虚しいだけだった。


「……雪掻き、必要ないかな」


代わりに呟く。夜のうちに積もったはずの雪は、すでにあらかた溶けてしまっていて、日陰に僅かな痕跡を残しているのみだった。急激に降った雪は急激に溶けた分、芝に水分を過剰に含ませて歩きにくかった。昨日の天気を知らない人間に、昨夜は台風が通ったんだと告げれば、きっと信じ込むに違いない。


目の前では、吹雪に傷めつけられた木々が雪とともに葉まで落としたらしく、無惨なさまを晒していた。


この木は、また芽を出すんだろうか。秋までの間に。


目先の枝を摘まみ、引き寄せてみる。




その時、不意に強い風が吹いた。




空が叫ぶ。


枝に辛うじてしがみついていた葉が、吹き散らされてゆく。


目の前をそのうちの一枚後よぎった。視線がその葉に向けられる。飛んでゆく、その向こうに。




木立が細く遠く道を開く、その奥に。




暁はつられるように歩き出した。


どうせ、することは思いついていないのだから。──誰にでもなく誰かに、そう嘯いて。




後に続く足音は、熱を孕む風に吹き消された。



* * *



「……うわっ」


すり抜けようとした枝が、拒むようにしなって頬を打つ。そこは、裏庭から眺めて想像した以上に険しい道だった。足元の土がぬかるんで靴を重くさせたり滑らせるうえに、張り出した木々の根がつま先を掬う。


散歩、にしてはきついものがある。


けれど、だからといって戻るのも癪だった。せっかくなのだから、せめて散歩にふさわしい景色の一つも見てから戻りたい。


そう思い、半ば意地になって進む。


葉が落とされた分、日射しはダイレクトに照りつけているのかもしれない。汗がひっきりなしに頬や背を伝い落ちた。


両極端にも程がある。あてもない苦情を、独り言にしながら、ふと枯れた草影に残る雪を見つけて手に取ってみた。


今日になってみれば心地よい冷たさのそれを上気した頬にあててみる。火照りを宥める冷ややかさに、息をついて辺りを見回した。ひたすら歩いてばかりいて、景色なんて探すと躍起になるばかりで結局身近なものを見てもいなかったことに、その時になってようやく気づき、苦笑する。


「……あれ?」


少し先に、設えられたような空間があった。




さして高くない木々が、周りを守るように見下ろすように取り囲んでいる。


そこは、小さく、けれどはっきりと土が人為的に盛り上がりをみせていた。そうしてその上に、何かが置いてあった。目を凝らしながら近づくと、それは雪に萎れた花束だった。


野草の類いではない。庭に育てられ愛でられるべき類いの切り花が、茎を長くした形で束ねられ、盛り上がりに立て掛けるように添えられている。




「……何かの、墓、とか?」




他に思いつかなかった。


誰が、何を弔うためにそれを作ったのか。それは知りようもなかった。その下に、“何が”眠るのかも。


そうして、墓碑もないそれは、何も知らしめず静かだった。




暁は黙ったまま、しばらくの間それを見下ろしていた。時おり風が通り抜け、雪を耐え抜いた枝葉を震わせる。鳥が、枝を蹴り羽ばたいてゆく。


そこには、何もなかった。求めることさえない静けさで、満たされているような気がした。そう思うと、目の前で萎れている花束が、それを供えた誰かの、その時の心情をそれとなく著してさえいる気がしてきて、妙に切なくなった。


