第3章第4話

* * *



「そもそも、MOTHERって何だよ」




その暁が投げ掛けた疑問に対し、北斗はしばらく沈黙を続けた。


──答えられるほど近いなら、とうに。


心のなかで僅かに毒を吐き、やがて沈黙から殻を破る。




「……お前、MOTHERに言われたこと憶えてるか?」


やがて、背けていた双眸を向けた。




「……今は俺のことじゃないだろ」


唐突な疑問返しに戸惑いながら、暁は北斗の言葉に抗う。しかし、北斗はやめなかった。


「──それが、どんな意味を持つか。お前は考えたことがあるか?」


語調の峻烈さに、今度は暁が口をつぐんだ。


いつも、北斗の言うことにはどこか含みがあった。


けれどそれは、言動や表情には決して出されずにいた。


なのに今、剥き出しになっている。


言葉に詰まる暁を見据える北斗の背後で、電源が落とされないまま放置されていたディスプレイが待機画面に切り替わる。その微かな音でさえ耳を打つほどに、重い沈黙が横たわる。


やがて、暁を思い遣ってというよりは、会話を一方的に打ち切るために北斗が低く呟いた。




「……考えてしまった、そのために。何もできなかったんだ、……あいつは」




天之河は。




暁にそんなことを言ったところで、最後に送られてきた彼が内情を知る術はない以上、ただの八つ当たりにすぎないことは北斗も分かっていた。




……分かって、いたのだ。




何もできなかった彼も、それをただ見てきた自分も、──“彼ら”も、おそらくは。




……北斗。──半ば呆然と呼び掛ける暁に、ごめん、一人になりたい。──それだけを答え、北斗は背を向けた。




窓の外は暝く、雪だけがひたすらに白かった。





“造られてしまった”、世界。


……この世界で、何を罪だというのだろう?


“言いつけ”の持つ意味を、考えてしまったことか?


考えて、けれど“殺したくない”と思い願ってしまった、そのことか。あるいは、考えて、受け入れようもないその果てに、一つの幸福を“消した”ことなのか。


受け入れられなかった、“そのこと”なのか。




知らなければよかった。──暁が立ち去り、一人になって、ようやく強張りを解いて独りごちた北斗に空調の音が覆いかかる。窓の外で今も吹き荒んでいるに違いない風を思い起こさせるような音で、責めることを知らない、生温い風を送りつけながら。


ぼんやりとそれを受けとめつつ、北斗は顔を上げた。整えられた温もりの向こう、狂い出した世界へ。


壊れることを知った、世界へ。




知らなければよかったんだよ。──北斗はもう一度独りごちてみた。


あんた、知らなければよかった。そうしたら、知らずに笑う幸せを、知って許せなくなることもなかっただろうに。考えずにいれば、できないことをただできないと言い切る被害者にもなれただろうに。何も見ていなければ、自分だって、言えたはずなのに。




“MOTHER”って何だよ。──そう、言い捨てて。




生きることを無意識に当然の権利として納めているものの生きる言葉は強い。強く、そして傲慢な正論だ。


一方、生きることを奪われてあると自覚するものの言葉はいつだって“強い”。強く、そして自己の由来を自身に起因する不幸に求める点で、おそらくは、前者よりも遥かに傲慢なのだろう。生きることを求めるのに必須の通牒として、頑として自身の不幸を手離さない。


それはまるで、救済されるべき所以を、神に訴えてやまない信者のように。


その“強さ”が、無制限に幸福を屠る欲望を解放させたのだと、気づかずにいられたら。




……自分は、どうしていただろう?



* * *



ドアを控えめにノックする、その音で天之河は時の経過を知った。


「……誰」


言葉を投げながら壁の時計を見る。すでに深夜だった。


北斗と戻ってきたときは、白く濁る雲に日射しを遮られていても、まだ幾分明るかった。もう、戻ろう。──そう言われ、促されるままに歩いて自室の前で別れたのだ。


あの後、眠っていたのだろうか。何も憶えていなかった。辺りを見渡すとカーテンの隙間から真っ白な世界が覗いていた。雪だった。


「……誰? いいよ入って」


返事のない相手に再び声をかけ、ドアに向かう。


自分の声はよほど不機嫌に聞こえていたのか、ドアを開けてやると、ノックの主は心なしか申し訳なさそうに立っていた。


「……ごめん、寝てた?」


「……いや、起きてたから、平気だけど。……暁こそ、どうしたんだよ?」


こんな時間まで。──室内に誘いながら訊ねると、暁は持ち込んできたコーヒーポットと二つのカップをサイドテーブルに置きながら、しばらく口籠もり、そのままの姿勢でぽつぽつと話し出した。


