第49話 情け
◆
俺はハバタの城へ入った。
ホタルに与したものは捕縛され、今は剣術指南役の屋敷に押し込まれているようだ。動員された足軽たちがその屋敷を包囲している。武器も没収されていると聞いた。
首謀者と目されたホタルは腕を止血され、それで絶命は免れたとケイロウが俺に教えてくれた。
二度と会うことはないはずだったケイロウは以前と少しも変わっていなかった。
本当にタンゲが命を落としたのか、疑いたくなるほど、今まで通りだった。
「まるで私の意図を知っていたようだな、オリバよ」
それがケイロウが俺に最初に向けた言葉だった、俺はただ、頭を下げるだけで言葉にしなかった。
ケイロウは一人ではなく、二人の家臣を控えさせていた。
例の白洲に面した広間で、がらんとして見えた。
そして白洲というのは不吉だったが、これからやってくるはずのものは、はっきりしている。
これからここにホタルが引き立てられてきて、首を落とされるのだ。
もはや助命を願うのも無意味だった。ホタルをケイロウは許さない。そして、腕の傷は容易なものではない。止血されるまでに多くの血を流している。近いうちに衰弱し、死ぬだろう。
いずれ死ぬか、形式に則って今、死ぬか。それだけの違いしかもう残されていなかった。
庭で声がして、ホタルが引き立てられてきた。正確にはケイロウに仕える剣士に引きずられてきた。やはりもう、足にも力が入らないようだ。
白洲にホタルが投げ出される。動きを制限するように、剣士がそばに寄り添う。
誰かと思えば、例の剣士を代表して宴に出た男だった。名前がすぐに思い出せない。
やおら、ケイロウが立ち上がると、俺の横を抜け、庭に面した廊下に立った。
「お前は何をしたかったのだ」
ケイロウの言葉に返事はない。
声を届かせようとしたのだろう、ケイロウが片膝を折る。
悪寒が走った。
俺は剣の柄に手をかけ、足に力を込める。
出遅れていた。
ホタルの目に生気が蘇る。
その体が跳ねた。
縛り付けていたはずの縄が解けている。
ホタルの右手が、自分を抑えていた男の刀を引き抜く。
その男は即座に短刀を抜いた。いや、それはどうでもいい。
ホタルとケイロウは近すぎた。
ケイロウの背中から何かが飛び出す。
俺は飛び込みざまにホタルの右腕を切り飛ばした。
勢いのままにホタルを蹴りつけ、庭から踊り上がろうとした剣士をまっすぐに切り下ろした。彼は額から首、胸までを断ち割られて、もんどり打って庭に転がり落ちた。
声が重なり合い、ケイロウを家臣が取り囲む。
俺はホタルの方へ歩み寄った。
両腕を失った女は、まだ生きていた。
「何を考えている」
俺が問いかけるのに、ホタルは表情を歪めた。
歪みきった表情は、笑みだったのだろうか。
「父が、嫌いだった」
声は憎悪そのものだった。
「剣も、この土地も、嫌いだった」
瞳から光が消えていく。
「何もかもを、壊したかった」
言葉の最後にはもう力がなく、彼女は目を見開き、目尻から雫が流れた。
そのまま、彼女は悪鬼のような形相で絶命した。
愚かなこと。
誰かがこの娘を歪めてしまったのだ。それは父親の存在だったかもしれないし、剣術だったかもしれない。もしくは、ケイロウのような有力者が、ホタルに影響を与えただろうか。
知ることはできない。ホタルは死んでしまったのだ。
ケイロウはそれからしばらくは生きていた。モモヨが呼ばれ、チセもやってきた。二人は俺の存在など無視して、ケイロウのそばに寄り添い、この権力者の命が尽きるのに立ち合った。
家臣たちも集まり、あるものは意気消沈し、あるものは涙を流した。
ホタルの遺体はどこかへ片付けられ、ハバタ家の内部にいたホタルの一派だったのだろう例の剣士も、やはりどこかに運ばれて消えた。
俺はただ様子を見守っていた。
俺に声をかけてくるものはおらず、勝手に出て行くわけにもいかず、広間に控えていた。
医者が遅れてやってきて、次に僧侶が呼ばれ、ケイロウの遺体は奥へ運ばれていった。家臣たちも、モモヨもチセもそれについていく。俺に声をかけるものはこの時もいない。ついて来いとも言われない。
無人の広間は、城の下男下女が片付けを始めた。血だまりができていたのだ。彼らが掃除を終えると、生臭さは少しは楽になった。
俺はずっと膝を折って、そこにい続けた。
遠くで読経が聞こえてくる。
ハバタ家は唐突に当主と後継者を失ったことになる。チセと夫婦になったものが当主になるのだろうが、それまでの間は誰かが統率しなくてはいけない。
何にせよ、俺には関係のないことだ。
俺に声をかけたのは、ロウタだった。
彼が足軽隊を呼びに行ったのはケイロウの口から聞いていた。俺を救うように泣きながら訴えたというが、今のロウタは涙は流していなかった。ただ短い時間で、かわいそうになるほどやつれていた。
「あんたに部屋を手配するように奥方に言われた」
俺が立ち上がると、ロウタの手が伸びて俺の襟首を掴んだ。見た目にそぐわない強い力で、引き寄せられる。
目と鼻の先に、ロウタの顔があった。
その目は血走っていた。
「なぜ、お館様をお守りできなかった。お前なら、できたはずだ」
「不意をつかれた」
ロウタの歯が噛み締められ、軋む音が俺にも聞こえた。
「最初から」
怨嗟の声は、これまでも聞いてきた。今更、驚きも、怯えもしない。
「最初からお前が、ホタルを斬り殺していればよかったのだ。違うか?」
まさにその通りだ。
俺がホタルに情けをかけず、最初に命を奪っておけば、ケイロウは死ななかった。そう予想することは容易だ。あのホタルについた裏切り者の剣士のことはあるが、ホタルが死んでいれば、別の展開になった。
考えても仕方がないことだ。
俺はホタルを殺せず、ケイロウを死なせた。
ああすればよかった、こうすればよかったと口にしたところで、現実は一つきり、今の状況以外には存在しないのだ。
沈黙する俺を突き飛ばしてから、「ついて来い」とロウタは身を翻した。
彼についていくと、ついおとといまで過ごした部屋が用意されていた。すでに日が落ちかかっている中で、もう明かりが灯されていた。
「食事はここに運ばせる。沙汰があるまで、ここにいろ」
そんな言葉を残して、ロウタは去って行った。
沙汰を待つ義理はない。時機を見て逃げ出すことに決めた。苦労しそうだが、これ以上、ここにいても危険なだけだ。
しばらくすると足音が聞こえ、食事が運ばれてきた。
入ってきたものが立派な着物を着ている、と思った次に、それがモモヨだとわかった。
頭を下げると「楽にしなさい」と声があったが、その声は枯れていた。
「これが話をする最後になるでしょう」
言いながらモモヨが膳を下ろし、俺の前に押し出した。
座ったモモヨは、短く沈黙し、わずかに視線を斜め上に向けた。
「これが定めなのでしょうね」
視線が俺の方へ降りてくる。
「剣というのは、恐ろしいものです」
彼女の声は震えを隠せず、その瞳は涙を湛えていた。
俺は彼女の目尻から雫が落ちるのを見ていた。
その雫に似たものを、ホタルも流していた。
その二つは、何か違うだろうか。
全く違うものだろうか。
わからない。
俺は目を伏せ、しかし何も言えなかった。
(続く)
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