第1章第3話

* * *



日の落ちて、暗き空にもまさる黒雲淀みて 温(ぬる)き風は枝葉を潤しにけり。山裂けわたり落ちけむかみの、天(あめ)を染むるは黒より玄(くろ)き紫の 滲める光さながら太刀走るがごと。あな恐ろしきかな、かみの轟(ごう)と叫べり。



* * *



外では今日も雷が鳴っている。それを聞くともなしに、耳に体に感じながら流星は浅い眠りに落ちる。


そういえば昔の日本語の「かみ」は「雷」をさしたりもするらしい。「雷」は「神鳴り」「鳴る神」とも書くんだと教えてくれたのは──あれは昴だ、そういうことを教えてくれるのは決まって昴だった。あのときは凄い夕立で、空が光って一瞬の後に轟くたび、天之河君が決して華奢ではない体をびくりと縮こまらせて──そちらに気を取られて聞き流してしまったけれど。──けれど、今は違うそうじゃなくて、だから。


夢を、見ているのだ。多分、今の自分は。


真っ白い、建物のなか。機械だらけの、温かさも冷たさも何もない世界。


曲がり角に隠れている小さい子どもは、多分昔の自分なのだ。


向こうには大きな円柱形の水槽がある。あのなかはゼリーのような水で満たされ、コポコポと気泡を昇らせている。


羽のように広がる、真っ白な──建物よりも真っ白な──あれは。


「MOTHER、どうして呼んだの」


まだ幼い、高い声が無心に訊ねる──水槽に向かって。今日はあなたに大事な話があるから、とどこからか優しい声が聞こえる。MOTHERの声だと本能で分かる。


呼ばれたのは、天之河君だ。見た憶えも聞いた憶えもないはずの姿と声は、けれど天之河以外にないと奇妙な確信があった。じっと、耳を澄ます。息を殺して、夢のなかの世界に。やがて声は告げる。


「昴を、殺して」




「声」に気取られたのは、天之河の姿が退いてからややあってのことだった。何も思いつかずに、隠れたままで。


流星、……悪い子、聞いていたの。──優しい声に咎める響きはなく。いらっしゃい、こちらへ。──そう続く声に逆らわず──立ち尽くしていた足を、引きずるように進めた。いくらかは怯えていたのだろう。当然だ。


そう、近くまで来てね。いい子ね。──声に命じられながら水槽の前まで導かれ、そこでまた立ち尽くす。


「……MOTHER?」


まだ変声期には至らない声が微かに震えている。「MOTHER」を見上げるのは、これが初めてだ。


怖がらないで、いい子ね。あなたに頼みたいことがあるのよ。──宥めるように前置いて、声は流星にも告げる。


「昴を──守って」


子守唄のように心地よく響くメゾソプラノ。優しい、声。


同じ優しい声で、「MOTHER」は『殺せ』と言ったのか。



* * *



何かに打たれたように目を醒まし、ほぼ同時に身を起こす。


ぶつぶつと鳴る心臓をシャツごと押さえながら、身を横たえていたソファから足を降ろした。


「──昴」


耳に届く夢ではない自分の声は切羽詰まっていて、流星は夢に夢ではない何かを辿る。


あれは、──いつのことだったか?


真っ白な世界。子ども達。水槽と優しい声。──あれは。


「──昴……!」


なぜ、今まで忘れていたのか。




あれは過去だ。天之河は「殺せ」と言われた。確かに、言われていたのだ。



「──昴!」


大事なことを忘れていた自分に愕然としながら、昴の部屋に走る。ノックもせずに、ほとんど体当たりでドアを開けた。


「……流星?」


怪訝そうに、昴が顔を上げた。ベッドに腰掛けて、読んでいたらしい本を手にしたまま。


いつもと変わらない、その姿に心なしか安堵を覚えながら、部屋に入ってゆく。


けれど、あれは──あれだって、現実だ。


「昴、逃げて。──今、すぐ」


紡いだ声はまるで余裕がなくて、この部屋に向かう途中でいやというほど感じぬいた焦燥を思い出させた。


「……流星、何言ってんの、急に?」


眉をひそめて昴が問い返す。本を閉じて向き直った表情は、切迫したものを感じとったというよりは、いきなり何を言いだしているんだコイツは、とでも言いたげだった。


その、伝わらない様子に苛立ちながら力任せに目の前の肩を掴む。咄嗟のことに、昴が抗うように腕をかけてきたけれど、構わなかった。


「だって、天之河君が……! 昴のこと『殺せ』って……!」


あれほど焦っていたのに言葉がうまく出てこなくて、途切れがちになる。


「“MOTHER”に……!」


「……」


それ以上、何も言葉は出てこなかった。





昴は長い間、黙ったままだった。返すべき言葉を選んでいるようにも、そうやって黙ってさえいれば言葉は全て通りすぎてゆくとでも考えているかのような沈黙にも、見えた。


掴まれたままの肩から、流星の手の熱さと震えが伝わってくる。彼は本気で言っているのだ。


何一つとして取り返しのつくもののない現実を流星はまだ知らない。だからこそ、今になって。


流星の激情に任せて籠められた手の力に、昴は不意に“あの日”を思い出す。


“彼”を殺した、あの日を。


「……流星」


長すぎる沈黙を昴の呟きが破って、流星がはっとして改めて昴を見下ろす。


昴は何も言わずに、肩を掴む手に自分の手を重ね、静かに剥がした。



「……昴?」


次の言葉──返されるべき何らかの言葉を待つ流星に何も言わず、ドアに向かう。


昴どこ行くんだよ。──言いながら慌ててついてくるらしい流星の気配の、──その向こう側に、あの日の音が聞こえた気がした。


全ての現実から耳を塞いでざわめく、葉擦れの音が。




……流星。




階段を降り、裏庭に続く細い廊下を、道なりに進んで行くしかないマウスのように歩きながら、後ろをついてくる足音に全ての神経が集中してゆくのを感じる。日の射さない廊下の空気はこころなしか埃くさくて、冷ややかだった。


自分は何をやろうとしているんだと思う。




小さめのドアを抜けて、そうしたらそこはもう裏庭だ。


ドアを開けた瞬間、肺に流れ込む、日に晒された風の匂い。


育ちきった緑の、深い影。


その下に、歩んでゆく。


あの「過去」を知らない人間がついてくる──いうまでもなく、知らないことは気にしようもないから、流星にとってはただの裏庭なのだろう。特別な何かを感じながら、この影の下に立つのは、今、自分だけなのだろう。


そう思うと、目の前にそびえる影への記憶はまるで白昼夢のようで、自分がひどく陳腐に感じられた。


「……昴」


木陰に立ち止まった昴に追いついた流星が、遠慮がちに声をかける。


そこで、昴はやっと振り返る。




「……今さら思い出したの、流星?」




「……昴……?」


流星が、大きな目を更に見開いて昴を凝視する。


昴の、薄く笑った顔。木漏れ日に翳る姿。


ごう、と風が唸って枝を揺らした。




葉と葉が激しく打ち合う。葉擦れの音が聞こえる。


彼を連れてゆく、全ての現実から耳を塞いでざわめく、葉擦れの音が。


そうして、じきに雨が来る。




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