第3章第3話

* * *



雪が、まだやまない。


時折風が吹きすさぶ、その音に耳を澄ましながら、昴は横たえていた体を起こした。静かに、隣で寝息をたてる流星の眠りを妨げないように。


彼を追い詰めた現実は夢のなかにまで彼を追うことはしていないのだろうか、今は穏やかな表情で寝入っている、その顔を見下ろす。


流星。──口のなかで名を呼び、手を伸ばす。額にかかる前髪に指先で触れて。それでも目を醒まさないことを確かめて、頬に触れた。


涙の跡が残るそこは温かかった。



──昴。昴、声聞かせて。



流星の声が、耳の奥に残っている。



──生きてるよな、昴?



何度も。繰り返し、汗ばんだ手のひらで頬をおし包んで見つめてきた眼差しも。



──昴、だよな?



焼きついている。迷い子のような、それが。




何言ってんだ、莫迦。──乱れる息を抑えつけて毒づく昴に対して証拠を求めるように口づけてきた流星に、求められるより早く、舌を絡ませた。莫迦なことを言うその舌を撫でつけて。


頬を包んでいた右手が離れる。肩を掠め、脇を掴んでシーツに埋ずもれかけた体を引き寄せて。重なる唇の角度を変え、貪る。




──昴……昴。




うわ言のように、それだけを囁き続ける流星の腕のなかで、言葉では足りず返す熱があてどなく彷徨う。縋りつく流星の肩に背に腰に胸に、頬に。


伝わればいい。伝わって、感じてくれれば。


ここに、生きてあるものを。




たとえそれが、“間違い”であったとしても。




泣き疲れて眠る子を見守るような安らかな眼差しは蘇る記憶のうちで、いつしか貪るようなものへとその様を変えてゆく。


頬に触れた手は、その危うさを微動だにせずにほのめかし、穏やかな寝顔との対照をなしていた。



……どれだけの時が、そのままですごされたのか。



昴が目を逸らし、窓を見やった。


窓にさえも塗りつけてゆく、白い白い、世界。


唸る風の音が、沸き起こり弾けて消える水槽の気泡を思い起こさせて、よぎる。




全てを生み出した、“壊された”母。






昴は、流星の眠りを醒まさないように、そっとベッドから抜け出した。


散らされた衣服を、できるだけ音を立てないように身に着けながら、もう一度その寝顔を見下ろす。


苦しみの欠片もない表情。どんな夢を見ているのだろうか。そこに、自分はいるのか。


いてもいなくても、“それ”で彼は安らいでいるのか。


探る術もない心に目を伏せて、昴は部屋を後にした。




白く、どこまでも白く塗り籠められた世界へ。



* * *



……流星は、夢を、見ていた。


白い白い世界。


ああまたあの水槽の世界か。そう思い、けれどすぐに違うと気づく。


ここには何もない。


白い床も壁も、あの声も。




そうしてただ、一面の白。




誰かいないの。──呼び掛ける声は微かに震えていた。


そういえば昔何かで聞いた。白いだけの部屋に閉じ込められると、人は狂ってしまうと。


誰か。──もう一度呼ぶ。けれど返事がないのは確かめるより早く、分かっていた。


だって自分はもう、狂っているから。


だから“彼”を殺してしまった。


だから世界は白いんだ。




「……流星」




ああ。空耳が聞こえる。


笑いのように硬直した顔が、その力を失う。




「流星、……いい子だね」




空耳。懐かしい声。思い出せてよかった。


その声は殺した僕を責めてはいない。


どうして。




「……かわいそうだ」




どうして。


かわいそうなのはあんただ。



一面の血の湖は、あんたが“生きていた”ことを知らしめていたのに。


たとえ何もかもを許さないと叫んだとしても、叫ぶあんたは間違いじゃなかっただろうに。




──昴。ごめん。ごめんなさい。




たまらずに叫ぶ声は白すぎた世界に空々しく響き、瞬く間に消えてしまう。


その、白けた余韻に、重ねる言葉は出ない。




ごめん。だから。




声に出さず、願う。




空耳でもいい。あんたの声を聞かせて欲しい。






……不意に。


流星は、頬に何かが触れるのを感じた。


白い世界は目を凝らしてもどこまでも白かった。


けれど、その白さを受け入れるには、その感触はあまりにも懐かしすぎた。




どうしようもなく、会いたいと思う。もう一度会いたかった。そして抱き締めたかった。




* * *



「……昴」


思わず上げた、自分の声で流星は目を醒ました。


暗く静まり返った部屋。不自然に感じるほど、静かすぎる空間。


いつの間に寝入ったのか、すでに時は真夜中に至っているらしかった。


今は何時だろう。時計を手探りで探そうとして、流星は静けさの不自然の正体に気づく。




「……昴?」




返事はない。分かりきっていて、けれど呼んだ。


半身を起こした傍らに奇妙にあいたスペースは、昴が確かにいたことを教えていて、その、体が沈められていたシーツの皺に触れてみる。痕跡だけを残したそこに、温もりはなかった。


