管理外の一日
和泉茉樹
管理外の一日
◆
人工都市アクアリウムの作り物めいた空気は、一つの特殊性に由来していると言われる。
曰く、この都市は気象を完全に支配されているが故に、空気が不自然なのだ。
誰が言ったかは知らないが、僕としてもそれには頷けるものがある。その上で、不自然な空気だろうと、生活できればどうでもいいのだった。
ベッドの上で目覚めて、カーテンを少しだけ開く。すでに日は上がっている。都市とその周辺を覆う巨大なドームの向こうにある、これは本物の太陽の日差しが全てを照らしていた。
時計を確認、まだ七時だ。一人暮らしの大学生の怠惰な日常の中では、比較的、早起きと言えるだろう。眠気が残る頭で、今日の予定を確認する。二つ目のコマに授業がある。世界史の講義で、しかし講師が不思議な人物でおしゃべりがうまいから、ぜひ出席したいところ。
起き出して形だけのキッチンへ。冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。ついでに卵も取り出しておく。牛乳をコップ一杯、飲み干した後に適当な皿に卵を割りいれて溶いてから、電子レンジへ。卵が加熱される間に、僕は賞味期限ギリギリの食パンを手に取り、立ったままかじりついた。トーストするべきなんだろうけど、面倒だった。
電子レンジが電子音を発したので、皿を取り出す。皿の中では卵がいい具合に固まっていた。卵焼きといえば卵焼きだが、何か違う。構うものか。ケチャップを適当にかけて、スプーンで口へ運ぶ。熱い。口の中を火傷しそうだ。
こうして食事を終え、簡単に食器を洗ったら身支度をして、さっさと家を出た。
アクアリウムのはずれにある共同学生寮は、同じ建物が四棟、並んで建っている。そこに二百人を超える学生の生活が収まっているのは、考えてみれば不思議なものだ。
地上へ降りると、すでに活動を始めている学生がちらほらと見える。一コマ目の授業に出るには遅いかもしれない。僕はゆっくりと歩いて大学へ。
アクアリウムには三つしか大学がない。工科大学、総合大学、第一大学、とそれぞれに呼称されるけど、僕が通っているのは第一大学だった。第一と言っても、一番目に創立されたわけではないので、言葉遊びというか、言葉の綾、というべきか。
この都市は完全な人工の町なので、ほぼ正確な円形をなしている。中央に巨大な公園があり、そこから東西南北にまっすぐの幹線道路があって、そこから同心円状の道が無数に張り巡らされている。
建設当初の厳密な制度により、住宅が密集した地帯、商店が集中した地帯、学校が隣接する地帯、というものが存在するが、その制度は僕が生まれた頃に撤廃され、今では少しずつ、その区分けが崩れつつある。僕が通う第一大学のキャンパスも二つあり、片方は昔ながらの建物だが、もう一方は商業地帯にある。ビルを建て、一階から四階までは商店が入っているが、それより上が大学の領域だ。
というわけで、僕の足は自然と商業地帯へ向いている。路面電車が走っているのだが、僕はあまり利用しない。理由は簡単で、節約のためだ。それに歩けば運動にもなるし、店の様子を眺めるのも面白い。
交差点の一つで信号が変わるのを待っている時、街頭ビジョンに流れる文字列が目に入った。
気象が不安定になっている、という趣旨の文章だった。気象制御センターが原因を調査中、ともあった。
そういえば、ちょっと雲が多いだろうか。
まぁ、この街でも雨がないわけではない。しかし傘を用意するか。
そう思ったまさにその時、ポツリと何かが僕の頬に落ちた。何かじゃない、雨だ。
地面に一つ、また一つとシミが増え、あっという間に色を塗り替える。
唐突な土砂降りに、人々が一斉に動き出した。僕も駆け足で、屋根のあるところまで走る。
唐突な豪雨が地面を打つ音は、何もかもを圧倒するような迫力があった。
すぐそばにあったブティックの玄関に避難してから、参ったな、と思わず声が漏れていた。
今日は授業を受けた後、予定があったのだ。
女の子と会う予定が。
連絡を取るか、と僕はモバイルを取り出した。
◆
雨が降ってきたよ、と声をかけてきたのは、バイト仲間のクロエだった。