「……あの、さ。外、凄い天気じゃん」


「確かにな。真夏じゃないよな、これ」


あたかも雪が降り始めた頃から知っていたかのように返す。努めて普段通りにと心掛けた声は、どこか浮かれた響きを持っていて、自分の声なのに天之河は不快を覚えた。


彼は、知らない。気づいていない。──言い聞かせ、わざとらしくカーテンを摘まみ、もう随分積もったよな、明日やんでたら何かしようか。──異常さえ置き去りにして、心にもない言葉を弾き出しているうち、それまでの全ての繰り言を通り越して、暁が呟いた。




「……天之河君が、怖がってる気がした」




傍らを振り返り、まじまじと見つめたその姿は横を向いていて、湯気の昇るコーヒーを注いでいた。


はい、熱いよ。──そう言うだけの何気なさだった。


「なんて、本当は俺が怖かったのもあるんだけど」


照れくさそうに付け足して、はにかむ。


だって本当に凄い天気じゃん。──そう言い訳をして。


「……天之河君も怖かった?」


手渡されたカップを両手に押し包み、揺らめく湯気を見下ろす。絶え間なく昇り舞いながら消えてゆくそれは、頬にかかる時に温かく、そしてひんやりとした余韻を残して、“彼”の眠る、外の白い世界を思い出させながら、けれどやっぱり温かかった。“異常な雪”に驚くことさえ忘れていたことを思い出させるほどに。


「……今落ちてきてるのは、雷じゃないよ、暁」


小さく笑いながら、混ぜ返す。


何とは言えないままの緊張が、それでも解れてゆくのは通じたのだろう。暁が笑いながら、いいんだよコレだって十分怖いじゃん。──そう反駁してくるのを、声に出して笑い、受けとめた。


「なあ……暁?」


「……何?」


向き直り、見つめる。“彼ら”の『弟』。


酷似しているという程でもなく、似ているところは探るうちに浮き上がってくる、顔立ち。


彼は、知らない。──もう一度自分に言い聞かせる。




“すでに亡い兄”の存在はおろか、彼の知る兄の犯した罪も、彼に罪を犯させたという自分の罪も。


MOTHERが、“その始め”に犯された罪も。




世界を構築する全ての忌まわしさを、何一つとして知らないままの存在。


知らずにあることが、そうあることを可能にするというのなら、そのままでいて欲しかった。


だけどいつか、彼も知る時は来るのだろう。


危ぶむでも予言するでもなく、主軸を外れて傍観するような寂しさを一瞬感じて、けれど、と天之河は思い直す。




──けれど。せめて守れたら。



いつか彼が知ってしまってなお、損なわれることがないように。




それは願いだった。




「……天之河君?」


いつまでも何も言おうとしない天之河を訝しんで、暁から声をかける。


何でもない、ごめんボーッとしてた。──そう言って取り繕いながら、天之河はカップを口に運んだ。


僅かに冷めたコーヒーが、緩やかに喉を温めながら下りてゆく。


「……あ、天之河君。さっきのだけど明日になったら何する? まず雪掻きかな」


雪合戦とかカマクラとか。せっかくだし。──無邪気に並べたてる暁を眺めながら、つい先刻の言葉を思い出す。




──天之河君が、怖がってる気がした。




俺も怖かった。──臆面もてらいもなく、そうと告げた彼にしても、“知らない不安”はあるだろうに。


にもかかわらず笑いかけてくる健やかな強さが、今の自分にはかけがえなかった。


「……暁」


「何? 天之河君」


こころもち顔を近づけて問い返す暁に、天之河は低く、ともすれば聞き落としそうな声で囁いた。


「……ありがとう。暁がいてくれて、よかった」






何だよ改まってそんなこと言われたら照れるって殺し文句得意だよ天之河君って絶対。──慌てながらまくしたてる暁が、慌てたまま窓の向こうに目線を逃れさせ、ああほら雪だいぶ収まってきたよ。──深夜という時間帯も忘れて殊更に声を張り上げた。


「……どれ? ほんとだ、これなら明日は晴れるか」


一緒になって窓の外を見やる。


降る雪は目を凝らしても辛うじて分かる程度にまでなっていた。天之河は近視だから、視力のせいもあるだろうけれど、それでもこの調子なら朝にはやんでいるだろう。朝の雪景色を思い浮かべ、ふと天之河は目を細めた。




「じゃあ、俺もう寝ようかな。天之河君もそろそろ寝るよね?」


言いながらコーヒーポットに手を伸ばした暁に、いいよ俺が片しとくから、おやすみ。──そう言って送り出した。温かな余韻を喉の奥に残しながら。



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