第1章第1話の空白
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僕は夢を見ているのかもしれない。
近い遠い夢。白く暝い世界に広がる、耳を打つとりとめのない喧騒。
忘れるほど後ろの方で別れたはずの人が僕に笑いかける。
そしてこれは夢だと思う。
それを嘲笑うように不意に散弾銃の銃声が木立の葉を揺るがせて響く。
そしてこれは夢だと思う。
向こうの林で枝が大きく揺れて誰かが倒れた。知らないはずの誰かは『仲間』らしい。
目の前には見たこともない顔の『敵』が笑い、右手を伸ばす。
細い銀色の糸が絡みついて僕は宙に舞いばらばらに弾ける。飛んでゆく腕は僕のだ。
青い空が日の光もなく広がっているのを見ながら、顔だけの僕は落ちてゆく。
右手をおろした『敵』──彼女は笑っている。
そしてこれは夢だと思う。
けれどだから何だっていうのだろう。
夢のなかでさえ僕らは貪り喰らいあい白い骨のかけらも赤い血の一滴さえも深い深い黒い海のどこかに溶けてこの世界のどこにも残らない。
そしてこれも夢だと思う。
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『僕』が見たものは、何だったのだろう?
白と黒──『MOTHER』は便宜上彼らをそう呼び分けた。
白い彼と黒い彼は、けれどどちらも彼に違いなかったから、呼び名は一つのはずだった。昔、もうずっと昔の精神病理の観察材料が元になっているらしい。「白いイヴ」と「黒いイヴ」に分かれた心を生きていたらしい、少女の呼び分け方だ。「白」はおとなしいいい子で、「黒」はおとなしくない、──ならば悪い子とでもいうのか──あまりにも短絡的な、けれど見分けをつけるにはうってつけの呼び方を持たされた、「イヴ」ならぬ「彼」が、天之河の目の前にいた。「イヴ」ならばありえない光景だっただろう。二人は別個の体をもって一緒にいた。
天之河の目の前で、白い彼が、黒い彼を殺していた。
背後から抱きしめるように腕を絡ませて、ゆっくりと力を籠めてゆく。
そうして、金色の髪がかかる白い首を締め上げるのだ。
……そのとき、どうして止めに入らなかったのか。
同じ顔で同じ形で同じ名前の彼らは、どちらかが消えなければならないのか。
やがて、黒の「彼」の体がぐったりと崩折れた。白の「彼」は足元のそれを、じっと見下ろしている。
天之河はなすすべもなく、そのさまを見ていた。
……すると、白い「彼」がふと顔を上げた。
「……死んだの」
彼に訊ねる声は、天之河自身驚くほど低かった。低くて、場違いに浮いていた。
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死んだよ。これは死んだんだ。殺した自分に言い聞かせるように昴は呟いて、「死んだ」昴を抱き上げた。
まだ生温かい体は柔らかくて、本当に死んだかどうかは分からなかった。誰かが試しに脈をとり、これは生きていると言えば、それはそれで納得できそうにも思えた。
けれどこれは死んだんだ。声には出さずに繰り返す。
力のなくなった重い体を地下室まで抱いていき、コンクリートが剥き出しの床に放り投げる。後ろから響く足音で、天之河が地下室の入り口までついてきているのには気づいていた。
それを、強いて構わずに錆びてきしむ扉を閉める。おかしいほど手が震えて、鍵はかけられなかった。
踵を返し、振り向くと、天之河は目の前で立ち尽くしていた。
「……何だよ」
押し出した声は惨劇にうわずっていて、昴は自分の声をこれほど不快に感じたことはなかった。
「何で……お前が泣くんだよ?」
何もできなかったお前は悪くない。そう言ってやりたかった。慰めではなく。
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『ママがくたばれっていうのよ。そうしたら心から悲しんでくれるんですって。
それからパパはこういうの。
お前の母親は狂っていた。だからお前も狂ってるんだって』
かさぶたが剥がれだして閉じた口は開く。
おしゃべりが始まる。
『最後のひと声で、あたしが消えるまで』
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