第1章第6話
* * *
流星は外に駆け出して、灼けるほど日の匂いのする外気を吸い込んだ。深すぎる呼吸を何度も繰り返す流星の耳にこびりついて離れない、天之河の声。
──昴。
確かに、天之河が呼んだのは昴の名前だった。
黒い影に覆い被さって、縋りつく影を抱きしめて。
「……何で」
微かに濡れて反響する喘ぎ。──あれは。
「何で……昴」
聞き間違いのしようがない、あの声。
だけど、彼は。
「……俺が出たとき、まだ寝てたよな……?」
なら、あの昴は?
自分のなかに答の見いだせない問いをひたすら巡らせているうち、背後で足音が聞こえた。天之河が出てくるらしい。咄嗟に身を翻し、倉庫の、裏庭を戻る方とは反対側の壁に隠れた。
ややあって天之河が出てくる。僅かに青ざめて見える横顔。
一つ息をつき、重い足取りで遠ざかってゆく後ろ姿を見送って、──再び、流星は倉庫に滑り込んだ。
天之河の後をつけたときと同じように最奥の扉に近づき、メッキの剥がれつつあるドアノブに手をかける。
心理的なものからではなく、重い扉。おそらく、建てられてからこの扉が開けられることは滅多になかったのだ。
ギ、と軋みながら扉が開く。真っ黒な穴のような空間。
「……昴?」
ここに来るまでに、彼には行き合わなかった。なら、まだここにいるはずだ。
「──昴。いるんだろ」
返ってこない声に重ねて呼びかけようとして──口をつぐむ。
黒い部屋の奥で、あの影が動いた。
影は暗がりのなかで立ち上がり、ゆっくりとその姿を顕す。
顔を上げてみせ、息を呑む流星を見据えて、──歪んだ笑いを浮かべた。
「怖いの、流星?……どうして?」
「……誰だよ……?」
思わず問い返す。自分が近く見知った彼からは想像もつかないほど、その笑いは何かが歪んでいた。
「……俺なのに? 分からない?」
目の前にまで歩み寄ってきた“彼”は、面白そうな玩具を見つけた目で笑っている。
「──嘘だ」
「嘘? 何が?──あいつが壊れたら、俺が“表”に出るのに?」
「──嘘だ!」
声を荒らげる流星に向かって臆するふうも見せずに、声は続けた。
「嘘じゃない。“器”なんて、入れ換えたって、それで何が嘘になる?」
面白そうに“昴”が流星に手を伸ばし、頬に触れた。その手を肩に滑らせて掴む。
凍りついたように動けずにいる流星の、もう片方の肩口に顔を埋める。
耳元を、温かくも冷たくもない息が掠める。
「……ねえ、“俺”だろ?」
「──違う」
「違う? 何で?──違うなんて、決める資格あるの、お前に?」
「──っ」
何も知らされない自分の引け目に触れられたようで、流星が絶句した。
同じ顔。同じ形。──だけどこれは。
「違う……違う! あんた誰なんだよ!」
首を振って叫ぶ流星を、意に介さない様子で──始めから用意された言葉を弾き出す機械のように、声はただ告げてゆく。隠されているはずの何かをほのめかすように、核心だけを。
「……どうせ、お前は決められた“俺”のものなんだから、……流星」
肩を掴む冷たい手に、微かに力が籠もる。
びくりと身をすくませる流星に構わず“昴”は顔を上げ、流星の怯えたような顔を真っ直ぐ見つめる。
暝い眼差しで笑って。
「取り返しておいで。“俺”に預けたお前の命、俺のために取り返してきなよ。……そうしたら」
彼の手から力が抜けて、流星が無意識のうちに後ずさる。
「……俺のために、その命、……捨てて?」
* * *
激しい音をたてて、ほとんどドアに体当たりする勢いで部屋に駆け込んできた流星を、天之河は声をかける間もなく、掴みかかられているのか抱きつかれているのか分からない体勢で抱きとめる羽目になった。
「……流星?」
「……天之河君、──何でっ……!?」
言葉が激情に堰き止められて途切れがちになる。
どう見ても尋常ではない様子に、とりあえず肩と背中を撫でてやりながら天之河が先を促した。
あの後、自分がどう逃げ出してきたのかは、流星自身にも分からなかった。“彼”は追ってくることも引き留めることもしなかった。ただ、走り通して──他の誰にぶつけていいのか分からずに、天之河の部屋に飛び込んだ。
吹き出すような汗が前髪を濡らして、額に貼りつかせている。
「……何で、……あんなの、殺せなかったんだよ……!?」
「──!」
何か、知られたくなかった何かの、その核心を知ってしまったからこそ飛び出したはずの言葉に、天之河が返す言葉を失う。目の前の流星に、瞬間、恐怖にも似た感覚をおぼえた。
「……流星……俺は」
「何で……何で、……あんなの……!」
何も言えずにいる天之河にしがみつき、そうすることで震える膝を支えながら、目の奥で、近くに見知った昴と先刻のあの顔が重なる。──同じ顔。同じ形。同じ、名前。
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「消して消して消してあたしを消して」
ヒステリックな願い。
何もできなかった少女の無差別願望。
「でもあんたじゃない」
少女は水槽からとりとめなく選ぶ。
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