第46話 戻るか、進むか

      ◆


 朝、目を覚ますと老人も老婆もいなかった。

 反射的に刀を探すと、寝る前に置いた場所、体のすぐそばに放り出してある。銭は、と確認するが、懐にあった。懐を探る時、まだ自分がむしろにくるまっているのを理解した。

 起き上がったところで、戸が開き、冷たい空気が吹き込んでくる。

「起きたかね」老婆が桶を運んでくる。水が入っているようだ。「行儀のいい剣士だこと」

 どうも、などと言いながら俺は立ち上がり、むしろを小さくまとめておいた。行儀がいいというのは、寝相のことだろうか。

 顔を洗いなさいと桶を指差されたので、そこの水で顔を洗う。かなり水は冷たい。井戸で汲んだのだろうか。懐から手ぬぐいを出そうとすると、そばにいた老婆が貸してくれた。

「その辺にいなさいな。また雑炊で悪いが、作ってやろう」

 ありがとうございます、と咄嗟に言っていた。昨夜の雑炊を思い出せば、文句のつけようがない。

 しばらく待っていると、老婆が鍋で雑多な野菜くずらしい具材を煮始め、味噌を放り込み、そしていつ炊いたかわからない飯のようなものを放りこんだ。この時点でだいぶ食欲をそそられる匂いがする。

「旦那さんはどちらへ」

 老人が帰ってこないのでそう確認すると、「寒天の手伝いさ」と老婆が答えた。

 詳しく聞いてもよかったが、理解できない気もして、やめておいた。

 雑炊が出来上がる頃、老人が戻ってきた。老婆が「早いね」と言葉にしていたが、その続きを言う前に老人が何か耳打ちし、老婆は真剣な顔で一度、頷いた。

 それから俺を見ると「ついて来るんだ」と土間に降り、戸の方へ行く。

 ついて来いと言われても、何があるのか、想像がつかない。それでも俺は老婆とともに外へ出た。有無を言わさぬ何かがあったからだ。外の空気は張り詰めたように冷たい。すでに日が差しているが、息は真っ白になる。

 どこへ行くかと思うと、老婆は俺を建物の裏手に連れて行った。そこに小さな小屋があり、立て付けの悪い戸を開くとそこにはむしろが放り込まれている。どれも新しそうで、藁の匂いがどこか生々しい。

「ここにいなさい。いいね」

「え?」ここというのは、どこのことか。「この小屋にですか? 何故?」

「剣士を探しているものがいる。だからむしろに混ざっていなさい。いいね」

 いいねも何も、剣士を探している?

 さ、さ、と促されたので、俺は仕方なくむしろとむしろの隙間に体を押し込んだ。空間が限られるので、圧迫される。埃が酷くて、くしゃみが出そうだ。

 老婆はあっさりと戸を閉めてしまった。壁に僅かに隙間があり、光がかろうじて差し込むが、薄暗い。ちょっと体を動かすとむしろ同士がこすれて盛大な音がする。

 しかし、誰が誰を探しているんだ? 老夫婦はどうして俺を助ける?

 仕方なく突っ立ったまま、たまにむしろに寄りかかったりして、俺は時間を過ごした。腰には刀があるが、仮に誰かが戸を開けて問答無用で襲いかかって来られたら、こちらには刀を抜く余裕はない。動きが制限されすぎる。

 誰もこないことを願いながら、だいぶ時間が過ぎた。

 寒さはむしろに包まれているので感じないが、さすがに足が疲れる。歩き続けるよりも立ち続けるほうが疲れるものだ。

 勝手に出ていいだろうか、と真剣に吟味しようと思った時に足音がした。小さな音で、一人のそれだ。

 戸がガタガタ音を立てて開かれる。俺は一応、むしろの陰になるように体の位置を調整した。

「もういいよ、出ておいで」

 老婆の声だ。俺はむしろをかき分けて外へ出た。反射的に深呼吸して、埃を吸い込んで咳き込んでしまった。そんな俺の背中を撫でながら、「安心をおし」と老婆が言う。

「とりあえずは中にお入り。話はそれからだ」

 回復した俺は全身の藁の埃を払いながら、母屋へ戻った。

 老人の姿はなく、どこかに働きに行ったのかもしれない。老婆は雑炊を俺に用意しながら、説明してくれた。ちなみに雑炊は明らかに煮過ぎていて糊のようだ。

「ハバタの家のものが、旅の剣士を探しているそうだよ。なにやら大事のようだったが、尋常な様子ではない。殺気立っていた。まぁ、うちの旦那があんたが件の剣士だろうと、揉め事になるから隠せというから隠したということ」

