第1章第5話

* * *



不意に枝を払って飛び立つ鳥の羽音が、天之河の浅い眠りを醒ました。


今日は穏やかに晴れているらしい、半ば開け放った窓から射し込む陽射しは部屋のなかにはっきりとした明暗を作りながら、ひどく静かに時間を流している。


昨夜は、眠れなかった。多分、あの二人も似たようなものだろう。流星と、割って入ってきた昴──特に流星はかなり取り乱していたから、昴は随分もてあつかったに違いない。


──流星、ちょっと。いいから来い。


言うべき言葉が何も思い浮かばず、互いに黙りこんでいたとき、昴が有無を言わさず流星を呼び、連れ出した。


無表情で部屋を訪れた昴に連れ出された流星は、翌日の今に至るまで姿を見せていない。昴とも顔を合わせていないから、あの後で二人が何を話したかは分からなかった。全てを話したのか、それとも、これ以上深入りさせないためにだけ、無難な事実をかいつまんで黙らせようとしたのか。……もっとも、あの状態で流星が耳触りのいい説明に頷くかは疑問のあるところだが、少なくとも悪いようにはしないだろう。


……結局あの人は、とことん流星には甘いから。


苦笑混じりにそんなことを考えながら、低血圧特有の、寝起きの目眩をやりすごして立ち上がる。


行くところは、決まっていた。




昨夜の雨に洗い出された緑を惜し気もなく輝かせる裏庭を抜けて、隅に建てられた倉庫に向かう。コンクリートが打ちつけのそこだけがひどく殺伐としていて、場違いというよりはむしろ忘れ去られた感があった。


ろくに手入れもされずに軋むままの扉を開けて、中に入る。埃なのか黴なのか分からない冷たい匂いが、一瞬、鼻孔を刺激した。


壁を手探りしながら照明のスイッチを押して、埃の積もった箱や本の束、元は何に使っていたのか思い出せない、錆びて油じみた古い機械の類いをよけながら奥に進むと、その突き当たりに壁と同化したような小さめの扉がもう一つ現れる。人の出入りする記憶を感じさせない、静かすぎる扉。


天之河は扉の前に立ち止まり、目を伏せた。何か、決めなければならない覚悟があるような仕種だった。


今に始まったことではない。ここに立つときは、いつもそうだった。そう言い聞かせながら──けれど今は。


「……どうして」


小さく呟いて、唇を噛みしめる。勢いでドアノブに手をかけて、引いた。


──『昴を──殺さないよね?』


あのとき、真っ直ぐに見つめてくる流星の眼差しは、見ていられずに顔をそむけてもなお、離されることはなかった。昴が部屋を訪れなければ、流星は一晩中でも納得のいく答えを求めていただろう。


だからこそ、天之河は答えられなかった。


苦し紛れの嘘なら、すでにつき尽くしていた。流星が思い出すまでの間に。


どうしたらいいのか、決められなかった。


ただ、壊れて欲しくなかった。それだけだったのに。



扉の向こうは、完全に光から鎖されていた。日の光はもちろん、人工の照明すら用意されていない、壁だけの空間。


目が慣れるまでの数歩分を、壁伝いに歩きながら、奥の方に目を凝らす。


真っ暗ななかに、更に暗い何かがうずくまっている。


天之河に気づいたらしいソレが、僅かに蠢いた。影だけの生き物のようなソレは、やがて目が慣れてくるに従って、その輪郭をあらわにしてゆく。


「何、随分久し振りじゃない? 天之河?」


聞き慣れた声。見慣れた姿。


決して慣れることのない眼差し。


天之河は一つ息をついて、ソレの前に立ち口を開いた。




「本当は、もっと早くに来なきゃいけなかったんだけど……昴」




ごめん。──それ以外に言葉のない天之河に、応えるでもなく、くつくつと笑い続ける“昴”は、天之河が普段接している昴とは明らかに異なっていた。それは、“人”としての全てを奪われた彼の、唯一の復讐にもみえた。


そのさまは、殺せずにいるより、流星に答えてやれなかったことより、何よりも取り返しのつかない、果ての姿だった。その姿はいつしか笑いを止めて、天之河をじっと見上げている。


怒るでも怯えるでもない視線から、堪えきれず顔を背けて「……ごめん」ともう一度繰り返した。





* * *



……アレは、何だろう?




