第45話 離脱

      ◆


 その日も重い雲が垂れ込めていた。

 この街の冬はこれが普通だと、さすがに俺もわかってきていた。

 明日の朝には出立したいとケイロウに伝えると、彼は鷹揚に頷いた。

「どうやらこちらも落ち着いてきているからな、引き止める理由はない」

 ホタルが剣術指南役となり、稽古が始まっていた。特に問題はなく、ホタルもあれから何事もなく日々を過ごしているようだ。城ではなく、剣術指南役の屋敷に戻っている。あの屋敷は名実ともに、ホタルのものとなったのだ。

 もしホタルに関して何かあれば、彼女に俺がぶつけらただろうが、そんな事態は起きなかった。俺としては正直、ホッとした。

 ここまでの旅で大勢を切ったが、切ると定めて切ったのがほとんどであり、ホタルを切るのはどうしても気持ちが定まらなかった。ケイロウのために切る、などとは思えない。タンゲのために切るとも思えなかった。

 ともかくそれは杞憂となった。

 もう終わりだ。

 部屋で火鉢に手を当てながら、ケイロウが微笑む。

「何か欲しいものはあるか」

「いえ、これといって、必要なものはございません。むしろ今まで、食事などのお世話になり、ありがたく存じます」

「そのようにかしこまることはない。私はお前をいいように利用したのだからな」

 それは正確な状況判断だし、今、気付いたわけじゃないだろう。つまりケイロウは意識的に俺を都合よく利用し、それをこうして明かしたことはもはや用はないと明言しているということだった。

「少しの路銀を出そう。それくらいの礼はしたい」

 ケイロウの申し出に、ありがとうございますと俺は頭を下げた。

 それからケイロウは世間話なのだろう、寒天の出来について話していた。この地で生産される寒天は質が良く、都で高く売れるらしい。そこからの税が小さな額ではない、ともケイロウは口にした。

「民が潤えば私たちも潤う。これは戦で田畑を荒らし、働くものを殺すことよりもはるかに意味がある」

 そんな言葉もあった。

 剣士であるところの俺に、何かを言い含めたかったのかもしれない。

 剣を振るものより、鍬を振るものの方がこの世のためだとは、俺も知っている。

 それでも剣を手に取るのは、何かに魅入られているからだろう。

 俺は丁寧に礼を言って部屋を出た。自分の部屋へ戻る途中で、思い切って別の廊下へ進んだ。城の奥へ進み、閉じられた襖の前で膝を折る。

「タンゲ様。オリバです」

 声をかけると、短い返事があった。俺は襖を開けなかった。

「明日の朝、この地を発つこととなりました。ご挨拶をと思いましたが、襖のこちら側で、失礼いたします」

 構うな、と声があった。

 あの宴の席でホタルに襲いかかったタンゲは、あれ以来、この部屋で謹慎を命じられていた。一日のほとんどをここで過ごしているようだ。

 俺が見たところ、モモヨは不安そうにし、チセは逆に苛立っているようだった。親子の間では、ケイロウだけが普段通り、平然としている。

「腕のお加減はどうですか」

 そう声をかけてはみたが、気にするな、と返事があった。

 他に何を言っていいかわからず、俺はしばらく口を閉じていた。タンゲは確かに部屋の中にいるはずなのに、襖一枚を隔てだけで気配は薄くなり、まるで存在しないようだった。

 声を待ったが、タンゲは俺に声をかけなかった。

「では、またいつか、道が重なることがあれば、お会いするでしょう。失礼いたします」

 立ち上がろうと足に力を込めた時、オリバ殿、と声がした。

「なんでしょうか」

「さらば」

 短い声だった。俺は、は、と短く応じて今度こそ立ち上がった。

 廊下を進んでいくと、角を折れてくるチセと行き合った。脇へ身を引いて頭をさげると、少女が俺を強く睨みつけてくる。

「この地を離れるとか」

「はい、お世話になりました」

「こちらこそ」

 チセの言葉は端的だった。苛立ちを俺にぶつけているのは露骨だったが、彼女の苛立ちをどうすることもできなかった。

 彼女はまるで、すべてに苛立っているかのようにも見えた。

 兄にも、父にも、剣術指南役にも。

 あるいは死者にも。そして当然、俺にもだ。

 口元を引き結んで俺の前をチセが通り過ぎていく。俺は頭を下げて、彼女の足元を見ていた。着物の裾が見えなくなり、足音が消えていくまで俺は頭を下げたままにした。

 部屋に戻り、身の回りの物を整理し、荷物を用意した。その時にはもう外は暗くなり始めていた。

 夕食は部屋に用意された。その時に小さな袋が渡され、持ってきた城のものは「ケイロウ様からです」とだけ口にした。

 食事の後に袋の中の銭を検め、その額の大きさに少し驚いたが、ありがたく頂戴することに決めた。銭があって困ることはない。それにこれは、ケイロウ自身が俺のことを落着させるための額かもしれないのだ。

 銭で誰かの俺への罪悪感が消えるとも思えないが、少しは楽になるだろうと想像できた。

 布団で休み、早朝に目が覚めた。布団を片付けていると、城で働く下男のようなものが来て、「粥を用意しました」と教えてくれた。すぐに部屋に用意され、素早く腹に収めた。まだ外は薄暗い。空は晴れているようだ。

