第2章第4話
* * *
冷たく固い床と埃を踏みしめる自分の足音を、心音のように聞いていた。
恐怖はなかった。当然のごとく“彼”という異質な存在に繋がるドアを開き、湿った埃の匂いを拒みながら向き合う。“彼”は笑っていなかった。ただ、無表情で流星を見据えていた。
「……教えてくれよ」
問う声は思いのほか自然に喉から滑り出た。一歩、また一歩と“彼”に近づいてゆく。距離がなくなる。
「……あんたが誰なのか」
けれど訊ねる言葉にもう意味はないと分かっている。
“彼”に手を伸ばして触れる。身じろぎもせず、“彼”はただ見ている。
流星は右腕だけで抱き締めた。“彼”の息がかかる。温かい。まるで、流星が知る“昴”のように。
だけど違う。これは、大切な“昴”を追い詰めるものだと言い聞かせる。言い聞かせなければ、錯覚してしまう。
「……何に見えるの」
“彼”は絶望的な抱擁を拒まない。だから、流星は昴から取り上げたナイフを左手に強く握り、──。
「分かんないよ」
そして、“彼”の背中に突き立てた。
ギチギチと、肉を断つ音が感触で感じられる。生身の肉体なのだと今さら実感する。流星は肉迫するリアルに耐えきれず目を閉じた。
「……バケモノ?」
* * *
「……はい。大丈夫、機能してますよ。今日もちゃんとヘリが着いてますし?……何が。この間のアレは、N4地区のリレーヤーが……違う、老朽化でしょう、ただの。そちらの、異常じゃない。……え?」
どうやら、うまく読み取れなかったらしい。合成された音声が機械のボキャブラリーに合わせるよう促してくる。
これだからキカイは。声に出さずに毒づいて、北斗は「大丈夫、異常はない」──それだけを再び言った。
デスクの端で、先刻暁とキッチンに降りたときに持ってきたグラスのなかの氷が小さな音をたてる。
「リレーヤーの故障で届かなかったレポートの内容でしょう。……別に、こちらに異常はない」
* * *
6時を過ぎて、日がようやく和らいでくる。
その傾きを感じて、天之河は閉めきっていたカーテンの表地を開け、窓際の安楽椅子に座りなおした。
他の部屋は全てブラインドになっている。この部屋も元はそうだったのを天之河が取り替えたのだ。クラシックな趣味だよな、時々。──いつか、そう言ったのは──あれは、誰だっただろう?
この椅子をことのほか気に入っていた。ここに来ると必ず持ち主を追い払って、嬉しそうに身を沈めて。時折、懐かしそうな表情でカーテンの下がった窓を眺めて。──あれは。
「……昴?」
あれは黒い“彼”だった。黒と白との区別もないと思っていた頃の。
ドアが、微かに軋む音をたてて開いた。
窓の外で照りつける陽射しは、唸るように今日最後の熱を浴びせかけているのだろうが、角度がずれているから、部屋に射し込んではこない。窓に横顔を向けて目を閉じている天之河の、無防備な姿が現れる。
入り込む人物は、迷いなく歩み寄ってくる。
紗のカーテン越しの霞むような、疲れた光に移し出される、──その、横顔に。
静かな足音とともに天之河の前に立ち、手を伸ばす。上体をこころもち屈めたとき、黒い髪がその眼差しを隠した。
日に茶色く透ける、その髪を撫でるように。ゆっくりと、滑らせて。
首に、指を絡める。
「……何で」
身じろぎひとつしない天之河に、感情の見えない声で昴が呟いた。
「……何でだろうね」
「違う。……何で」
否定する昴の声に、微かな苛立ちがこもった。
──いつか、きっとくる。
そう言ったのは彼だ。
いつか、こんなことになる。知っていたなら、どうして。
どうして彼は──始めから。アレも、自分も。
殺せなかったのか。
「……だって、生きてたからね」
「そんなの、──俺は」
「だけど、生きてたからね」
口ごもる昴に向かって、開いた目を細める。
「アナタが出来損ないだと思っていても、それでアナタ自身が苦しむことになっても、──それでも、昴が昴として生き出してたからね」
──始めから、取り返せるものなんてなかった。それは分かっていた。分かっている、けれど。
「……足掻いてたんだよ。……ごめんね」
「……天之河」
「生きて欲しかったんだよ、昴に」
取り返せない情景ではなく、──今、このときの。
「……死なせたくなかった……」
罪を自白するように、その一言を口にして、再び目を閉じた。ほんの、一瞬。
……いつしか、自分の手を離れて歩き出す現実に、今までの何かを諦めて。──その“先”を、のぞむように。
けれど。──今は、ただ。
「……誰が、っていうんじゃなくね」
息を呑む昴に、小さく笑いかけて手を伸ばす。そのまま、頬に滑らせた。顔を半ば隠す髪をかき除けるように。
「……出来損ないなんかじゃなかった。俺にとっては」
黙ったまま、昴は首から手を離した。指から、あるいは首から伝わっていた震えが、鼓動が、離れてゆくときにどうしてか寒さを感じた。寒さというよりは、切なさに近かったかもしれない。