自室に戻ったのかもしれない。シャワーでも浴びに行ったのかもしれない。頭のなかで考えを巡らせながら、明かりのない室内を見渡す。暗がりのなか、少しずつ慣れてきた目が微かに物の輪郭をとらえる。散らされた一人分の衣服。僅かに、開けられたままのドア。


まるで、閉ざす時に立つ音を憚るように。


「──昴」


声に出して呟くのと、シーツを払いのけて起き上がるのは、ほぼ同時だった。






……こんな、昔話がある。


百年生きた木の人形の物語だ。


百年目の主が彼女以外の人形と彼女とで一つの“家族”を設定した。おままごとには欠かせない構成だ。


けれど人形の家族には“人形の家”がなかった。


主はどうしても人形の家が欲しかった。人形たちもまた、人形の家、“本物の”人形の家が欲しかった。


主は願った。人形たちも願った。当然だ。




「願って。願って。ちゃんと、願うのよ」




百年生きた強さで言い聞かせる彼女の声は、百年生きた木の強さだった。彼女は“本物の”人形だった。


彼女は、自分たちが人形だということを知っていた。人形は願いを願うしかないことも。


だから彼女は“本当に”願った。




主である少女は、百年をすごした“人形の家”を手に入れることになる。百年前、木の人形が暮らした、家を。


百年をすごしたその家は汚れ古びて、けれど“本物の人形の家”だった。




人形たちがひたすらに願う傍らで、主の少女は願い手に入れた人形の家を磨く。それは、少女の願う強さだった。


人形は願う。ひたすらに、願う。


少女も願う。人形の願いには気づかずに、彼女の願いをひたすらに、“願う”。



* * *



「昴、──いないの、昴」


さすがに大声を出すわけにもいかず、声をひそめ、何度となく名を呼ぶ。バスルームは水音も明かりも漏らしていない。冷たく静まり返っていた。


階段を駆け降りる途中でリビングを見下ろしても、同じように人の気配はない。キッチンにも。


昴の部屋は最初に見ていた。そこは、その後に見たどこよりも静かで、そして冷ややかだった。昴はあの部屋で一人の時、どうすごしていたのだろう。ふと、そんなことを流星は考える。あの冷たいなかで、何をして、何を考えていたのか。


「……どこだよ、昴……」


見当たらない。誰かの部屋に行っているのかもしれない。


だとしたら、その方がいい。朝になって、誰かと生欠伸をしながら階段を降りてきて。おはよう、昨夜目を醒ましたらいないからびっくりした。──そう言ってやって。きっと、その頃には雪だってやんでいて。