「雨? 今日の予告は晴れだったよね」
クロエの方を見ながら声をかけると、ボーイッシュな服装の彼女が肩をすくめる。一つに括られている青い髪が小さく揺れた。
「私もそうだと思っていたけどね。しかし、ものすごい雨だよ。このままだと排水溝が溢れるんじゃないかな」
ふーん、と答えながら、私は、ちょっと困っていた。
今日は大学での講義は最後の枠である五つ目のコマにあるだけで、これから半日以上は余裕がある。だからこうして朝から昼間までバイトを入れたわけだけど、その後に男の子と会う予定があるのだ。
同じ大学に通う人で、たまたまこの店で知り合ったのだけど、不思議と話が合う。最初は店で話すだけだったのが、年が近いこともあり、すぐにプライベートでも会うようになった。
このまま付き合うような形になるのかな、と思ったりもしたけど、彼が何らかのモーションを取るようではない。彼が煮えきれないとも言えるけど、奥手なだけだろう。その点は私も変わらない。
「カヤ? 何を考えている?」
思案に没入していた私がはっと顔を上げると、ニヤニヤしながらクロエがこちらを見ている。
「別に。クロエちゃん、一応、一階の荷物を上にあげておこうか?」
「雨で濡れた本なんて、はっきり言って価値がないからね。手伝って」
それから二人で一階から二階の店舗のバックヤードまで本の入ったダンボール箱を移動させた。本は、というか紙は意外に重い。何往復すると腕も腰も足も重くなった。それでも二人でやったのですぐに済んだと言える。小さな店だからだ。ちなみに店名はブックボックス。
最後の箱を二階に上げたクロエが、大げさに額を手の甲で拭うそぶりをする。
「さて、ちょっと一服してくるわ」
そう言いながらすでにクロエはタバコの箱を取り出している。階段を下りながらライターを探す彼女を見送って、私は荷物を確認し始めた。入荷した書籍を登録したり、陳列したりするのも仕事のうちだ。
手を動かしながら、私は改めて思案していた。
男の子、オスカはきっと雨でも普通にやってくるだろうけど、約束では中央公園へ行くことになっていた。屋外だ。雨、それも大雨の中ではそういうわけにはいかない。となると、どこかでお茶でも飲みながらおしゃべり、だろうか。それならお店をいくつか想定しておかないといけない。
アクアリウムの商業地区は様々な商店があるし、マイナーな店、知られていない店も多い。もっとも、そういう店は質があまり良くないので、すぐに移り変わっていく。
有名店でもいいのだけど、予定外の大雨で雨宿りをする人が大勢いるのではないだろうか。満席になっている光景が目に浮かぶようだ。それなら空いているお店を狙う方がいい。
できるだけ静かで、落ち着けて……。
本の陳列が終わり、表のドアのプレートを「閉店」から「営業中」にひっくり返す。階段の下を見るけど、クロエの姿はない。しかしかすかにタバコの甘ったるい匂いはした。すぐに戻ってくるだろう。
雨はまだ降っているようで、あまり聞いたことのない激しい音が外から響いてくる。気象制御センターは今頃、大騒ぎだろう。
私はそっとドアを閉めた。雨音は小さくなり、気にならなくなった。
◆
ブックボックスの店主は高齢の男性で、昼前にならないとやってこない。
それまではバイト組で店番をするのだけど、唐突な大雨でその店主からやや遅れるという連絡があった。カヤは何か予定があるらしく、昼前に帰って行ったけど、私は残った。
一応は大学生という身分だけど、いくつものバイトを掛け持ちしているので、学校にいる時間よりどこかで働いている時間の方が長いかもしれない。
そこまでして働く必要はないのが本来的な大学生だけど、我が家は一般的な家庭とは逆で、私が親から仕送りをされるのではなく、私の側が親へと仕送りをしている。学費は成績優秀により半分は免除されているし、矛盾するようだけど奨学金も受けている。
我ながらおかしな生活をしていると思うけど、仕方がない。何にせよ、これも家庭の事情という奴だ。