離した手をそのまま下ろして、昴がドアに向けて歩きだす。天之河は動かなかった。視線さえ横顔のままで。
「……俺は、あれが失った未来を、あれに与えてやりたかった」
歪んでいる。そのことには気づいていた、けれど。
「……たとえ、それの叶うときが、俺にそう願わせたあれを失うときだったとしても」
応える声はなく、昴が部屋を出てゆく。
「……けどね、今になって思うのは」
静かに、閉まるドア。
「幸せに、なって欲しい」
白も黒もなく、──ただ。
「全ての願いに構わずに、──自由に」
ドアの向こうで、それに背を凭れさせるように立ち尽くし、昴は目を閉じた。
罪を暴くように現れた“過去”。
自分たちを作り出した誤作動という、MOTHERの。アレを殺したという、自分の。けれど死なせられなかったという、天之河の。──MOTHERを繋ぎ留めたという、“彼”の。──いくつもの罪。
──お前のうしろには、俺がいるよ。
全てを内包してあらわれた、あの、歪んだ笑い。
……分かっていた。分かっては、いたのだ。
けれど、それでも。だからこそ願わずにいられない願いはあった。
* * *
「……分かってます。大丈夫。異常があればこちらから知らせるから」
何度となく繰り返した言葉を、今日も北斗は繰り返す。いっそ機械的に。
「じゃあ、また。──MOTHER」
……声が、聞こえる。水槽の向こう側。断ち切られた未来。待たれていたはずの、明日。
『──どうか、幸せに』
新しい生命が生み出されるとき、あの産声に、ただそれだけで、まっさらな自由であることを願いながら。
* * *
ず、とナイフを抜くと、塞き止められていた血が溢れだして“彼”の衣服は真っ赤に染まった。
“彼”はただそれを受け入れていた。
そして、目を閉じて流星の腕に触れ、背中に腕を回した。
それは、流星のよく知る昴と同じぬくもりだった。
──同じ顔。同じ形。同じ、名前。
流星のなかで黒と白は境界線を失う。
「……ごめん……昴……!」
ナイフから伝う血が、刺した手を腕を汚す。温かかったそれは、外気に触れてすぐに冷たくなった。
「……ごめんっ……」
ナイフが乾いた音をたてて床に落ちる。流星は判別のつかなくなった昴の体を強く抱き締めた。
けれど、昴の腕から力が抜けて垂れ下がる。
「……流星、いい子だね」
昴が、がくりと膝をついてうなだれ──。
「……かわいそうだ」
流星は、愕然と昴を見下ろした。最後の言葉。まだ溢れて赤い色を広げる血。
倒れている──もう助からない、自分の手がそうした昴。
「……あ……あああっ……!」
後ずさり、何かに躓いて転ぶ。がくがくと震える手と足で立ち上がり、逃げ出すことしかできなかった。
『……聞こえる』
『過去じゃなく未来でもなく、』
『置き去りですらない、足音』
* * *
「……いい子ね。あなたはいい子ね。かわいそうな、いい子」
そう言って、見下ろして。
頭を撫でる優しい手のひらの幻想。
分かっている。──だって、本当は何もないから。
* * *
……かわいそうだ。
そう言ったのは、誰だっただろうか。
逃げ出した僕の目の前で、日が沈んでゆく。熱にうかされたような色で。
何もかもを許さないと叫びながら。
「……昴……?」
そうして、焼かれ尽くすのを待つうちに夜は来る。
狂おしさにかこつけられた鏡が光りだす。
熱に歪む天を地に落として。
* * *
その夜は、熱い風が吹いていた。それだけは、はっきりと憶えている。
真昼よりもひどい熱を孕んだそれは、病んだものの喘ぐような、どこか胸苦しさを感じさせるものだった。
天之河が何とはなしに迫る気持ち悪さを抑えながら、外の熱とは隔絶された地下室の、その奥へと入り込んでいったのは──どうしてだろう? 自分でも、その夜、どうして訪れたのか分からなかった。会いたかったのか、何かを確かめたかったのか。何ひとつはっきりしないまま、ただ、行かなければとだけ感じていた。
埃に濁った明かりを差しかける照明が、開け放されたドアを照らし出す。
「……昴?」
目の前に、黒い世界が口を開けて、見ている。
黒ずんだ川。この建物に転がる廃材とは明らかに異質な、鉄じみた匂い。
目の前に倒れている体。
「──昴!?」
天之河が、足元も省みずに駆け寄り、傍に屈み込む。冷たい肩に、色を失くした頬に、手をかけて。
「何でっ……起きてくれ!──昴!!」
叫びながら、もう手遅れだと気づいていた。だからこそ、そのとき、その体を迷わず抱き寄せたのだろう。
固く閉ざされていた目がうっすらと開けられる。細く短い息。昴は、最期の力で耳鳴りと砂嵐の向こうに意識を押し戻すよう試みる。
狭まる視界から覗く、今にも泣き出しそうな天之河の顔。諦めながらすがりついてくる、その腕の震え。
自分の、名前を。ひたすらに呼ぶ声。
「……昴っ……!」
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