けれど。どうしてだろう、そんな気がしない。


昴は多分、誰の部屋も訪れてはいない。自分の部屋を出た後で、きっと誰も昴の姿を見ていない。


そんな気がした。理由を訊かれても答えられない。


どこだよ。──苛立つ声を吐き出して、流星はリビングの窓の外を見やった。




やまない雪。一面の、白。




白だけが世界を埋めて白い陰影をみせる、その光景に見入った。




昴。──もう一度口のなかで名を呼ぶ。


冷たい世界を見つめたまま。




* * *



ろくに着込むこともせず、裏口から外へ駆け出す。


いつか呆然と昴を見つめた、あの木の下。


他に思いつく場所なんてなかった。




「──昴!」


雪に凍りつきそうな声を、張り上げた。


はじめから、ここに来ればよかった。そう思いながら。


だって目の前に昴が立ち尽くしている。


白い世界に、黒い髪が浮き上がる。俯いた顔は微動だにせず、その姿はまるで氷像のようだった。


流星が、ドアの傍らで昴を見いだした時と、服装さえそのままで。


ああだけど“違う”。だって今の彼は出てくる自分を待ってはいないだろう。違うだろう。


そう気づいた瞬間、流星は無意識のうちにかぶりを振った。


「……昴……!」


叫び、粉雪に足を取られながら走り寄る。


潤いを感じさせないほど、きつく凍りついた結晶は本当に粉のようで、見るだけなら温もりさえ窺えた。


振り返ることのない背中に、流星が腕を伸ばす。


震えるでもなく、そこに身を安らうかとも見られるほど静かに立つ体は、背後から抱き締めた時、流星のそれよりも遥かに冷たかった。


「何でっ……いつから、こんな……!」


こんなところに、こんな姿で。


繋げようとする言葉が、憤りに途切れた。代わりに、抱く腕に力を籠める。冷えきった体に、自らの体温を移し与えるように。


昴は、身じろぎもせず立っている。


もう戻ろう。──そう言おうとした、その時になって初めて、口だけを開いた。




「……あっためてくれるの? 流星」




その声は淡々としていて、何の感情も汲み取れなかった。




「でも流星、かわいそうだね」




ゆっくりと、風に同化しそうなほどの言葉は流されてゆく。流星にとって看過できない内容でありながら。




「……俺じゃなければよかった」



「昴、何言って……」


顔を埋ずめた肩口から流星が昴の表情を覗き込む。けれど声同様に何も表していなかった。


「俺じゃなくて、──“あいつ”でもなくて」


微かに見てとれる昴の目が閉じられる。




「当たり前に、──誰かだったら」



言い訳のない温もりを交わし合えるような、誰かだったら。




「昴、……俺は」


俺はかわいそうなんかじゃないから。


昴の耳元で、その一言だけを押し出した。


声は流星自身、訝しいほど掠れていた。




「……流星、」




やがて、ゆっくりと昴が向き直る。肩に回されていた腕を解き、けれど流星の腕に手を添えたままで。


その時に開かれた眼は、向き直ってなお、何も読み取らせようとはしていない。


食い入るように見つめる流星に、昴の声が囁く。


「いつか、この雪が消えたら……一緒に消えようか、流星」




風が唸りを上げて昴の前髪を払う。


酷薄な雪明かりに照らし出される、薄く笑った顔が儚い。


凝然として昴を見つめながら、流星はどこかで確信していた。




それは自嘲だ。昴は決して自分を連れてゆきはしない。




「……すば、る……」




どうして。


だって、昴は。




本当は何よりも、“生きる”ことを求めているはずだ。




流星が、何かを言いかける。


──その時。


「……っ、危な……」


ばさりと羽ばたくような音がして、真上に張り出した枝に積もっていた雪が雪崩れ落ちてきた。降り積もる重みに耐えかねて枝がしなったのか。咄嗟に流星が昴の肩を引き寄せて下がり、それを避けた。


大丈夫?──再び重なった体を離さずに包み直し、昴に問いかけながら、流星は不意に向こう側──昴が立ち尽くし、じっと見下ろしていた辺りに視線が向かった。


雪崩れた白い塊の、その手前。




「……鳥?」




小さな鳥が一羽、落ちていた。


おそらくは急に襲った寒さに斃れた、赤茶けた羽の小鳥。雪だけが全てを照らし出す世界で、濡れ凍えたそれは黒味がかった艶を微かに光らせ、真っ白な世界に浮き立っていた。


“あれ”を、見ていたのだろうか。


流星はそう察し、昴が、自分が来るまでに向けていたはずの視線を追い捉えた。その二つのコントラストはやがて二つの記憶を抽象して流星を引き込む。


“あれ”も、こんな色だった。


MOTHERがただ一言、流星に告げて流星を送り出した、白い白い世界。彼を見て、彼を容れられずに彼を殺した、地下室の、黒ずんだ血の湖。


二つの記憶が交ざり合い、今までに歩んできた全ての選択肢を通して、目の前の昴に繋がる。彼にそれを告げたら怒るだろうか。呆れるか、気色悪いと斥けるか。


だけど。




──殺したのは、俺だ。




そう叫んだ彼が、それが現実だというのなら。


これだって、現実だ。




──一緒に消えようか。




たとえ、昴がそれを心から望んだとしても。




「……昴」


名を呼んで、頬擦りをするように顔を寄せる。


昴が僅かに顔を動かして眼差しを向けてくるのを感じながら。


言いかけて途切れた言葉を、紡いだ。


「俺は、……嫌だよ、昴」




そんなのは嫌だ。




「消えたりしたら、何も分かんないじゃんか」


伸ばしてくる綺麗な手も、すぐに俯く視線も、莫迦ばか毒づいて、けれど本音を捨てられない声も、今抱き締めている冷たさも。


「そんなの嫌だよ」




穏やかに告げる流星の、その息が耳にかかる。それをけざやかに感じ取りながら、昴が小さく身じろいだ。


「……莫迦じゃねえの。本当に」


「いいよもう、それでも」


昴がやっと押し出した声に、それが悪態でも構わずに笑いを含んで返してくるその様子は、今までの流星でありながら、新たに力を得た流星とも受け取れた。


何が流星を狂気から引き戻したのか、昴には分からない。けれど、狂いだしてゆくこの世界で、どうしてか安心できていた。つい先刻までの凍てついた感情が、嵐が過ぎ去ったように凪いで、その時、不思議なほど満たされていた。


いい加減、戻ろう。本気で風邪ひくし。──流星が睦言でも囁くような声で促す。


逆らわず足を踏み出した昴を見やり、歩き出す直前、流星は改まって口を開いた。




「……あのさ、昴」




昴が振り返り流星を見つめる。無心な眼差しは無防備で、信頼に裏づけられている。愛おしさが込み上げた。


流星はそこで一度黙り、空を見上げる。


黒い空。照らす月も星もなく、なのに白と分かる雪が、蜻蛉の群舞にも似たさまで降りてくる。それ自体、生あるもののように。






「……一緒に消えるくらいなら、一緒に生きよう」




同じ罪の果てに。



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