店主が来るまでの時間も、私は自前の端末で大学の講義の内容を振り返っていた。今は遠方の学生向けの録画映像が配信されているので、出席扱いには当然ならないが、何度でも講義内容を繰り返し見ることができる。
この制度のせいで、大学に出席扱いにしてもらうためだけに通うものや、制度の抜け穴を狙う学生が増えて、私としては不愉快なところだ。連中は授業の最初だけ教室にいて、すぐに退室したりするから、恥というものを知らないのだろう。
今では学生証で出欠を確認するけど、その学生証でさえ他人に預ける連中がいる。まったく腹立たしい。
なんとなくイライラしながら映像を見ているところへ、店の入り口のドアが開く音がした。小さなベルが取り付けられていて、涼しい音を立てる。
「いらっしゃいませ」
そっと端末を脇へ置いて、客の様子を見る。大学生くらいで男性で、ハンカチでしきりに額のあたりを拭い、次に首筋を拭う。そうか、まだ雨が降っているのだ。本を見に来たというより、雨宿りに来たんだろう。
彼が私に少し会釈をするので、私も笑みを返した。髪の毛をなんとなく青く染めたのだけど、それから一部の人たちからは変な目で見られるようになってしまった。この青年はそういうことには主張がないらしい。
私がさりげなく見守る前で、彼は書棚の間を行ったり来たりしている。おそらく、雨がやむまでここにいたいが、まさか書店にそこまで長居はできない、なんて考えているんだろう。私だったらそう考える。
結局、彼は小説の文庫本を一冊だけ購入すると外へ出で行った。ドアが開いたとき、まだ外からは激しい雨音がしていた。
少しすると、またドアが開いた。今度は老人が入ってきて、その人物こそこの書店、ブックボックスの店主だった。ニコニコと笑いながら私の前へやってくる。着ている服の袖、そしてズボンの裾が少し濡れていた。
「お疲れ様、クロエさん。外は大雨ですよ」
「みたいですね。事故でしょうか」
「どうでしょうね。しかし久しぶりの大雨で、新鮮ですよ」
実に温和な老人の口調に、私は自然と笑っていた。
この老人はアクアリウムが建設されるより前の生まれだろうから、故郷が別にあるはずだ。そこでは大雨が降ることもあったのかもしれない。それはまったくの自然な現象だっただろう。天候が制御されているアクアリウムが不自然なのだから。
しばらく二人で話しているうちに、十三時を告げる時計の音がした。
「おや、もうこんな時間ですか。クロエさん、今日はもういいですよ。と言っても、雨の中に送り出すしかないのですが」
本気で申し訳ないと思っている様子の老店主に礼を言って、私は自分の端末を回収した。
店を出るとき、老店主は傘を貸してくれた。
階段を降りてから外を見ると、全てが激しい雨の中に煙って見える。
やれやれ。
私はなんとなくポケットからタバコを取り出し、口にくわえた。路上喫煙は禁止だが、階段の下はギリギリ私有地だ。もっとも路上喫煙でもうるさく注意されることはない。運が悪ければ警察官に指導されるが。
煙を吸い込み、細く吐き出す。
カヤは今頃、どうしているだろう。彼氏と食事でもしているのだろうか。そんな気がするけれど、カヤの口から恋人がいると聞いたことはない。でもあの様子は、間違いなく恋する乙女だ。私にはそう見える。
私自身の恋愛を考えると、やや寂しい気もするが、友人の恋を妬む気にはならない。
人にはそれぞれ、相応の相手と、相応な付き合い方があるのだ。
改めて煙を吸い込み、ゆっくりと吐いてから携帯灰皿に吸い殻を押し込んだ。
傘を開く。紺色で、頑丈そうな傘だった。壊しちゃいけないな、無事に返さなくては、と思いながら雨の中へ踏み出す。
雨が傘を打つ音は、どこか音楽のようにも聞こえた。
一連なりの、自然の音色。
私の歩調さえも、その一部のようだった。
◆
僕は仕方なく、コンビニで昔ながらのビニール傘を購入した。
もっともそのためには三軒のコンビニを渡り歩かなくてはいけなくて、三軒目でも最後の一本が他の客の手に渡る寸前で確保できた有様だった。
しかもこの傘は子ども用かと思うほど小さい。
「これが最後の在庫でして」
僕とそれほど歳も違わないだろう店員がへりくだってそんなことを言うのが、どこか可哀想に思えて僕はその傘を買ったのだった。
表へ出ると、そこはさすがに普通の社会だけあって、無数の傘が行き来している。誰も、予告にない雨に途方にくれたりはしないのだ。
結局、僕は傘をさしたものの、半分は濡れたような状態で学校にたどり着き、講義を受けた。学生社会と一般社会は違うようで、出席している学生は明らかに少ない。ついでに講師は十五分、遅刻した。
それでもこの講師の舌の調子は普段通りで、九十分、正確には七十五分の講義は短く感じられた。
チャイムが鳴り、講師が「ここまでとします」と手元の端末を閉じたところで、ホッとした空気が室内に流れる。二コマ目と三コマ目の間には昼食のためだろう、一時間半の時間がある。学生たちはそれぞれの様子で席を立ち、部屋を出て行く。中にはまだ壇上にいる講師の元へ行き、何か話しかけているものもいた。
僕は自分の荷物をまとめてから、女の子に連絡を取った。授業が始まる前に彼女の方から、雨が酷いから大学で会いましょう、という連絡があったのだ。彼女は僕が授業を受けている時間、アルバイトをしているはずだった。
書店で出会った時、僕は実は何も感じなかった。ちょっと可愛い子がいるな、という程度の感想だった。それよりもその横に並んで立っていた青い髪の女の子に面食らっていた。
ブックボックスという小さな書店で、入ったのは古い文庫本が欲しかったからで、ネット通販にも流れない掘り出し物がここにあるという噂があったのだ。その噂自体が古いもので、望み薄だったけど、大学からさほど離れていないこともあり、足を運んだのである。
結果はといえば、欲しい本はなかった。ただ、その在庫確認のために女性店員と話をすることができた。例の青い髪の女の子は自然な様子で、相棒に僕の相手を任せた。
これがきっかけで、僕とカヤは少しずつ親しくなった。今から半年ほど前のことだ。
それでも、一緒にどこかへ出かけるくらいのもので、手を繋いだこともない。
手を繋いでどうなるものでもないのは分かっているけれど、ステップとしては重要だ。
何度か、ここでさっと手を取っても拒否されないだろう、という場面はあった。しかし僕にはそれはできなかった。簡潔に表現すれば、臆病だからだ。振りほどかれたらどうしよう、二度と会えなくなったらどうしよう、そう思うと体が動かない。
今の状態でも十分、満足だ。そう自分に言い聞かせることもあった。今の状態を守るべきだぜ、と思ったりもする。
ただ、この停滞はあまり居心地がいいものではない。
彼女を離したくない。
でも彼女をそばに引き寄せることができない。
二律背反という表現が適切かはわからないけど、僕の心は正反対の感情に引き裂かれている。
まぁ、外見上は平静だろうけど。外見にまで影響が出たら、それはそれでまずい。
ともかく、少しずつでも距離を縮めなくては。
モバイルには彼女からの連絡があり、ラウンジで待っている、というメッセージが届いていた。
僕は荷物を手に部屋を出て、エレベーターで最上階へ。第一大学の別館と呼ばれる高層ビルの最上階の一部が、学生が自由に使えるラウンジだった。眺めがいいのだが、半分はすぐそばのビルに遮られている。
エレベータが停止し、他の乗客とともに外へ出る。
通路も何もなく、そこがもうラウンジの一角である。視線を巡らせると、窓際のテーブルで席についている女の子が僕に手を振ってくる。僕も手を振り返してから、ラウンジの中央にあるサーバーで飲み物を買った。さすがに学校なのでアルコールはないが、品揃えは充実している。ちなみに食品のスタンドもある。こちらは時折、入れ替わる。
炭酸の入ったカップを片手に女の子、カヤの前へ行くと、彼女はわずかに微笑んだ。
「すごい雨だけど、大丈夫、じゃなさそうね」
かもね、と答えながら僕は自分の服をアピールしてみた。傘を買う前にだいぶ濡れて、それがまだ乾いていない。
「そちらは大丈夫だった?」
「ええ、お店にあった傘を借りてきたの」
なるほど、バイト先に傘があったとは、幸運だな。
「公園には行けそうもないわね」
カヤの言葉に僕は頷いて、ガラス張りの壁の向こうを透かし見る。
ガラスには無数の水の流れができていて、見通しはきかないけれど、それでもまだ大雨が降り続いているのはわかる。
「それにしても制御センターはどうしたんだろう? 人為的なミスじゃないよな」
「でも、誰にだって、どんなシステムにだって、間違いはあるわ。そうじゃない?」
寛大なことじゃないか。僕も見習うこととしよう。
「そうだね。雨を降らせただけで誰かが責任を取らされるとしたら、滑稽だけど」
「不憫ね」
彼女の苦笑いに僕も笑っておく。
それからしばらく、二人でとりとめもないことを話した。書籍に関するもので、彼女は書店でアルバイトをしているだけあって、新刊本にも詳しいし、客が注文した本についても知っていて、僕の知らない情報がどんどん出てくる。
ラウンジは少しずつ賑やかになり、僕とカヤの言葉は時折、かき消されて、頭の中で補正する必要があった。
「あら?」
カヤが視線を窓の方へ向ける。
僕も自然、そちらを見ていた。
◆
カイエン、という名前のバーはアクアリウムの裏通りにある。それもビルの地下にあり、目立たないというか、目につかない。
私がそこでアルバイトをしているのは、偶然に雇われ店主と知り合ったからで、働いてみないか、と誘われたのだ。
しかしこの大雨の日、私が店に入ろうとすると、地下へ通じる階段の前に土嚢が積まれていた。それをまたいで階段を降りていく。階段は少し濡れていた。地上の雨が流れ込んだものらしい。
階段の下のドアを開いて、中に入る。空気がひんやりとしていて、急に静かになった。
「おや、クロエちゃんか」
カウンターに向かう椅子の一つで、新聞を広げている青年が声をかけてくる。青年と言っても、二十代だろうけど、しかし実際の年齢は知らない。彼がこのバーの雇われ店主だった。経歴もやっぱりわからないが、私は別に知ろうという気もなかった。働かせてもらえて、給料がもらえればそれでいいのだ。
新聞を畳んだ店主が私の体をさっと眺めた。
「外は大雨だっただろう。まだ降っている?」
「降ってますよ。止む気配はありませんね。土嚢、いつ積んだんですか?」
「大雨が降り出してすぐだよ」
「え? ここにいたんですか?」
「そう。昨日の夜から寝ていない。今から少し仮眠しようと思っていたところ」
じっと店主の顔を見るが、言うほど疲れているようには見えない。表情は穏やかで、目の下にクマがあるようでもないし、ひげが伸びているようでもない。姿勢もしゃんとしている。服さえも新しく見える。
そういう人種なのだ。常に輝きを失わない、というか。
「クロエちゃん、ちょっと早いけど、店番をよろしく。僕は休む」
すっくと立ち上がると、店主はそのまま淀みない足取りで、バックヤードへ行ってしまった。私は自分の荷物を適当な椅子に置いてから、そっと椅子に腰掛けた。バーの開店時間は早すぎるほど早い十六時。まだ二時間はある。その間、講義での録画映像でも見て勉強することにしよう。地下にあるが、ネットに接続するのに支障はない。
しばらくすると、急にドアが開いて、一人の人物が入ってきた。
「ああ、クロエさん、こんにちは」
彼はまったく悪びれた様子もなく、人好きのする笑みを見せた。
「ジュンさん、開店時間っていう概念を知らないんですか」
青年、ジュンはニコニコと笑いながら私の隣の席に座ると、さりげなく頬杖をついてこちらを見た。いかにもキザで、役者っぽい人物なのだ。
「大雨で居場所がなくてね。どこのカフェもレストランも雨宿りの人で満員さ。で、ここなら席の一つでも空いているだろう、と思ったら、案の定だった。邪魔だろうけど、ちょっとここにいさせてよ」
「飲み物も食べ物も出せませんよ」
「屋根と椅子があればいいのさ」
まったく、実に自由な人である。
彼は大抵、背広を着て、ちゃんとネクタイを締めている。背広は目立たないが、少し観察すると上等な仕立てなのではないか、と思える。髪の毛は丁寧に整えられ、ヒゲも生えていない。手首には高級そうな腕時計。
そういう外見をしているのに、ただのサラリーマンには見えない。学者や、あるいは官僚の方が向いていそうに見えるけど、一方で肩幅はあるし、身のこなしなどはデスクワーク向きではないようにも見受けられる。
