第2章第1話

Mr.murder,


Get back go Hell.


Your GOD is waiting You, there.















……緑の眩しい庭で、黒い彼を殺してしまった僕は白昼夢のような現実を味わう。


佇む彼が陽射しを受けて笑っている。


「……幸せ?」


訊かれて、僕は動けない。彼は僕の背後に回り、病的に白い指を僕の首に絡める。冷たく気持ち悪い汗が黒髪を伝って散った。


彼は歌うように嘲笑うように言葉を繋げる。


「きれいなふりして、きれいな言葉で、きれいな世界で──幸せ?」


風が疾り、ざっと音を鳴らして草葉を撫でた。指に力が籠もる。


「……あ、」


引き剥がそうと彼の指に手をかけると、ぎり、と首に指が食い込み、ふと笑う気配ののちに離れていった。


「……お前のうしろには、俺がいるよ」


よろめきながら一歩また一歩と足を踏み出す僕は、それによって遠ざかってゆくはずの声を痛いほどのけざやかさで耳の鼓膜に感じていた。


「忘れないで。──俺はお前の背中をずっと見てる」


永遠に午後の庭で、緑ばかり映す出来損ないの大きな鏡が見える。もう、その前に立つことはできない。


喉に残る圧迫感が背筋に戦慄を走らせる。


もう逃げることしかできない僕は、憤りも恨みも乗せずに囁く声で貫かれた。


「……見てるのは俺だよ?」





* * *



これは、夢なんかじゃない。




白すぎる世界。コポコポとくぐもった音を漏らす水槽。強化プラスチックを何重にもして作られたそれが、気泡の微かな音を漏らすはずがない。けれど確かに聞こえる、──羊水のなかで聞く鼓動のような、問わず語りの音楽。


ここに自分が立つのは、子どもの頃にMOTHERから呼び出された、あのとき以来初めてだろう。


彼女の、変わらない声を待ちながら。




──あたしは、あなたの願いを叶えてあげたわ。


懐かしさも憤りもない、ただの「声」は告げる。


──なのに、あなたはまだ、あたしの願いを叶えてはくれないの?




「……MOTHER、──それは」


その「願い」は。──本当に、あなたの「願い」だというのか。


思わず開きかけた口を、「あたしの願いを叶えて」という一方的な言葉に遮られ、通話は断絶される。


これ以上は、何を言っても無駄だ。


声は届かない。水槽からは、もう何も聞こえてはこない。


白すぎる、耳鳴りさえしそうなほどに静まりかえった、世界。




天之河は一瞬目を伏せて、踵を返す。あの、育ちきった緑の世界に「帰る」ために。



……そのとき、不意に錯覚に襲われた気がした。


耳の奥でこだまする、問わず語りの音楽。水槽から弾き出された言葉。彼女の、ありえない眼差し。



* * *



笑い声が聞こえる。


嬌声のようにせわしない、ヒステリックなそれは、耳にこびりついて神経を逆撫でたまま駆け抜けてゆく。


執拗すぎる音に昴は耳を塞ぎたくなり、そうしてすでに通りすぎた声だということに気づく。


……誰の、声だろう?




よく晴れた午後の庭。重なりあう葉が黒い影を散りばめる木立の、その向こう。


黒い「彼」が笑っていた。


そのさまは、幸せそうだった。幸せそうで、何もかもが自然だった。


何で笑えるの。──天之河が低く訊ねる。怯えを微かに含んだ声。だって当然だろう。


彼には「MOTHER」の言いつけがあるから。


──何でって?


「彼」は、何を言うんだとばかりに訊き返す。真っ直ぐに見つめて。




「だって、天之河は殺さないのに」




そんなこと、絶対にしないのに。挑むように恕すように、午後の庭に溶け込んだ「黒い」自分の声。



だから僕は彼を殺さずにいられなかったのか。




……ゆっくりと、僕は近づいてゆく。


目の前には、白く霞む陽射しに溶け込みそうなほど色の落ちた髪。


背中にどことなく幼さを残しているのは自分も同じことなのか、それとも、彼だからなのか。


信じたものを疑わない、無防備な背中。


僕と、彼と、同じ声は告げる。




「……バイバイ」


強い風が吹いて、怒鳴るような葉擦れの音が最期の息をかき消した。




……僕には、許せなかった。


同じ顔で同じ形で同じ名前で、笑う彼が。




そうして、いつもそこで目が醒める。


窓の向こうは塗り潰したように黒くて、朝にはまだ遠いことを告げている。


酷いほどの静けさに埋もれたまま、夢よりも残酷な現実を、おそらくは誰もが眺めていた。


何かは狂いだしている。気づいて、口にして、けれど誰が救われるのか。


歪んで廻る運命の歯車はいつか、力尽きるのか。



* * *



嫌な夢を見た。


せめてそう言い切りながら、遣り場のない苛立ちと不安に一瞬固く目を閉じて、昴はベッドから起き上がる。


不意に、というよりはおそらく故意に──窺った窓の外は試すように黒くて、試された子どもは行かなければならなくなる。十日をすぎたふくよかな月の下、その黒い世界に。


日の光を鏡と弾く死の星の照らし出す、子どもを怯えさせて魅せつける、怖いような、夢の。




行かないで。もし、そう言って止める誰かがいたなら。


白く煙る朝まで引き留めて眠らせる誰かがいたなら、──まだ、嘘はつけたのか。


けれど懸けられる言葉もないままに子どもは現実と夢の狭間に捕らわれる。開きすぎて世界に破綻をきたした隙間を、自身で埋ずめるように嵌まり込みながら。遠い異教の、儀式のように。


屠所に引かれる羊の歩みで。




「……忘れないで。俺はお前の背中をずっと見てる」


それは、誰の声だっただろう?