扉の脇の、中からは死角になるはずの壁に背をつけて、流星が恐る恐る覗きこむ。


最初、真っ暗ななかに天之河の後ろ姿だけが微かに浮かびあがって見えた。


そうして、じっと見つめているうち──その向こうで、人影らしい何かが動いた。




昨夜は、連れ込まれたまま昴の部屋ですごした。


何だよ話があるから呼んだんじゃねえの。──静まりかえった昴の部屋で、先刻までとは違った重苦しさに沈黙を破ると、話せるコトなんて今は何もないけど。──昴に口ごもるような、けれどはっきりとした口調で言い切られた。


じゃあ何で、俺天之河君と話してたんだけど。黙ってたじゃん、二人とも。昴が入ってきたときはそうだったけど、大事な話だったんだよ? 俺、戻るよ。戻ったって天之河は何も言わねえだろ。──ずっと近くにいたはずの彼ら──特に昴から何かを隠されている疎外感は苛立ちに火をつけて、向こうもこうなったら譲らない性分だから、最後にはほとんど埒のあかない言い合いになっていた。


「じゃあ、何で呼んだんだよ!?」


邪魔するために決まってるだろう、──自分で自分に答える声が脳裡に響いたけれど、感情は止まらなかった。


何も分からなかった。二人が何かを知っているのは確かだった。何も分からない、そのことに自分が関わっているのも──何となく、感じられた。思い出してしまった“MOTHER”の記憶が絡んでいるらしいことも。


一緒にいる今のスタンスが大切だからこそ、知りたいと思うのに。


「……何で黙ってんだよ」


いつにも増して固く口を鎖している昴に業を煮やして、目にかかる前髪をかき上げる。俯きがちに外された視線は多分何も見ていないのだろう。見ているとしても床のシミだとか壁の隅の木目あたりだ。


「……昴」


「──それでも、今はまだ言えないから」


暫くして、斜め下を向いたまま昴が呟いた。


「今は、ってコトはいつか話してくれるんだ?」


溜め息混じりに語調をやわらげる。こころなしか強ばった表情をした昴の、その頬に手を──伸ばしかけて、下ろした。向かい合い、見つめたままで言葉を待つ。


「分からない。……どう言えばいいのか」


押し出された声は、低かった。低くて、苦しそうだった。


そんなギリギリの声を、これ以上引き出すことなど流星にはできなくて、あとは口をつぐむしかなかった。


「……もういい、今は。……なあ、昴」


一度は下ろした手を、今度は頬に伸ばす。微かに触れて。


昴が小さく身じろぐように反応して、けれど嫌がる様子のないのを確かめながら、できるだけそっと指を滑らせて──そのまま、抱き寄せた。


「……流星?」


されるまま腕に収まった昴が、顔を上げる。やっと、こっち見た。俯いてる間、どこ見てたの。──耳元に唇を寄せて囁くと、あの壁の一番下、影が溜まってるところ。──そんな、流星の想像と大差ない返事が返ってきた。


そんなコトだろうと思った。──少し笑いがちの声を零しながら抱きなおす腕に力を籠める。


「あのさ、……傍にいていいよな?」


「流星? 何いきなり……」


肩から顔を覗かせて見上げてくる昴に、いいから、と言い切って。


「これくらい答えろよ」


「……流星」


昴は、暫くの間黙っていた。抱きしめてくる腕。耳にかかる熱い息。触れあった胸から微かに伝わる鼓動。──今感じられる流星の全てを改めて感じとりながら、黙ったまま、やがて浮かび上がる言葉を探して、流星の背中に腕を回した。ゆっくりと力を籠めて。


