第48話 何も考えない
◆
お互いが正眼から構えを変えていく。
ホタルの剣は右手だけで保持され、片翼のように真横へ伸びる。
俺の構えは下段だった。
足を動かす余地はない。
野性そのままのホタルの剣に、正当な技で挑むのは危険だった。
系統立った理論は、本能の前に屈服するだろう。もし俺が技をもう少し極めていれば、違うかもしれない。ホタルが本能より理論を優先するなら、また違う。
つまりこの場は、ホタルの野性をどう扱うかが問題であって、俺もまた野性のままに戦えば、おおよそ対等である。
不規則な構えでも、ホタルから感じる圧力は減じることがない。
切られるかもしれない、という不安。
切られた時のことを思う、恐怖。
しかしそれを無視することは俺にとっては日常だ。
切られることを考えずに刀を抜くものなどいない。
当たり前のこと。
ホタルがわずかに足を前に出す。
ここだった。
俺は構わずに前に出た。
足を送りながら手首を返す。
ホタルが前進、肘が不規則に畳まれる。
窮屈な姿勢から、斜め上へ跳ね上がる斬撃が来る。
それを体を斜めにして避けながら、こちらからも下段から駆け上がる斬撃。
すれ違う。
さっとホタルが間合いを取る。
その肩口が裂けている。浅い傷だが、傷は傷だ。
俺はもう一度、下段に刀を構え直す。
その天性のもの、思い切りの良さと常識に捉われない感性はホタルの方が上だろう。
しかし体に刻みこまれた闘争の原理は、俺の方が優っている。
戦いをくぐり抜ける中で磨かれていったこの感覚は、ホタルにはないものだ。
一人しか切っていないホタルと、いくつもの剣を破ってきた俺の、どうしても埋めようのない差だった。
真っ青な顔をしたホタルが、再び真横へ切っ先を向ける。
次は別の筋でくるだろう。
もう俺は、彼女が好む技を知っている。そして好まない技も。
ホタルがわずかに足の位置を変える。
これもまた、本能そのもの。
彼女が仕掛けるきっかけだが、こちらに取ってもそれは好機だった。
向かってくるとわかれば、どうとでもなる。
感じるがまま、思うがままの剣には、欺瞞がない。不規則はあったとしても、それは不規則に見えるだけの規則のうちなのだ。
両者が前に出る。
ホタルの刃が一度、横一文字に走る。俺は足を遅らせてやり過ごす。
どういう膂力をしているのか、ホタルの刃が反転、今度は逆から俺へ向かって来る。
知らない技だ。
初めて見る技だ。
しかし剣の動きは連続の積み重ねである。
俺は最低限の振りで切っ先を突き出す。
危険を察知したホタルの足が急停止、跳ねるように後退するが俺の切っ先は彼女の右肩に食い込んでいる。
細い細い血の糸を引きながら、先ほどより広い間合いをホタルが取る。
右手が震えている。すぐに肩からの血が指まで伝い、そこから刀の柄を落ち、鍔で跳ねる。
何故だ、と無言のうちに瞳が語っていた。
俺は何も言わなかった。
ホタルは技を見せ過ぎた。
カイリを切ることでまず技を見せた。
そして今、俺を一撃で屠らなかった。
彼女はおそらく最初こそ、系統だった剣術を身につけただろう。しかしそれを超えるものが自分にあると気づいた。
その常軌を逸した技はなるほど、存在しただろう。
しかし多用できるものではない。
その技は、時間を経ていないのだ。
多くの剣術は、長い時間の中を継承され、洗練されていく。同時に発展もする。これは一人の天才が成し遂げることもあれば、数え切れない凡人が無数の命を失うことで成立することもある。
ホタルの剣には、死が存在しない。
誰かが命を奪い、誰かが命を失って生じる、深みがない。
ホタルが左手を剣の柄に掛ける。
まだ諦めていないという意思表示。
俺はゆっくりと剣の位置を変える。
普段通りの、左肩を前に出し、切っ先を右から背後へ引いていく構え。
両者の間の空気が冷えていき、さらに冷えていき、やがて凍りついていく。
その凍結は時間に及び、時間の流れさえが停止していく。
血の匂いが漂う。
殺意が火花のように散るのは、幻の光景。
ホタルが構えを変え、上段に。
そう、カイリが見せたような構え。
ホタルが破った構えだ。
一撃で逆転するつもりなのか。
俺は姿勢を低くした。
ホタルは決して、カイリを真似たりはしない。
攻めを失う気性ではない。
ホタルが前に跳んだ。
遅れて地面が蹴立てられる音。
上段からの垂直の一撃。
俺は姿勢をずらす。
いや、ホタルは読んでいる。
足を送る。
ホタルはすでに地を踏みしめ、切っ先が落下を開始。
俺はホタルの右手側に回り込んだ。
目の前をホタルの剣が走る。
地面を抉る寸前に刹那の静止。
遅い。
俺の刀が走る。
体を開いたホタルが、左手一本で刀の切っ先を急上昇させる。
天に走ろうとするその刃は、しかし俺からは遠かった。
戦いの非情をホタルは感じただろうか。
俺は彼女が右手ではもう刀を十分に扱えないと知っていた。
だから彼女の右手側へ移動したのだ。
二度目の攻撃があるなら、左手一本で来ると予想できた。
まさにその通りになった。
彼女を切ることはできる。
できるが、俺は寸前で目標を変えた。
溜めを作り、時機を合わせて一閃。
俺を殺すつもりだっただろうホタルが、身を引いたが、これも遅い。
引くくらいだったら、初めから間合いを取るべきだった。
最後の最後で、彼女は恐怖したのだろうか。
右に跳ねながら繰り出した俺の刀がホタルの左腕を切り飛ばした。
胴を切ることもできた。そうすれば致命傷だっただろう。
しかし俺はそれを回避した。
刀を掴んだままの腕が宙を舞い、周囲を囲む男たちの中に落ちていく。
ホタルは声をあげなかった。
下がった勢いのまま尻もちをついて、倒れこんだ。
静寂の後、周囲の男たちが声をあげ、一斉に刀を抜いた。
十人を切って捨てることができるかは、わからない。
しかし切るしかないのなら、切るまでのこと。
十の切っ先を前に、俺はただ、冷静だった。
切るべき相手を切った。
ならもう、思い残すことはない。
生き延びれば、また何かを思いつくだろう。
十の刃をことごとく折れば。
唐突に喚声が聞こえた。
地鳴りのような音。蹄が地面を蹴りつける音。金具がぶつかる音。
全てが一緒くたに押し寄せてくる。
ハバタ家の足軽隊が到着した。
ホタルは気を失い、倒れている。
彼女を支持する剣士たちは、数に圧倒されたか、それぞれに刀を放り出した。
決着は一人が倒れることでついた。
それを良いことだと見るかは人の自由だ。
俺はどう思うだろう。
血は確かに流れた。
その血は、必要だったのか、不要だったのか。
剣は何も考えない。
俺は剣そのものとして、一つの剣を破った。
今、俺は剣から人へ戻ろうとしている。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます