第44話 暴力
◆
「裏切りなどとは思っておりません」
思っていない。
「あなたはタンゲ殿と約束したはずだ。カイリ殿を切らずに済ませると。しかしあなたは切った。これは裏切りだろう」
「言葉の綾でしょう。切らずには済まなかった。あなたの方こそ、それを知っているはず」
脳裏によぎったのは、カイリの最後だった。
死はほぼ確実だった。それをホタルがとどめを刺した。
慈悲だろうか。
そうは見えなかった。
しかし形の上では慈悲だ。
「あなたのことがわからない、ホタル殿」
「わかってもらおうとは思いませぬ」
先ほどのことを確認する気になった。
「タンゲ殿を殺すつもりだったのか」
その言葉に、ホタルの視線がはっきりと俺を向いた。
「殺すつもりだったのは、タンゲ殿の方です。私は身を守っただけ」
「だが、あなたはタンゲ殿を組み伏せ、腕を破壊しようとした。それは死ではないにしても、死に限りなく近い。あなたにはやはり、もっと軽く済ませる余裕があったはずだ」
「余裕とオリバ殿は口にされるが」
ホタルの目が明かりを反射し、赤く光る。
「オリバ殿は手合わせをする時、剣を抜いた時、余裕を意識することがおありなのですか」
そんな余裕を、俺は知らない。
俺は余裕を感じたことはない。
その方向から、ホタルは俺の理屈の空虚さをはっきりと浮き彫りにしていた。
俺は口だけのことを、ホタルに向けている。ありもしない、起こりもしないことを、刀を鞘に収めた後に検討しているようなもの。
「私の考えでは」
静かなホタルの声だけが、広間に流れる。
「剣を抜いたものは、死を受け入れているも同然。あの時、タンゲ殿は私に殺されることを受け入れたのです。受け入れていないと主張したとすれば、それは間違いです。私を殺したいという一念が、裏を返せば、殺されてもいい、という宣言なのです」
「相手はまだ子どもだ」
「子どもだったら、許されるのですか? 殺されずに済みますか? 例えば罪を犯しても、罰されることはありませんか?」
正論だった。
子どもを慈しみ、見守る必要があるとしても、タンゲの選択は極端だった。弁明の余地がないほど、大胆で、明らかな間違いだった。
「ホタル殿は」
これはとっさの思いつきだった。しかし気づいてしまうと、ありそうに思えた。
「ホタル殿はそのように、アマギ殿に教えられたのですか?」
今までまっすぐに俺を見ていたホタルの視線が横へ逸らされる。
「そのようなこともあったかもしれませんね」
「子供でも容赦するなと、そう教わったのですか?」
「いいえ、そのような細かいことは、知りません。父もそこまで、私を信用していなかったわけではないのです。ただ、私を信用しすぎたのも事実」
「何があったのです」
返事はない。
また静寂がやってくる。
俺はホタルから視線を外さず、その姿を見た。
ホタルがただ、剣を習っただけではないと、わかってきた。
この女性は、暴力を振るうことを、理解しすぎるほど理解している。暴力が何を生み出すか、何を否定するか、それを知っている。
だからこその、あの覇気なのだ。
剥き出しの暴力、破壊衝動を、彼女はその内側でどこまでも深化させている。
あるいはアマギが、彼女に暴力を最初に教えたのかもしれない。それが罵声を浴びせることだったか、竹刀で打つことだったのか、それはわからない。もしかしたらもっと酷い暴力や屈辱が、ホタルの身に降りかかったかもしれない。
もう知りようがないことだし、知ったところで仕方がない。
アマギがもし、最高の剣士を作ろうとして娘に接したのなら、それは成功したのかもしれない。
しかしアマギが、人間らしい剣士を作ろうとしたのなら、それは失敗した。
ホタルは剣士だが、抜き身の刃のような剣士だ。まるで意思を持った刃だった。
「人を斬ることの恐ろしさが、わかりましたか」
そう声をかけるが、ホタルは反応しない。どこを見ているのかも、判然としなかった。
「暴力の恐ろしさを、あなたが知ることができたのなら、カイリ殿も満足でしょう」
「暴力……?」
フッとホタルが笑みを浮かべる。
闇に浮かぶそれは、背筋が冷えるような、笑みだ。
「そんなものは、剣を手に取った時から理解しています。しかしもはや恐怖など、飼い慣らしました。それが私に求められていたのですから」
「それは、アマギ殿に?」
「剣にですよ。剣が私を呼ぶのです」
どこか上ずった声でホタルが言葉を紡いでいく。
「剣は人を殺す道具、暴力を形にする道具です。私はその剣に求められて剣を取り、剣の求めるがままに刃を振るうのみ。そこには感情はありません。倒すべき敵を、最後の一人まで倒す。それだけのことです」
「倒すべき敵とは、ケイロウ様のことですか」
返事はないと思っていたが、ホタルは静かに応じた。
「私の前に立つものは、全て敵です。それはオリバ殿、あなたも例外ではないのですよ」
「俺と手合わせをするつもりか」
「あなたがここを出て行くと聞かされなければ、そうしたでしょう。しかし逃げていくものを、追う理由もない。これからやってくるものは大勢いるのですから」
いよいよ表に出てきたどす黒い狂気に、俺は気分が悪くなりそうだった。
「剣で、ハバタの家を守るのが、あなたに任された使命のはずだ」
「敵を切れば、それでいいでしょう?」
「人を守るために剣を取ることを、あなたは覚えるべきだ」
「死体の数で、守ったことを証明してみせます」
どこまでいってもこの女性は、剣を振り続けるだろう。
死ぬまで。
どれだけの相手が骸に変わっても、死ぬまで刀を握り続ける。
悪鬼、剣鬼というべきか。
また沈黙がやってきて、俺は静かにホタルを見、ホタルはどこかをぼんやりと眺めていた。
「失礼する」
俺が立ち上がると、「オリバ殿」と声がかかった。
ホタルは座ったまま、こちらを見上げている。
「あなたの剣も破ってみたかった」
俺はホタルを睨みつけたが、ホタルは悠然と構えていた。
「俺は、無駄に剣は抜かない」
「あなたの言う、守る剣とやらいうものを見てみたかったわ。心から、楽しみしていたのに」
剣と剣でなら、あるいはこの女性とも会話のようなものができるかもしれない。
しかしそれは危険すぎた。死と血の匂いが濃密に漂う空想を、俺は振り払った。
「俺は安堵していますよ」
残念、とホタルが小さな声で言った。
俺は広間を出て、足早に廊下を進んだ。酒を飲みすぎた自覚はなかったが、いよいよ気分が悪かった。女剣士の気に飲まれただろうか。あの瘴気に。
自分の部屋に戻り、勝手に布団を敷いて横になった。布団を体にかけるが、いやに寒い気がした。酒を飲んで熱いはずの体が、震えだしそうだった。
ホタルを切れるか。
ケイロウがそんなことを言い出しそうな予感がした。
切れるか、だって?
切らなければ、悪いことが起こりそうな気がする。しかし切れる自信はない。そもそも今は、切る理由がない。彼女の技にも興味は惹かれなかった。あの技を俺は使えない。何より、あれは合理的ではない。
俺は目をつむり、周囲の音に耳をすませた。
静かだった。
この夜は久しぶりに、なかなか寝付けなかった。
あの灯りの中に揺れる影が、まぶたの裏に現れて、動き続けた。
時折、影の中にホタルが見えた。
あの笑み。
自然と、肩が震えた。
(続く)
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