「ハバタ家のものが」

「あんたのことかい。別人かい」

 器を受け取りながら、「たぶん、俺ですが」と答えるが、老婆は気にした様子もない。

「あんたが何かしたってわけでもなさそうだが、本当はお尋ね者かね」

 難しい問いかけだ。

 俺を探しているもの、追っているものがいないとは言い切れない。

 答えない俺の様子で、老婆は何かしらの見当をつけたようだ。

「ただの無害な若造ではないらしい」

「ええ、まあ、そんなところです」

「今、旦那が様子を聞きに行っている。すぐに戻ってくる。さっさと食べておしまい」

 礼を言って、俺は雑炊を食べ始めた。雑穀は完全に溶けて糊になり、その中に細かな野菜の欠片が混ざっているという、なんとも言えない有様だが、味に大差はない。大雑把な味付けで、その味が濃くて、野菜もどこか青臭く、ともかく混沌とした味だ。しかし不快ではない。

 食べ終わって少しすると、老人が戻ってきた。その老人が長く、長く、長く老婆に耳打ちをして、土間から座敷へ上がると、残っていた雑炊を食べ始めた。

「なんでも」

 老婆が説明を始めるので、俺はそれに耳を傾けた。老人がなぜ自分で話さないのかは疑問だが、気にするほどのことではない。

「ハバタのお家で謀反のようなものが起こっているそうだ。城で刃傷沙汰があり、ハバタ様の血筋の者が死んだと言う。それで、城に滞在していた剣士を呼び戻すように、ということで、方々を城のものが駆け回っているようだぞ」

 謀反? 刃傷沙汰?

 血筋の者が、死んだ……。

「お前がハバタの家にいた剣士だね?」

 老婆の言葉に俺は無言で頷き、その間も考えていた。

 俺がハバタの街を出たのはつい昨日の朝のことだ。たった一日で、何が変わった? 何が起こったのだろう。

「戻るかね」

 老婆の問いかけに、俺はどうとも答えられなかった。

 ハバタの家とはもう関係はなくなった。俺は旅に戻り、この地を離れ、もっと遠くを目指していくのだ。

 それを誰も止めることはできない。

 止めるのは、自分だけだ。

 戻るか、進むか。

 誰の血が流れたのか。

 誰が何をしたのだろう。

 どうして俺を呼び戻そうとする。誰が呼び戻そうとする。

 ケイロウか。

 脳裏に浮かんだのは、しかしチセのことだった。

 あの眼差しにあるのは、苛立ちであり、怒りであり、しかし同時に、軽蔑だったのではないか。

 彼女は俺を必要としないだろう。

 俺が戻るということは、余計なことかもしれない。

 しかし自分が知っているものが倒れたこと、混沌に飲み込まれていくのを見逃すことが、できそうになかった。

 これは俺自身が、ホタルに言ったことだ。

 ホタルは剣を暴力と言ったはずだ。相手を切る道具だと。

 俺はそれに対して、剣で守れるものがあると、そう応じた。

 今、俺の剣は誰かを救えるのではないだろうか。

 救うことができるのに、この地を離れていいのか。

 結局、俺は誰のためでもなく、過去の自分のために引き返すしかない。

「お世話になりました」

 老婆、そして老人に頭を下げ、銭を渡した。銭を差し出された老婆は、何も言わずに受け取るだけだった。

 励ましの言葉も何もなく、無言で老夫婦は俺を送り出した。

 道を進む。俺は元来た道を戻って行った。足が早まりそうになるが、ぐっと堪える。考えをまとめ、何があっても対応できるように準備をする時間が必要だった。

 空気は冴え冴えとして、澄んでいた。この日も空はよく晴れている。

 空気が普段よりも透明に思える。

 俺の心の中が濁っているのが、よくわかった。

 迷いを、雑念を振り払わなくてはいけない。

 誰かを切ることになるだろうか。

 そうなっても、後悔はすまい。

 その一事だけを念じ続けた。

 やがてハバタの街が遠くに見えてくる。この日も間道を行く人はまばらだった。



(続く)

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