 着物を整え、背中に荷物を背負う。腰に刀を差した。

 ケイロウの元へ挨拶に行った。彼は朝食の最中で、短い言葉の最後を「さらば」という一言で結んだ。それはタンゲが口にした言葉と同じ言葉だ。

 俺は改めて礼を言ってその場を辞した。

 一人で廊下を進み、これも頂戴した新しいわらじで外へ出る。曲がりくねる短い道を抜け、門をくぐる。門衛はすでに立っていたが、俺には視線を向けただけで、何も口にしない。

 ハバタの街はまだ半分は眠っていた。市が開かれているわけでもなく、道を行く人は少ない。荷車が何台かゆっくりと走っていた。蕎麦屋では何を生業にしているものか、二人の男が蕎麦をたぐっているのが見えた。

 俺にはもう何の用もない。

 街を貫く通りを進み、そこから街道の脇道、間道へ入る。そこを歩いていくうちに周囲は明るくなる。ケイロウが用意してくれた着物は厚手のもので、俺はその上にさらに羽織を羽織っていた。目立たない地味な羽織なのがありがたい。

 息が白く染まる。胸の内側がひんやりとする。

 畑か田んぼだった場所に台が並び、何かが載せられている。あれが寒天だろうか。働いているものもいるが、台の上の何かを動かしている。ひっくり返しているようだ。

 そんなものを横目に道を進む。少ないが、向かいから歩いてくるものが何人かいる。商人体でもなく、しかし刀も帯びていない。何をしている人だろう。

 ともかく先へ進む。太陽が上がると少しずつ暖かくなる。体自体も熱を持っている。

 途中に茶店があったが、雑煮を出す店て、朝に粥を食べたこともあり、やめてしまった。茶をもらい、後は餅があるというので、それをもらったが、団子ではない。だいぶ前についたようで、硬い。四角く切り分けられているが、乾燥もしているので表面にヒビが入っている。

 ちょっと炙れば柔らかくなります、と言われたが、どうやって炙れというのか、疑問だった。炙って客へ出せばいいのに、と思ったが、何か理由があるのだろうか。

 茶店を出た段階で嫌な予感がしていたが、どうもこの道は利用者が少ない。先へ進むしかなく、人気が絶えた時になって宿場が遠いことが理解できた。もう茶屋も見当らない。あるのは百姓の住まいくらいだ。

 昼間を過ぎ、夕方になるまでに宿場があるか、と期待したが、なかった。そもそもからして道を行く人が極端に少ない。

 あの乾いた餅は保存がきくもので、つまり、野宿か何かを想定しているのだとわかったが、どうでもよかった。何か、小屋でもあればそこで過ごすしかない。

 ただ、運がいいのか悪いのか、百姓の住まいらしい小屋が日が暮れるところで、見つかった。

 思い切って戸を叩くと、返事の後に背の小さい女性が出てきた。高齢だ。

「なんでございましょう」

 声は嗄れているが、聞き取れなくはない。

「土間でもいいから、貸してもらえないだろうか。泊まるところがない」

 老婆は俺の姿を確認するような視線の動かし方をした。普通の百姓は、剣士を相手にそんな露骨な動きはしない。年を重ねた分、肝が太いのだろう。

「お入りなさい」

 まるで子ども相手の口調だったが、気にする俺ではない。

 中に入れてもらうと、暖かさが実感できた。土間から一段高い一間があるだけの室内では、老婆の夫だろう年老いた男性が何かをわらで編んでいた。むしろのようだ。

「失礼いたします」

「腹は減っているかね」

 老人は無言で手を動かしていて、老婆がそう尋ねてくる。

「いえ、お構いなく。寒さをしのげればそれでいいのです」

「どうせ、これから飯だから、食えばよろしい」

 実に圧力の強い老婆である。しかし嫌いではない。

 では、と俺はわらじを脱ぎにかかった。

 老人はまだ黙っている。老婆は切ってある囲炉裏の上にかけられた鍋に、何かを雑に放り込んでいる。

 こうして雑炊のようなものを食わせてもらったが、この雑炊は実に不思議な味がして、しかし旨かった。ハバタ家で食べたものがお上品だったことに、この時になって理解が及んだ。

 俺にはこういう雑でいい加減な飯の方が合っている。

 老人は無言で雑炊を食い、またすぐに作業へ戻った。老婆は食器を片付け、俺に「布団はないでな」と言ってむしろをくれた。

「編んだばかりで綺麗なものだ。遠慮はいらん」

 俺は笑いをこらえながら、「ありがとうございます、お借りします」と丁寧に頭を下げた。

 夜が更け、誰が何を言うでもなく、自然と老人も老婆も仕事をやめて、それぞれに布団を敷いて、明かりを消した。俺は土間にむしろを敷いて、余っている分を体に巻きつけておいた。

 久しぶりに解放感を感じた。

 あの城は、居心地が悪かったのだ。

 この小さな家の土間に寝ている方が、俺にはふさわしい。



(続く)

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