「……昴?」


「……ここにいて。……流星」




窓の外では、夕方から降りだした雨が一晩中細い針を落として、その向こうは何も見えなかった。何も見えないなかに抱きあって、翌朝、二度寝に入った昴を残してシャワーを浴びて──記憶を辿るように裏庭に出て、重く湿った芝の、水溜まりを避けながら歩いていたとき、少し離れたところを横切ってゆく天之河を見つけた。




「……何だよ、あれ……」


真っ暗ななかに、それでも目を凝らして見つめているうち、やがてその輪郭が浮かび上がってくる。


直感、だった。


アレは、知らされずにいた、何かだ。





* * *



天之河は扉から漏れてくる微かな明かりに映し出される昴の、顔を隠す金色の髪をかきあげて見下ろす。


天之河の手は、こころなしか震えていた。それも昴にとってはどうでもいいことなのか、天之河のしたいようにさせながら、変わらずに見つめ続けている。その眼差しには、少しの好奇心も怯えも見いだせなかった。


頬に触れる天之河の手が、やがてぎこちなく首を捕らえる。


「……お前も、殺しに来たの」


押さえられた喉から漏れた呟きに、天之河が目を見張る。そうして初めて、真っ直ぐに向けられた眼差しが何もとらえようとしていないことに気づく。


手を止めた天之河に、“黒い”昴は口の端を歪めて笑う。


「“MOTHER”の言いつけだもんな、天之河?」


「……あ……」


「どうしたの、──できない?」


昴がまた、くつくつと笑いだす。冷たい指を伸ばし、喉を覆う天之河の手に重ねると、滑稽なほどあからさまに撥ねた。


「昴には、できたのに?」


「……っ」


天之河が、触れている昴の指をそのままに首を絞める。どうしようもない震えを、何かを握りしめることで押さえようとするかのように。それでも、手の震えは止まらない。


昴は抗いもせず、笑っている。


その嘲笑う声が、やがて喘ぎのように聞こえてきて、天之河は耳を塞ぎたい衝動に駆られる。


「……あいつも、こんな風にして俺を殺した。──憶えてる?」


掠れだす昴の声に天之河が目を閉じる。


問わず語りの声は続ける。


「……死にたくなんかなかったのに」


本音を告げる重い言葉は淡々としていて、恨みや憎しみどころか、悲しささえ感じられない。全てを奪われて、全てが通りすぎてゆく“彼”の、──それは。


堪えきれず、天之河は唇を噛みしめる。


「……お前も、同じように、できるんだろ?」


「……昴っ……」




──瞬間、天之河が絞め上げる手を離した。


急に肺へ流れ込む空気に激しくむせ込む昴の頭を抱えるように引き寄せ、口づける。


「……昴」


重ねただけの唇を離し、湿った息の触れるほど近くに顔を寄せて、天之河が低く名を呼んだ。


昴は、されるままになりながら、誰の名前だろうと思う。


「……昴っ……」


──分かっている。天之河は、殺したくなんてないのだ。


だから、あのとき、殺された自分に対して、あんなことをしたのだということも。


……分かって、いるけれど。


「……う、んっ……」


再び唇が重ねられる。天之河の舌先が昴の唇に割って入るように触れて、その形をなぞる。


息苦しさに開いた口を更に深く侵されて、昴は不意に、首を絞められた記憶を反芻した。


抱きしめるように絡められてゆく腕。首からも重ねた指からも伝わってきた震え。


笑い声のような荒い息。噛みしめられた唇。


名前を呼ぶ声。


「……っ」


二つの記憶が混ざりあい回りだすなか、天之河が舌を絡めとり吸い上げる。


昴は固く目を閉じて、深くなってゆく口づけに、やがて天之河の頭を手繰り寄せるようにして縋りついた。



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