自身に隙間を埋ずめた夢はもう夢じゃない。押し迫る現実は微かな隙間も認めない。


あの夢は過去だ。過ぎ去って今は取り返しのつかなくなった事実でしかない。




「……流星? まだ起きてたの」


起き出す音をなるべく立てないように爪先立ちで降りてゆく階段の途中で、立ち尽くす人影に行き当たった。


見慣れない場で見た見慣れた姿に、微かな違和感を感じながら声をかけると、向こうからすれば余程意外だったのだろう。無防備だった背中が大きく撥ねて、声で気づいているだろうに「……誰?」と怯えたように聞き返してきた。


「あ……昴?」


「見れば分かんだろ。何やってんの、流星」


「……昴、だよね?」


残りの数段を、先刻までよりは遠慮のない足取りで降りきって彼の方に歩み寄る。


間接照明に映し出される互いの姿を確かめてなお、流星はどことなく不安そうに見つめている。


まるで、疑うように。


「……何言ってんだよ、お前」


寝惚けてんのか。そう言い足して覗き込み、目を逸らす。


「あ……ごめん。そうだよね。昴……だよね」


「だから、何言ってんだって……」


とりとめなく独りごちる流星に答えあぐねながら、昴は一つ溜め息をつく。


一体、何を言い出しているのか、コイツは。


目の前の自分に、何を見ているのか。


(──何、を?)


「ごめん、……昴」


どうやら何か納得したらしい流星が、そろそろと両腕を伸ばし、抱き寄せてくる。


そのまま、入れ違いに固まった昴を、そうとは気づかずに。確かめるように、ゆっくりと力を籠めて。


(目の前の、──自分に)


彼は、何を見たのか。


キスしていい?──僅かに体を離して、半ば呆然としている昴を見下ろして流星が訊ね、返事も待たずに口づける。そこでようやく我に返った昴が、くぐもった声を上げて抗うように流星の肩に腕をかけた。


彼はいいだろう。確かめたのだから。──けれど自分は。


──ちょっと待てって。流星、お前。


そう言って、腕を振りほどいて。


──何、見たんだよ?


そう、問い詰めたい衝動。


「……んっ……流、」


「……うるさいよ」


身じろぎさえ許さないといわんばかりに閉じ込めてくる腕が更なる混乱に突き落として、何の答えも得られないまま、けれど最初の直感は確信へと形を変えてゆく。


彼は見たのだ。見られたくない、騙し通したかった「何か」を。



ようやく離れた唇が、そのまま首筋へと這ってゆく。それから逃れようと彼の胸に押しあてた腕を逆に掴まれて、痛いほど力を籠められて、その動きを封じられて。


生温かい、総毛立つような舌の感触。縋るように崩すように求めてくる、手のひら。


「……流星っ……!」


……教えて欲しい。答えうるものならば。


流星が何を見て、何に縋ろうとして、何を今、崩そうとしているのか。




* * *



ドアを控えめにノックする、その音で昴は目を醒ました。



あの後、まさかいつ誰が降りてくるかも分からないリビングで仕出かすわけにはいかないと、さすがに流星も思ったのだろう。昴の、力の抜けかかった体を引きずるようにして昴の部屋まで連れてゆくと、朧ろな月の明かりだけがかろうじて室内の輪郭を現すなか、力任せにベッドへ引き倒し──昼のうちに見たらしい“何か”の記憶がそうさせたのか、普段の流星ではまずできない乱暴さで目の前の昴の身体を押し開いて、強引に抱いた。


昴は抗わなかった。愛撫というには荒すぎる、そこから快楽を引き出しあう余地さえ与えないそれを、そのまま引き受けて、明け方近く、ごめんねと呟いてひどく静かに唇を寄せてきた流星の記憶を最後に、疲れきってようやく眠りに落ちた。自ら沈み込むような、夢さえ見ない眠りだった。



「昴、……起きてるか?」


ドアの外から遠慮がちな声がかけられる。天之河の声だ。窓から射し込む光は十分すぎるほど強くて、すでに真昼へとかかっていることを知らせていた。室内に流星の姿は見えない。先に起きたのか。


「……今、起きた」


まだ不安定な声で返事をすると、じゃあ、もう少しして出直そうか?──そんな更に気遣うような声が届いて、別にいいよと言おうとしてやめ、少ししたら、天之河の部屋に行くから。──そう答えた。いくら何でも、したいだけのことをさせた後の姿を曝すほど野放図にはなれない。


「分かった。ごめんな、起こして」


「……や、いいよ別に」


遠ざかる足音を耳で送って、しばらくはただ、ぼんやりしていた。そうして、とりとめなく昨日の出来事を思い返していた。昨夜の流星の行動。されるままだった自分。


自分が見た、流星も見たらしい、──“何か”。


瞬間、昴はシーツを払って撥ね起きた。



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