辺りを見渡す。供えられそうな花は咲いていない。夏の花は昨夜の雪で駄目になったのかもしれない。


それを、少し惜しいと思いながら、──その場に膝を折り目を閉じて黙祷した。




誰のことを思うでも悼むでもなかった。


静謐な空気に対して、祈っただけだった。祈りの真似事かもしれない。


それは、“そのもの”の神聖化だった。




そのなかで、何かに諭されるように、思考の深みに至ってゆく。


会話した記憶さえない“兄”と、自分は本当に何も話したことはなかったのだろうか。


それは、彼らがみている“何か”と、何かしらの係わりを持っていて。だとしたら、北斗はそのことを言おうとしていたと、考えられないか。




“異常”にささくれだっていた感情は、いつしか凪いでいた。


そのせいかもしれない。それを期に、暁は何度となく、そこに足を向けるようになってゆく。



* * *



「……何、やってんだか……」


木立のなかに入ってゆく暁を見つけ、思わず後を追ったことと、その後姿を見せずに引き返したこと。


後ろめたいことでもないだろうに。適当な言い訳などいくらでもできただろうに、できなかったこと。その時の全てを自嘲しながら、呟いた。


一晩で戻ってきたうんざりするような暑さは、スイッチをいたずらに切り替えたように粗暴で、それが苛立ちに拍車をかける。


「何、やってんだか」




繰り返し北斗は呟き、自室のドアに向かった。


“いつも通り”の『報告』のために。



* * *



「北斗。暁見なかったか?」


「暁? 今日はまだ、見てないけど」


階段を昇りしな、天之河に呼び止められ、声の方を振り返る。


「そっか。俺もなんだけど、……外かな」


「かもね。何か用だった?」


「別に。何となく」


最近、よく出てるなって思っただけだよ。──何かを危惧する様子もなく、天之河はそう言った。


確かに。でもまあ健康的じゃない?──それに同調してみせながら北斗は、またあの場所に行っているのかと思う。


あの、吹雪の翌朝に見たことは、誰にも話さなかった。一度天之河の部屋を訪れた時に話そうとして、けれど切り出せなかった。


「……あのさ、北斗」


語調をこころなしか固くして天之河が話題を変えてくる。何、天之河君?──柔らかく先を促した。


「北斗、最近“あの場所”に行ってるか?」


どうして?──天之河からの質問を保留にして逆に訊ねた。


「何度か、……俺より先に誰かが来てるらしくて」


花が供えられていたのだと天之河が告げた時、北斗の脳裡に花を持ってあの場所に佇む暁がありありと浮かんだ。絶対に暁だという確信があった。


「……北斗だと、思ってたんだけど」


じゃあ、誰だろう。──考えあぐねている天之河に、俺も気をつけておくけど、花まで置いていくなら悪意はないんだし。──そう言っておいて、北斗は昇りかけた階段を降りた。


行くところは決まっていた。




あの木々がトンネルを作り来るものを威嚇するように一斉に見下ろしてくる細い道を抜けて、その向こう。


そこには小さくぽっかりと空間ができていて、時の流れに抗うことも望みをかけることもない完全な眠りが横たわっている。




「──何してんの暁、こんなところで」




そこに、膝をつき頭を垂れる姿に、どうしてか声をかけるのを一瞬躊躇った。まともに向き合って話すのは、そういえばあの雪の日以来だと、北斗は思い返す。


「……お墓?」


「うん、……多分」


暁が、顔を上げ伏せていた目を開いてこちらを見上げる。北斗が足元の細長い草を払いながら歩み寄った。


「……誰の?」


そうして、何も知らない顔で訊ねる。


「俺も、知らないけど」


その暁の答えは予想していた通りで、北斗は僅かに安心する。知れといいながら、自分の予想を越えて知られることに不安を抱くその矛盾に内心で苦笑しながら、知らないのに手合わせてたの。──笑いがちに混ぜ返した。


「もしかして、最近よく出掛けてたのって“コレ”?」


目線で墓を示す。


何となく。──暁が頷いてから言葉を切った時、吹きつけた風が前髪をあおった。


あの吹雪は思いのほか植物に影響を与えたらしい。季節はずれの枯れ葉が何枚か散り飛んで、そのなかの一枚が目の前を掠めてゆく。


それを何気なく追う視線に、暁の声が風と交ざって、届く。




「……何となく、何かにぬかづきたくなることってない?」




……もしも。


北斗は思う。もしも、“ここ”に埋まっているのが、俺たちにとって──“お前”にとって、誰よりも身近なはずの存在だと、そう伝えたら。


……彼は、どうなるだろう? 何を考え、どうするだろうか。


全てを。“それでも”ゆるせるのだろうか?




「……北斗?」


暁の怪訝そうな声で我に返り、もう戻ろう、風が強くなってきた。──そう言って先に立ちながら、北斗は不意に疑問に捕らわれる。






暁は、気づいているのではないか。




何も知らないままに、


それでも何かに気づいているのではないか?

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