第2章第3話

* * *



「……だから、もう消えないと」


……あれは、いつの、誰の声だろう?


絡めた腕のままに、消してしまえたら、消えてしまえたら、──全ては、止まったのだろうか?


行き着く先を失って、白い朝に夢から醒めてゆくように。



* * *



……ひどいことをした。


目の眩むような陽射しのなか、裏庭の、葉を黒く翳らせるあの木の下で、流星は立ちすくんだ。


「……なんで……」


何で、あんなこと。あんなことがしたかったんじゃないのに。


立ち止まるうち脳裡に浮かび出す、昨夜の──普段なら絶対にありえない、されるままの。


せめて、いつもみたいに。ふざけんなお前、やめろって。──そう言って、叱りつけてくれていたら。


「……昴」


いつの間にか吹き出していた汗が、頬を伝って拭う間もなく滴り落ちてゆく。


熱を孕む風が吹きつけて、押し流されるように目の前の節ばった幹に手をつき、ゆっくりと反転して背を凭れかけさせて俯いた。


「……昴っ……!」


弱かった。ただ、弱かった彼を、自分は踏みにじっただけだ。


痛みを伴って押し寄せる後悔になす術もなく身を任せながら、流星は昨夜に曝された昴の姿を思い出す。


目の前の流星に抱かれているというよりはむしろ、自分のなかの何かに喰い破らせていたかのような、それは。


まるで、おぞましい儀式のように。


許したくなかった。そんなことは、させたくなかったのに。


間違えた。



黒とも見まごう濃い緑の葉の群れを見るともなしに見上げながら、繋ぐように思い出す。



──今さら、思い出したの、流星?



そう言って、薄く笑った、口元。


濃い影を落とすこの木の下で、影そのもののように佇む姿。



ただ、大事だった。


傍にいたかった。


それだけのことにさえ足を掬われるように新しい傷を作る、自分のなかの弱すぎる矛盾。



……どうして。


大事だと思うものを大事だと思うだけ大事にすることはできないのか。




「……そろそろ、昴起きたかな」


独りごち、幹から体を離す。


謝りたかった。




* * *



「……俺は、あれを、死なせられなかった」



それを告げられた後、自分が天之河に何を言い返し、何を告げて彼の部屋をあとにしたのか、昴は憶えていなかった。もしかしたら何も言えなかったのかもしれない。


そうして今、自室の片隅に力なく座り込んで。膝を抱えて。


まるで、夕闇のなか探しにくる母を待つように。──泣くんじゃないのよ、そう言って。抱きしめて泣かせてくれる腕を、祈るように無心に待つ子どものように。



そんなものは、ありえないのに。



それでも願い倦んだ情景は、欲望にまみれた獣の足跡のように凶々しく残される。




……不意に。


糸につられたのに似た仕種で、昴は顔を上げた。


くだらない幻想に駆り立てられるように、ゆっくりと立ち上がり、デスクの前に立つ。


引き出しの把手に指先をかけ、開く。



材質は分からない、何か金属製の鞘がついた、飾り気のない──実用のためだけに作られたような、ナイフ。



それを、手に取った。




誓ってもいい。死にたいわけじゃない。胸に抱くものを死なせたくもない。


ただ、全てが消えるなら。


過去じゃなく未来でもなく、心さえ消してしまえたら。




* * *



「──昴!?」


あの後、さらに汗だくになりながら部屋に戻って、とりあえずシャワーを浴びて着替えて──さらに一服して、その上、昴の部屋の前で深呼吸なんかもして、しばらく躊躇い続けて。


このままじゃ、日が暮れる。切実にそう思って、ドアを開け、昴ちょっといい?──そう言おうとした、そのとき。


昴が、立ち尽くしていた。その手に握ったナイフを、食い入るように見下ろして。


横顔──いつか見たような、薄く笑っているかのようにさえ見える、眼差し。


「何やってんだよ! そんなっ……!」


怒鳴りながら、駆け込む。昴の肩がびくりと揺れて、怯えるような表情に取って替わった。


──今。もし、ここで。


何勘違いしてんの、流星。──そう言い捨てて、怒ってみせてくれたら。


そうしたら、全ては。──もう一度、優しかった嘘に帰ったのだろうか?



そんなのは無理だろう。




「……流星」


「やめろよ、もう! こんなこと!」


呆然と、忘れられたような腕を掴み上げて、その手からナイフを奪い取る。思わず頬を張りそうな激情を、けれど抑えて、俯く。自分の手のひらを、爪が食い込むほど固く握り締めて。



……どうして、彼がここまで追い詰められなければならないのか。


そこまで苦しんで、──何を。



何も知らされないまま、それでも苦しいほど伝わる声は、どこに向かうのか。


見せつけられるだけの事実は、その果てに、どこを探しているのだろうか?




「……ごめん」


長い、沈黙を破って昴が呟いた。


「何に対して謝ってるのか、分からないけど」


吐き捨てるように、固い声で流星が言い返す。それに対する返事はなく、ごめん。──もう一度、小さく繰り返された。


「……許さない」


俯いたままの流星の口から、低く落とした声が零れる。


「許さない。昴を傷つけるのは、昴でも許さない」


「──流星」


「させない……許さない、そんなこと」




……そのとき。


ならば自分に何ができるかなんて分からなかった。


ただ、もうこんなのは嫌だった。



壊れなければ、それでいいのか。


毅ければ、それだけで生きてゆけとでもいうのか。




* * *



「……流星っ! お前、何っ……!」


何で。そう叫ぶ彼の、その素顔に向き直り、真っ直ぐに見据える。


左腕に走る熱い痺れ。


そんなの、どうだっていい。囁いて、身動きのとれなくなった視線を捕らえて。



右手に握られたままだったナイフが、絡みつく血脂を滑らせながら、床に投げ出される。



「……血が見たければ、俺のにでも、まみれてなよ」


赤く筋を走らせた、その腕を伸ばして、昴の頬を包む。獲物を屠る野獣の、その厳かなさまを、屠られるものの立場から目の当たりにする子どものように、凝然として動けずにいる昴の、その体を引き寄せて。


「……昴が傷つくなら、……俺も傷つくから」




「……おぼえておいて?」




……音が、聞こえる。ヒステリックな嬌声にも似た、耳鳴りのように。


歪んで軋む歯車の、加速だけを繰り返して廻り続ける、音が。



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