つまり、全くの正体不明の常連客がジュンだった。
私は彼のことは忘れることにして、自分の端末で学校の授業の続きに戻った。ジュンはといえば、店主が残していった新聞を手に取り、開いている。時折、ガサガサと彼が新聞をめくる音がする以外、店内はほぼ完璧な沈黙だった。
授業が一本分、終わったところで顔を上げると、ジュンは自分の端末を覗き込んでいる。その表情は、嬉しそうというか、楽しそうというか、実にウキウキして見えた。
外は予定外の大雨だっていうのに。そういえば、土嚢の様子を見に行った方が良かっただろうか。店主からは何も言われていないけど、仮に外が水浸しで、水が流れ込んでくるとこの地下にある店舗は営業に支障が出る。
私が席から立ち上がると、おっと、とジュンが声を漏らした。
「いきなりどうしたんだい?」
「いえ、外の様子を見てきます」
そうかい、とジュンは頷いている。
私は扉に歩み寄り、念のために床を確認した。濡れているようではない。水が流れ込んでもいない。それでもそっと扉を開くが、もちろん、大量の水が流れ込むことなどなかった。
しかし、雨音がしない。
もしや、と階段を足早に上がり、ついに地上へ出た。
光が差している。
雨は上がっていた。
なんとなくホッと息を吐き、周囲を見ると水たまりが無数にあるものの、災害には至っていないようだった。道を行く人も傘を手に提げてはいても、差してはいない。
「これで元どおりだな」
不意に背後から声がして、しかしわざとゆっくり振り返るとジュンが階段を上がってきていた。手には荷物を持っている。私の横を抜ける時に「今度は営業時間に来るよ」と声を残して、彼は通りへ進み出ていく。
何かが引っかかった。
だが何が気になるのか、すぐにはわからない。
結局、ジュンの姿が消えてから、私は邪魔な土嚢を撤去して、地下へ戻って開店準備を始めた。
私の違和感の正体に気づいたのは、この日の夜が明ける頃、バーの営業が終わってからだった。
私はブックボックスの店主に借りた傘を手にとって、それに思い至った。
ジュンは傘を持っていなかった。
何故だろう。
今度、顔を合わせた時に聞いてみるとしよう。
◆
十三時に授業が始まるチャイムが鳴っている。
場所は大学のラウンジ。
僕の前にはカヤがいて、外を見ている。僕は彼女を横目で見てから、やっぱり窓の外を見た。
雨が上がっていく。雲が鮮やかに薄れていくその向こうに、日差しが降り注ぎ。
鮮烈なほどはっきりと、虹がかかっていた。
綺麗だ、と言ったのは誰だったか。
僕だったか、カヤだったか、それとも別の誰かか。
「晴れましたね」
カヤの言葉に僕は、そうだね、と頷いてから、思い切って言ってみた。
「外を歩いてみる?」
僕の言葉に、彼女はただ頷いた。
今なら彼女に触れられるような気がする。今だけは、彼女に触れられるような気がする。
でも結局、僕は彼女に手を伸ばさない。
今はただ、この光景を、世界を乱したくない。
このまるで計算されたような情景は、触れてはいけないのだ。
しばらく二人共が椅子に座ったまま、虹を眺めていた。
虹はしばらく空にかかり、やがては薄れて消えていった。
誰かがふっと息を漏らした。きっと僕も同じだっただろう。
カヤが席を立ち、自然に僕に笑いかけた時、僕も笑うことができた。
今なら、彼女に触れられるだろう。
きっと、今なら。
僕も席を立った。
すでに地上には光が満ちていた。
雨の痕跡は、きらめきだけだった。
◆
アクアリウム当局は予定外の豪雨について、サイバー攻撃による気象制御システムの誤作動と発表した。
犯行声明はなく、また犯行を行った組織や個人は特定できていない。
予定外の豪雨による人的被害は確認されていないが、一部の家屋が浸水した。補償に関しては検討中とのことである。
なお、虹が架かったことに関しての記者からの質問には、自然現象だ、という見解が示されている。
(了)
管理外の一日 和泉茉樹 @idumimaki
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